第三十二話「私は、どうしたいのか」
残り九日。
「自分がいなくなっていく感じ」という言葉が、翌日もヴィヴィアンの中にあった。
「昨日の言葉を、もう少し話せますか」と遥は聞いた。
ヴィヴィアンは今日も一人で来ていた。少し迷いながら、続けた。
「エドモンドと出会って、結婚して、彼の希望に合わせて生活を作ってきました。それは間違いだとは思っていないんですが——最近、ふと思うことがあって」
「どんなことを」
「桃が食べたい、と思ったとき。それを考えたのに、次の瞬間には考えないようにしていた。なぜそうしたのかと思ったら——エドモンドが控えてほしいと言っているから、という理由でした。でも、私が食べたくないわけではなかった」
「そうですね」
「私は、どうしたいのか——それを考えることを、ずっとしていなかったかもしれないです」
「今、考えようとしていますね」
ヴィヴィアンが少し驚いた顔をした。「考えようとしている、とまでは……」
「できるかどうかはわからなくても、考えようとしている。昨日も今日も来てくださっているのは、そういうことだと思います」
ヴィヴィアンは少し黙った。
「どうしたいのか、が自分でもわからないです」と彼女は言った。「何が好きか、何がしたいか。桃は好きだとわかりましたが、それ以外は——すぐには出てこない」
ヴィヴィアンが少し間を置いて、口を開きかけた。「あと、本当は——」
止まった。
唇が閉じて、両手が膝の上で重なった。視線が床に落ちた。
遥は何も言わなかった。
数秒。ヴィヴィアンの指が少し動いた。膝の上の手を握り直して、もう一度口を開いた。
「……庭を歩きたい、と思うことがあります。一人で。朝の、誰もいない時間に」
声が小さかった。でも、さっきより確かだった。一度引っ込めて、もう一度出した言葉には、二回分の力がある。
「そうですか」と遥は言った。「一人で庭を歩きたい」
「でも、エドモンドが心配するので——やっぱり、いいです」
「引っ込めましたね、今」
ヴィヴィアンが少し驚いた顔をした。
「庭を歩きたい、と言った後に、やっぱりいいですと言った。二つとも、ヴィヴィアンさんの声ですね」
「……はい」
「どちらも大事な声です。引っ込めたくなることも含めて」
ヴィヴィアンが少し黙った。それから、小さく頷いた。
「桃がわかれば充分です」と遥は言った。「庭を歩きたいと思えたことも。一つわかれば、次が少し見えやすくなります」
遥は、桃という答えが出てきたことを大事に受け取った。自分が何を好むかわからない人が、一つでも確かなものを見つけたとき、それはその人に属する感覚の最初の足がかりになる。ヴィヴィアンにとって桃は、誰かの許可なく「これが好き」と言えた数少ないものの一つかもしれない。
ヴィヴィアンには二人の姉がいた、という話を以前聞いた。姉たちに比べられて育った人間が、自分の好みを語ることを後回しにしていくことは珍しくない。誰かの期待に沿うことで居場所を保ってきた人間は、自分が何を好むかを考える機会を少しずつ失っていく。桃という答えは、その長い経緯の先にある一つの答えだった。
「そういうものですか」
「そういうものです。自分の感覚を確認する練習は、一つから始まります」
ヴィヴィアンがそれを聞いて、少し間を置いた。「練習」という言葉が引っかかったようだった。
「練習、というのが面白いですね。自分の気持ちを知るのが、練習になる」
「意識してこなかった分、少し時間がかかるかもしれません。でも、できます」
「……できると思いますか、私が」
「そう思います」と遥はすぐに言った。
ヴィヴィアンの目が、少し緩んだ。何かを信じてもらった人の目だった。慣れていない感じがした。あまり、誰かに「できる」と言ってもらった経験がなかったのかもしれない。
「ありがとうございます」
「ヴィヴィアンさんが来てくれているから言えることです」
夕方、遥は今日の会話を反芻した。「できると思いますか」という問いへの答えを、遥はすぐに言えた。それは励ましではなかった。ヴィヴィアンが九日間でここまで来たことを、遥は見ていたからだ。最初エドモンドの後ろに立っていた人が、今日は自分の欲求の話をしている。それは事実であって、予測ではない。
次話:「鏡の前に立てるか」




