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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第三十六話「治らなくていい」

残り七日。


エドモンドが来たとき、その顔にはどこか影があった。


「今朝、ヴィヴィアンの外出を確認しました」


遥は黙って聞いた。


「昨日、一度で止められたと話しましたよね。でも今朝——目が覚めて、ヴィヴィアンが部屋にいないと思ったら、体が先に動いていた。使用人に聞いて、中庭だとわかって、それで安心して。でもそのあと、もう一回聞いた。本当に中庭かって」


エドモンドの指が、膝の上で何かを握るように曲がっていた。


「また、やってしまいました」


遥はすぐに言葉を返さなかった。松明の脂が弾ける小さな音が、二人の間を埋めた。


「昨日できたのに、と思いましたか」


「……思いました。できたと思った自分が、馬鹿みたいで」


ヴィヴィアンが隣で、静かに夫の横顔を見ていた。何か言おうとして、止めた。それから、もう一度口を開いた。


「私は、気にならなかったですよ。聞かれても」


エドモンドがヴィヴィアンを見た。


「でも二回——」


「二回でも。前は五回だったでしょう」


遥はそのやりとりを、胸の中で受け取った。エドモンドは後退した。でもヴィヴィアンがそれを受け止めた。二人の間で起きたことだった。


「エドモンドさん。昨日できたことが今日できなかった。それは自然なことです」


「自然——ですか」


「回復は直線ではないです。戻る日もある。でも、戻ったことに気づいて、ここに来た。それが大事なことです」


エドモンドが少し長い息を吐いた。肩の力が、わずかに抜けた。


「あなたがいなくなった後は、どうすればいいですか」


エドモンドが聞いた。直接的な問いだった。遥が処刑されることを、二人はわかっていた。


「続けてください」と遥は言った。「今やっていることを」


「でも、行き詰まったときに」


「行き詰まったとき、ヴィヴィアンさんに話せますか」


エドモンドがヴィヴィアンを見た。ヴィヴィアンが小さく頷いた。


「それが一番大事なことだと思います」と遥は言った。「私がいなくても、二人が話せれば」


「でも、私たちは——まだ全部解決していない」


「解決していなくていいです」


エドモンドが少し止まった。「解決していなくていい」


「治る、ということが目標ではないです」と遥は言った。「確認の癖は、完全にはなくならないかもしれない。ヴィヴィアンさんが自分の意見を常に言えるようになるまでには、時間がかかるかもしれない」


「では何が変わったんですか、この二週間で」


「苦しさを、一人で抱えていたのが、二人で抱えるようになった。それだけでも、随分違います」


ヴィヴィアンが頷いた。エドモンドは少し考えるように黙った。


「……治らなくていい、というのは、諦めということですか」


「諦めではないです」と遥は言った。「治ることが目標だと、治っていない自分を責め続けることになります。でも——苦しくなったとき、一人じゃなければ。それが変わることで、生き方が変わる」


「一人じゃなければ」


「はい。エドモンドさんが確認したくなったとき、ヴィヴィアンさんに言える。ヴィヴィアンさんが意見を引っ込めそうになったとき、気づける人が隣にいる。それができれば、どんな状態でも続けていけます」


しばらく沈黙があった。


「……私たちは、牢獄のようだ、とあなたに言われましたね」とエドモンドが言った。


「言いました」


「でも今は、同じ牢獄の中に二人でいる感じが、少し違う気がします」


「どう違いますか」


「一緒にいることを、選んでいる感じが、少し出てきた気がします」


ヴィヴィアンが、エドモンドを見た。エドモンドがヴィヴィアンを見た。二人の間に、言葉のない何かが流れた。


遥はそれを、静かに見ていた。


「選んでいる」という動詞を使ったことが、遥には大事だった。最初に来た日、「妻が問題だ」と言っていた人が、二週間で「一緒にいることを選んでいる」という言葉に辿り着いた。誰かに従うのでも、義務で続けるのでもなく、自分が選んだ。


遥は自分が処刑されることを、今日改めて思った。残り七日で、この二人の先を見ることはできない。ただ、今日のこの場面を見た。それで十分だと、思えた。


次話:「廊下を流れる噂」

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