第五十九話「できることを、できる間に」
執行の朝。
背後に、足音が近づいた。
規則正しい歩幅。でも少し急いでいる。遥は前を向いたまま、ライアンだとわかった。甲冑の金具がかすかに鳴る音で、衛兵の装備をつけたまま来たのだと知れた。規則では来てはいけない場所だ。誰かが目を瞑ってくれたのだろう。
「来ました」とライアンが言った。息が少し上がっていた。走ってきたのかもしれない。
遥は前を向いたままで言った。「来なくていいと言ったのに」
「来たかったので来ました」
声が近い。二歩か三歩、後ろ。遥の背中に、ライアンの体温が届くような距離だった。
「そうですか」
「あなたに会えて、よかったと思っています」と彼は続けた。声が少し震えていたが、言葉は途切れなかった。「あの夜——手紙を破ったあと、もう一度書こうと思えたのは、あなたがいたからです」
遥は答えなかった。
中庭の地面に、二人の影が伸びていた。遥の影は短く、ライアンの影は遥の足元の近くまで届いている。朝の光が低い角度で差し込んで、回廊の柱の影を長く引いていた。
胸の中で何かが動いた。
六十日間。怖かった日もあった。石の床が冷たくて背中が痛む夜があった。松明の火が消えかけて、暗闇の中で自分が本当にここにいるのか分からなくなった夜もあった。何もできないことが辛い日もあった。でも——ライアンが来てくれた。北部農村の次男で、三年間夢にうなされていた人が、笑えるようになった。手紙を破った夜に、もう一度ペンを握った。エドモンドが来てくれた。父の声を内側に飼っていた人が、「疲れました」と言えた。確認行動が戻った朝に、それでも足を運んだ。ヴィヴィアンが来てくれた。意見を消して生きていた人が、桃を食べ、引っ込めかけた言葉をもう一度口にした。王が来てくれた。三日間、石の牢の前に立ち、最後に「眠れていない」と認めた。
みんな、自分から来てくれた。
ありがたかった。
本当に、ありがたかった。
何も持たずに来た世界で、四人に出会えた。それが六十日間の一番大事なことだった。
風が頬を撫でた。冷たいが、清潔な冷たさだった。空が青い。今日は雲が少なく、陽の光が中庭の地面を温めている。回廊の向こうに、木が一本見えた。葉が半分落ちていて、残った葉が風に揺れている。あの木も六十日前からここにあったのだと思うと、少し不思議だった。
「最後に、名前を教えてもらっていいですか」
ライアンが言った。声がまっすぐだった。
遥は少し考えた。
「遥、と言います」と静かに言った。「柏木遥」
「……柏木遥」とライアンが繰り返した。噛みしめるように。「覚えます」
「覚えなくていいです」と遥は言った。「あなたが実家に帰って、お母さんの顔を見て、馬を見て、誰かと笑う。それが私の答えです」
ライアンが少し黙った。息を吸い込む音がした。
「……柏木遥先生」
ライアンが言った。先生、という呼び方は初めてだった。
遥は少しだけ、笑った。振り返りたかった。でも振り返らなかった。振り返ったら、ライアンの顔を見たら、この静けさが壊れる気がした。
「先生」という言葉が、遥の中で小さく響いていた。前世でそう呼ばれていた。患者に、同僚に、診察室の白い壁の中で。ここには診察室もカルテも処方箋もなかった。石の床と松明の火と、言葉だけがあった。それでも今日、ライアンが「柏木遥先生」と呼んだ。
六十日分の重さが、その二文字に入っていた。
次話:「六十日分の、医者」




