第六十話「六十日分の、医者」
執行の朝。
空が青かった。
遥は、最後に見る景色を目に入れた。
中庭の向こう側、回廊の切れ目から、城壁の外がわずかに見える。丘陵が遠くまで続いて、薄い緑と茶色がまだらに混じっていた。あの丘の向こうに、ライアンの実家がある北部の農村があるのだろう。馬がいて、母親がいて、急いだ字で手紙を書いた人がいる。
風が少しあった。冷たかったが、肌に心地よい冷たさだった。秋の終わりの空気には、枯れ葉と土と、かすかに煙の匂いが混じっている。どこかの暖炉に火が入ったのかもしれない。
遥は前を向いた。
もし次があるとすれば——
また精神科医になりたいと思った。
どこでもいい。どんな世界でも。話を聞く仕事がしたい。何の力もなくても、薬も道具もなくても、言葉だけで少し誰かの重さを半分にできるなら。
前世の最期を思い出した。あの日、診察室の蛍光灯が白く光っていた。患者の手が首にかかったとき、遥が最後に見たのは天井のシミだった。白い天井、四角い部屋、消毒液の匂い。あの瞬間、遥は後悔していた。もっと診られたはずの人がいた。カルテを閉じて帰った午後があった。夜間の呼び出しに応じなかった日があった。
今日、最後に見ているのは青い空だ。天井はない。壁もない。六十日間いた石の牢の冷たさは、もう背中にない。
あの日と、今日は違う。
前世のクリニックには道具があった。カルテ、薬品棚、電子機器、予約システム。ここには何もなかった。石の床と松明の火と言葉だけだった。それでも何かができた。聞くことは、場所を選ばない。道具を選ばない。権力もいらない。死刑囚の牢の中でも、できる。
この世界では、一つのことしかできなかった。でも、一つでよかった。
四人と、何かを交わした。ライアンとは長い時間をかけて。咳の音から始まって、名前を呼ぶところまで来た。エドモンドとは二週間。「妻が問題だ」と言っていた人が「一緒にいることを選んでいる」と言った。ヴィヴィアンとは、少しずつ言葉が増えていった。引っ込めかけた「桃が食べたい」をもう一度口にした日があった。王とは三日間だけ。「眠れていない」と、あの人は認めた。時間は違う。でも、それぞれの中に何かが残った。
前世のクリニックでは「もっと時間があれば」と思うことがあった。保険の制限で、予算の都合で、途中で終わる治療があった。ここには六十日という制限があった。最初から終わりが決まっていた。でも——前世より後悔が少ない。不思議なことだった。何もない場所で、限られた時間で、やれることを全部やった。
遥は目を閉じた。
足元の石の温もりが、靴の薄い底を通して伝わってくる。陽の光が瞼の裏を赤く明るくした。風が頬を過ぎていく。遠くで鳥が鳴いている。門の方から、誰かの衣擦れの音がかすかに聞こえた。エドモンドとヴィヴィアンだろうか。二人は、並んで立っているだろうか。
六十日分、医者をした。
前世で患者に殺された精神科医が、最後まで精神科医だった。悪役令嬢は処刑される。でも柏木遥は、最後の朝まで診ていた。
目を開けた。
空が、青い。
あの石の牢からは見えなかった空だ。六十日間ずっとそこにあったのに、今日初めてちゃんと見ている。広い。どこまでも広い。この空の下で、ライアンは実家に帰るだろう。エドモンドとヴィヴィアンは、明日も隣に座るだろう。王は——眠れない夜に、あの問いを思い出すかもしれない。
遥は、静かに息を吐いた。
——ああ、いい空だ。
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