第二十話「扉の向こうの声」
残り十九日。
声が聞こえたのは昼すぎだった。
廊下の奥から、男の声がした。低く、よく通る声。何かを指示しているような口調だった。
「——許可証を確認していただかなければ——」
「確認なら先ほど——」
「いや、もう一度。念のため、必要書類の日付も確認を」
遥は壁に寄りかかりながら、その声を聞いた。
几帳面な人だ。
いや、几帳面というより——念を押すことへの強い意志がある。一度確認すれば足りるものを、もう一度確認しないと安心できない。そういう状態の人の声だ。
しばらくして、足音が近づいた。
扉の前で、ライアンが静かに声をかけた。「アネット殿、面会の方がいらっしゃいます」
「どうぞ」
扉が開いた。
現れたのは、三十代半ばの男だった。背が高く、姿勢がいい。服装は整っていて、一分の乱れもない。ただ——目が少し疲れている。細かいものを長時間見続けた人の目をしていた。
上着の袖口に、小さな糸くずがついていた。遥はそれに気づいたが、エドモンドはまだ気づいていない。気づいたときの反応を、遥は自然と待った。その人が何かの「乱れ」に対してどう動くかは、その人の内側を見せる。
男は遥を見て、一瞬止まった。死刑囚がどんな人物かを予想していたのだろう。遥の様子が予想と違ったようだった。
「エドモンド・ファルクです」
名乗り方が丁寧だった。必要以上に丁寧だった。
「アネット・クロイスです。ライアンさんから聞いていました」
「……ライアンが、ずいぶんと変わっていて」
エドモンドが言った。
「気づきましたか」
「一ヶ月前とまるで別人で。何があったのか聞いても、牢の人と話すようになった、としか言わない」
「そうですか」
遥は鉄格子越しにエドモンドを観察した。
両手の指先が、わずかに動いている。会話中に指を動かすのは、不安のサインの一つだ。足が、床に対してきっちりと揃えられている。椅子もないのに、自然と両足を揃える姿勢を取っていた。入室後に一度だけ、廊下の方を振り返った。扉が完全に閉まっているかどうかを確かめたのだと思う。
興味深い人だ。
前世でこういう所作を持つ人を、遥は何人か診たことがあった。几帳面さや真面目さとは少し違う。「確認しなければ何かが起きる」という感覚に動かされている。一度確認しても、もう一度確認しなければならない。確認しても安心しきれないから、またもう一度。その繰り返しが習慣になって、本人もなぜ繰り返しているのかわからなくなっている——そういう状態だ。
宮廷の土地登記や課税台帳を扱う仕事なら、「間違い」が許されない場所にいる。だが、仕事の性質だけでそこまで育つものではない。もっと前に、「間違えることは許されない」という感覚を形作った何かがあるはずだ。
「妻のことで、ライアンから聞きましたか」
エドモンドが聞いた。
「少し聞きました」
「妻が……少し、状態が悪くて。私にはどうすればいいかわからなくて」
「そうですか」と遥は言った。「妻さんのことを、もう少し聞かせていただけますか」
——ただ、エドモンドさんの話も、同時に聞く必要がある。
遥は内心でそう思いながら、相手の目を見た。
その後、エドモンドは一時間ほど話していった。妻のこと、妻が最近ふさぎ込んでいること、何を聞いても答えてくれないこと、自分が何か間違いを犯したのかどうかわからないこと。話しながら、エドモンドは上着の袖口の糸くずにようやく気づき、その場で素早く取った。手の動きが、瞬間的に素早くなった。その素早さが、乱れへの反射的な反応を示していた。
遥は妻の話を聞きながら、エドモンドの言葉を拾い続けた。「妻が問題だ」という言い方を、エドモンドは繰り返した。だが、その言葉の中に「私はどうすればよかったのか」という問いが混じっていた。完全に相手だけを問題と見ている人は、そういう問いを持たない。エドモンドの苦しさは、妻だけにある問題ではない——遥はそう判断した。
夜になって一人になってから、遥はエドモンドという人間を整理した。宮廷の仕事、几帳面な確認行動、妻との断絶、「自分が間違えたのか」という問い。それらはバラバラではなく、一本の線でつながっている気がした。その線がどこから来ているのかを、次に会う機会があれば聞いてみたいと思った。
次話:「エドモンドという人」




