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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第十三話「折り返し」

残り三十日。


今日で半分だ、と気づいたのは朝だった。


三十日過ぎた。三十日残っている。


遥は壁に背を預けたまま、その数字を確かめるように繰り返した。折り返し。前半が終わった。後半が始まる。でも今日という日に、特別な重さはなかった。ただ、一日が積み重なった結果として、今日がある。


ライアンは今日、咳をしなかった。


一日通して、一度も。それが今日いちばんの出来事だった。


眠りも改善している。先週から六時間前後眠れるようになっている。過覚醒の兆候も、少しずつ薄れてきた。音への反応が、依然として敏感ではあるけれど、手が剣の柄に向かう頻度は明らかに減った。


ライアンが自分の状態に気づいているのもわかる。


「最近、夢を見るようになりました」と昨日言っていた。「昔は見なかったんですが」


夢を見るようになること。それは深い眠りに入れるようになった証拠だ。ちゃんと眠れていれば、夢を見る。逆に慢性的な睡眠障害の状態では、夢を見るほどの深さまで眠れない。


前世でも、回復の兆候として夢を語る患者が増えることを経験していた。「こんな夢を見た」と話してくれるようになる。夢は記憶と感情の処理に関わっていると言われている。眠れるようになれば、脳が記憶を整理し始める。その過程で夢が来る。ライアンが馬の夢を見たということは、ある意味でクレイの記憶を、少し処理し始めているのかもしれない。悲しかった、という言葉もそれを示していた。


「どんな夢ですか」


「……馬が出てきたりします」


「クレイさんの馬」


ライアンが少し黙った。「かもしれません。白い馬でした」


「良い夢でしたか」


「怖い夢ではなかったです。ただ、草原を走っていて……目が覚めたら少し、悲しかった」


悲しかった。


それを言えるようになったこと、遥は静かに受け取った。三十日前、ライアンは感情を平板な声で押し込めていた。「慣れました」と繰り返した。今日、「悲しかった」と言える。


ライアンは農村出身で、戦争に行く前の故郷には茶色い老馬がいると話してくれた。クレイは白い馬を持っていた。草原に白い馬の夢。故郷の記憶とクレイの記憶が、夢の中で重なっているのかもしれない。夢は記号的だから、何を意味するかは断言できない。でも悲しかった、という感情が届いた。それが大事だった。


大きな変化だ。


でも遥は今日、それを言わなかった。いちいち確認しない。ただ受け取る。「悲しかったんですね」と繰り返すだけ。


「はい。でも……嫌な感じではなかったです。何か、ちゃんとそこにいる感じがして」


「クレイさんが」


「……うん」


ライアンが「うん」と言った。それが少し意外だった。普段は「はい」だった。緊張が緩んでいる証拠かもしれない。


夕方、一人の時間に遥は三十日先を考えた。


残り三十日で、何ができるか。ライアンは大分よくなってきた。でもまだ、言えない名前がある。それが回収されるかどうかはわからない。今日は今日でできることをする。


急ぐ必要はない。


ただ、残り三十日であることは事実だった。


遥はパンを一切れ食べながら、日が暮れるのを待った。窓のない牢では、光の変化より音の変化で時間を知る。廊下の衛兵の数が増える音、交代の声、松明に火をつける音。それが夕方の合図だった。


三十日。できることがある。


次話:「忘れていた笑い方」

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