第三十四話「間違えていたのかも」
残り八日。
エドモンドが午後に来た。
「ヴィヴィアンが今朝、果物を買ってきました」
開口一番に言った。
「そうですか」
「前は嫌いなのかと思っていたんですが——好きだったらしくて。控えてほしいとは言ったことがありますが、あんなに好きだとは知らなくて」
「知らなかった」
「はい。なんとなく体に良くないものは控えるべきだと思っていて、そう伝えていましたが——ヴィヴィアンが好きかどうか、聞いたことがなかった」
遥は頷いた。
「聞いていなかったことが、他にもあるかもしれない、と思っています」とエドモンドは続けた。「ヴィヴィアンの好き嫌いを、私がいつの間にか決めていたのかもしれない」
「そうかもしれないですね」
「……間違えていたのかもしれないです。色々と」
遥は少し間を置いた。「間違えていたとわかったとき、怖くないですか」
「怖いです。とても」
「それはなぜですか」
「間違えることが、一番苦手だから。父のこともありますが——間違えた自分を認めると、全部崩れる気がして」
「全部崩れる感じがある」
「はい。だから、認めたくなかったんですが——今朝、ヴィヴィアンが果物を食べているのを見て。美味しそうで。そんな顔を久しぶりに見た気がして」
「ヴィヴィアンさんの顔が」
「嬉しそうでした。私が来る前に、一口だけ食べてしまったと、少し慌てていましたが——そういう顔を見たことが、最近なかった気がして」
遥はそれを聞きながら、静かに思った。エドモンドが誰かの顔を見ている。自分の不安ではなく、ヴィヴィアンの顔を見ている。
もう一つ、気づいたことがあった。エドモンドが今日、「ヴィヴィアンが」と名前で呼んでいた。最初の頃は「妻が」と言っていた。「ヴィヴィアンが一口食べてしまって慌てていた」——その言い方には、少し温かみがあった。
「嬉しそうな顔を見て、どうでしたか」
「……よかった、と思いました。それが不思議で。私が間違えていたとわかったのに、崩れる感じがしなかった。むしろ、何かが少し軽くなった」
「そうですか」
「間違えることが、全部崩れることではないのかもしれない、と——少し思っています」
遥は何も言わなかった。
その言葉を、静かに受け取った。
「間違えることが全部崩れることではない」——それがエドモンド自身の言葉として出てきた。遥が言ったのではない。ヴィヴィアンの嬉しそうな顔を見て、自分で辿り着いた言葉だ。父の声が「間違えたら全部崩れる」と教えてきた。でも今朝、間違えを認めたのに崩れなかった。むしろ軽くなった。その体験は、何十年分の父の声よりも、ずっと身近にある。
エドモンドが帰った後、遥は今日のことを思い返した。人が変わるのは、言葉からではなく、体験から始まることが多い。ヴィヴィアンの顔を見た。軽くなった。その順番が大事だ。
次話:「隣に座るふたり」




