第十四話「忘れていた笑い方」
残り二十八日。
ライアンが笑ったのは、ほとんど偶然のことだった。
遥がパンを受け取るときに椀を取り落としそうになって、あわてて両手で受けた。スープが少し揺れた。こぼれなかったけれど、端まで来ていた。
「危なかったですね」と遥は言った。
「……はい」
「こぼれたら勿体なかった。今日のスープ、豆が入っていたので」
「気づいていたんですか」
「食事だけが楽しみですから。毎日確認しています」
そのとき、ライアンが笑った。
声に出したわけではない。小さく、口の端が上がっただけだ。でも確かに笑った。眼の周りが少し変わった。硬さが、一瞬だけ消えた。
遥は何も言わなかった。
指摘しなかった。「笑いましたね」と確認しなかった。ただ、受け取った。その笑いが、気づかれずにそこにあることの方が大事だと思ったから。
ライアンはすぐにまた正面を向いた。何事もなかったように。でも、その後の立ち方が少し違った。肩が、さっきより二センチほど下がっていた。
笑うことを、忘れていたのかもしれない。
遥は椀を持ったまま、壁の方に戻った。スープを一口飲む。豆の味がした。塩気が少し強い。でも温かかった。
ライアンは今日、笑えた。
夕方、また話をした。今日はクレイの話ではなく、もっと前の話だった。入隊する前の話。実家のこと、兄弟のこと。ライアンは三人兄弟の末っ子で、兄二人はもう家庭を持っているという。
三人兄弟の末っ子。それを聞いて、遥は少し補完した。末っ子というのは多くの場合、上の兄弟を見ながら育つ。何かを決めるとき、一番上の兄がどうするか、二番目の兄がどうするかを先に見てから動く。自分の番は後回しになりやすい。家を継ぐのは長男で、職を選ぶ時の選択肢も限られる。だから入隊した。次男以降によくある動機だった。十八か十九で家を出て、知らない人間の中に放り込まれた。
「実家に帰れていますか」
「……二年帰っていないです」
「なぜですか」
「帰ったら、誰かに顔を見られる気がして」
「顔が変わったと思っている?」
ライアンは少し間を置いた。「変わったと思います。自分では」
「そうですか」
「……顔に出ているかどうかはわかりませんが」
「出ていないと思いますよ」と遥は言った。「ただ、出ていたとしても、家族は怖くないと思います」
ライアンは答えなかった。
でも今日は、沈黙が柔らかかった。
「実家に帰れていない」という言葉と、「顔に出ているかもしれない」という言葉を、遥は並べて考えた。帰れないのは、変わった自分を家族に見せたくないからだ。変わったことが恥ずかしいのではなく、変わったことで家族を心配させたくない——そういう気持ちかもしれない。それか、変わった自分が受け入れられるかどうかを確かめることが、怖いのかもしれない。どちらにせよ、帰れないことには理由がある。その理由が少し薄くなれば、帰れるようになる。
今日、ライアンは実家のことを話した。兄二人の話、家庭を持った話。過去の話を話せるようになることは、回復の中の一つの段階だ。今の苦しさから少し離れて、それ以前の自分を取り戻し始めるとき、そういう話が出てくる。
次話:「前世の話でいいですか」




