第五十六話「ありがとう、ライアン」
執行の朝。
遥はライアンの前で止まった。
衛兵二人が少し戸惑ったが、書記が頷いた。少しの時間を、黙って与えてくれた。
「来てくれてありがとうございます」と遥は言った。
ライアンは何も言えなかった。
唇が少し動いたけれど、声にならなかった。目が赤い。眠れなかったのかもしれない。でも今日の顔は、三ヶ月前の顔とは違う。あの頃の、すべてを抑え込んでいた顔ではない。今日の顔は、泣きそうにしている顔だ。感情が、ちゃんとそこにある。
三ヶ月前のライアンは、おそらく泣けなかった。戦場の夢を毎夜見ても感情をどこに向けていいかわからず、出そうになれば蓋をするしかない。今日のライアンは、泣きそうにしている。それは感情が動いているということだ。動ける状態になったということだ。
「よくなりましたね」と遥は言った。
ライアンの目が、わずかに歪んだ。
「よくなった」という言葉は、遥が六十日間で一番大事にしていた言葉だ。「治った」とは言わなかった。「よくなった」だけだ。完全に消えたのではなく、変わった。重さは変わらなくても、持ち方が変わった。ライアンが今日ここに立っていられること——それが「よくなった」の意味だった。
「……あなたがいなくなってからも、続けます」と彼は言った。声が少し震えていた。「実家に帰ります。眠れない夜があっても、誰かに話します」
「はい」
「言えない名前は——まだ言えないかもしれないですが」
「いつかでいいです」
「……いつか言えたら、教えたかったです」
「どこかで聞いています」と遥は言った。「声に出したとき、何かがほぐれる感覚があると思います。それが届きます」
ライアンが一度だけ、頷いた。今日の頷きは小さかった。でも、重かった。
「名前は、ずっと覚えています」とライアンは言った。「あなたの名前を」
「ありがとうございます」
「こちらの言葉です」
遥は少しだけ、笑った。
衛兵が動いた。行かなければならない。遥はライアンを見た。一度だけ、見た。
そして歩き始めた。
後ろを振り返らなかった。振り返れば、また止まってしまう気がした。ライアンの顔を、一度見た。それで充分だった。北部農村の次男が、三年の重さを少しだけ降ろして、今日そこに立っていた。それを遥は見た。
来月、ライアンは実家に帰ると言っていた。老いた母と、茶色い馬がいる農村に。三年間帰れなかった場所に、帰れると言った。その言葉が遥には嬉しかった。精神科医として嬉しかったのではなく、ただの人間として嬉しかった。
次話:「ふたりによろしく」




