第二十三話「ヴィヴィアンの声」
残り十六日。
ヴィヴィアン・ファルクは、小さな声で挨拶をした。
「お邪魔します」
三十代前半か。こぢんまりとした印象だった。背筋は伸びているが、それは自然な姿勢ではなく、伸ばすよう意識している姿勢だった。ずっとエドモンドの少し後ろに立ったままだった。前に出ることなく、後ろに下がることもなく、ちょうどエドモンドの影の中に収まるような位置に。エドモンドが床に座っても、ヴィヴィアンは立っていた。座っていいかを自分で判断する気配がなかった。
「ありがとうございます。遠いところをわざわざ」
「いえ、エドモンドが——」
ヴィヴィアンがエドモンドを見た。エドモンドが軽く頷く。ヴィヴィアンが続けた。「来た方がいいと思って、参りました」
自分が来たいから来た、ではない。来た方がいいと思ったから来た。
微妙な違いだが、遥には聞こえた。自分の意志を、他の誰かの判断に乗せる話し方だった。
遥はヴィヴィアンの声の質を聞いていた。低くはなく、荒れてもいない。ただ、音量が少し抑えられている。自分の声が場に影響することを、常に少し警戒しているような声だ。子どものころから「静かにしていた方が安全だ」と覚えた人に、こういう声が出ることがある。
「ヴィヴィアンさんは、最近どうですか」
「どう、とは」
「体の調子でも、気持ちの面でも、なんでも」
ヴィヴィアンはエドモンドをちらりと見た。エドモンドは表情を変えなかった。ヴィヴィアンが遥に向き直る。
「特に……大丈夫です」
「そうですか。よかった」
「ただ」とヴィヴィアンが続けた。「エドモンドが少し——最近、難しいことがあるようで、私がうまくできていないのかと、それが少し」
「うまくできていない、というのはどういうことですか」
「家のことを、エドモンドの希望通りにできなくて」
「ヴィヴィアンさんが、うまくできていない、と感じているんですか」
「……そうなんでしょうか。私が至らないんだと思っていました」
遥は少し間を置いた。
「至らないというより——今のやり方が、ヴィヴィアンさんにとって難しい、ということはありませんか」
ヴィヴィアンが、少し目を大きくした。「難しい、という感覚は——あまり考えたことがなかったです」
「なぜですか」
「難しい、というのは、できない理由を作っているみたいで。エドモンドに申し訳なくて」
「申し訳ない、という気持ちが先に来るんですね」
「はい」と小さな声で言った。その声は、遥には少し重たく聞こえた。
「難しい」という言葉を自分に許さない人は、幼い時からそう学んでいることが多い。「難しい」と言うと叱られた、あるいは「難しい」と言うと場の空気が壊れた——そういう経験が積み重なると、自分の苦しさを「自分の至らなさ」に変換するようになる。変換することで、場を守れると学ぶ。大人になってもその構造が続いている。エドモンドを責める気持ちは持っていない。持てないように、自分でブロックしている。
二人の間に、沈黙があった。エドモンドが何か言いかけたが、遥が先に続けた。
「今日はお二人のことを、別々に少し聞かせてください。順番に、でいいですか」
二人が頷いた。
始まった。
エドモンドとヴィヴィアン。二人とも苦しさがある。二人の苦しさは別々の形をしているが、互いに相手の苦しさを見えにくくしている。エドモンドの確認が多すぎて、ヴィヴィアンは「至らない自分」になる。ヴィヴィアンが答えないと、エドモンドの不安が増える。そういう循環の中にいる二人だ。どちらかを責めても解けない。どちらかの話だけを聞いても足りない。
次話:「あなたも座ってください」




