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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第三十七話「廊下を流れる噂」

残り六日。


ライアンが言ったのは朝だった。


「噂になっているようです。あなたのことが」


遥は少し驚いた。「噂というのは」


「牢に収監されている死刑囚が、宮廷の人間を癒している、という噂です。エドモンドさんが誰かに話したようで。それがいくつかのルートで広まって」


「そうですか」


「まずかったですか」


「まずくはないですが——広まりますか、そういう話は」


「宮廷は狭いので」とライアンは言った。少し申し訳なさそうな顔をしていた。「従兄弟に話したのは私ですから、私の責任でもあって」


「責任ではないですよ」と遥は答えた。「ライアンさんが誰かに話したくなったのは、それだけ変化があったからでしょう」


「……そうかもしれませんが」


「何か問題が起きそうですか」


ライアンが少し考えた。「問題というより——宮廷の上の方にも届いているかもしれない、ということです。陛下の耳まで届くかどうかはわかりませんが」


「陛下」


「王様です。今の王は——話を聞くのが好きではない方で。自分が正しいと思っている方で」


「そうですか」


「あなたに興味を持てば来るかもしれません。なんのつもりで来るかはわかりませんが」


遥は少し考えた。来るかもしれない。来ないかもしれない。残り六日。どちらでもいいことのような気がした。


「来たら来たで、話します」


「……怖くないんですか」


「王様が怖い理由が、今の私にはないです」


ライアンが少し黙った。それから、「あなたは本当に死刑囚ですか」と言った。


「そうですよ」


「そんな感じがしないですが」


「そうですか」


「昨日、実家に手紙を書こうとしました」とライアンが言った。唐突に聞こえたが、遥には続きがあるとわかった。


「書こうとした」


「……書きました。でも、破りました」


ライアンの声が少し硬くなった。遥は口を挟まず、待った。


「宛名を書こうとしたんです。母の名前を。でも——ペンを握ったら、先にガレットの名前が浮かんだ。あいつの字が見える気がして、自分の名前すら書けなくなった」


廊下の空気が少し冷えた。窓のない通路を、微かな風が抜けていく。ライアンの唇が薄く震えて、すぐ止まった。


「破ったあと、しばらく何もできなくて。インクの染みが指に残っていて。それだけ見ていました」


遥は、その沈黙の重さを受け取った。手紙を書こうとして、書けなかった。三年間帰れなかった人間が「帰りたい」を文字にしようとして、戦場の記憶に押し戻された。回復は直線ではない。昨日話せたことが、今日はできないこともある。


「書きたかったですか」


「……書きたかったです。でも、できなかった」


「できなかったことを、ここで話してくれていますね」


ライアンが少し止まった。


「書けなかったのは事実です。でも——書こうとしたのも事実です」と遥は言った。「三ヶ月前のライアンさんは、手紙を書こうと思いましたか」


ライアンが黙った。少し長い沈黙だった。松明の火が揺れて、影が廊下の壁を流れた。


「……思わなかったと思います」


「ペンを握った。名前を書こうとした。それが今日できたことです」


ライアンの表情が、わずかにほぐれた。完全にではない。でも、こわばりの一枚が剥がれたような変化だった。


「また書いてみてもいいですか」


「もちろん」


遥は、ライアンが帰った後もその顔を思い出していた。書けなかった手紙。破った紙。指に残ったインクの染み。でもペンを握った。名前を書こうとした。最初に会ったとき、ライアンは壁に背を向けていた。毎夜夢でうなされ、咳をしていた。今は、書けなかったことを悔しいと思えるところまで来ている。残り六日。遥がいなくなった後も、ライアンはもう一度ペンを握るだろう。


次話:「王の耳に入る」

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