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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第十二話「声にならなかった名前」

残り三十一日。


「もう一人、いたんです」


ライアンが言ったのは夕暮れ時だった。前置きもなかった。遥が何かを聞いたわけでもなかった。ライアンの方から、話し始めた。


「……名前は」


遥が聞こうとした。


「名前は——」


ライアンが止まった。


喉の奥で何かが詰まるような沈黙だった。顔が少し強張る。唇が動いたけれど、声にならなかった。


「言わなくていいです」


遥はすぐに言った。


「……でも」


「言えるときに言えばいい。今でなくていいです」


ライアンは少し下を向いた。拳が、わずかに握られていた。


遥は待った。


言えない名前がある。それは何だろう。クレイよりも、もっと近かった人かもしれない。言葉にしてしまうと、その死が確定してしまうような感覚があるのかもしれない。言葉は現実を固定する。言えないのは、まだ受け入れていないからだ。


遥は待った。ライアンの拳が、わずかに緩んで、また握られた。その繰り返しが、内側で何かが揺れている証拠だった。戦場から帰ってきた人間の中には、特定の名前だけを言えない人がいる。その名前を持つ人と、特別な関係があったからだ。仲間というより、もっと近い。もし言えたなら、何かが動くかもしれない。でも今は、言えなくていい。


受け入れていなくていい。今は。


「遠征から帰ってきて、誰かに話しましたか」


遥は別のことを聞いた。


「……帰ってきた日に報告書を書いて、それだけです」


「報告書に書いたこと以外は」


「話さなかったです」


「三年間」


「……はい」


遥はしばらく黙った。三年間。報告書に書けることと書けないことがある。書けないことを、三年間一人で抱えていた。


「重かったですね」


自分でも、少し直接すぎる言葉だと思った。でも言ってしまった。


ライアンが顔を上げた。目が、少し赤い。


「……はい」


短い返事だった。それだけだった。でも遥には、その一言の重さが伝わった。三年間の重さだ。


しばらく沈黙が続いた。ライアンは俯いて、また顔を上げた。息を一度、深く吐いた。


「少し、楽になった気がします。不思議ですね」


「話すと楽になることがあります」


「なんでですか」


「一人で持っていたものを、半分にできるんです。言葉にすることで、少し外に出せる」


「あなたも半分持つんですか」


「持ちます。でも私には重くないので、大丈夫です」


ライアンは少し遥を見た。「……なんで重くないんですか」


「それが仕事でしたから」と遥は答えた。「そういう風にできています」


「そういう風に」


「はい」


ライアンはそれ以上聞かなかった。夜になり、廊下の明かりが落ちて、二人の間に暗闇が広がった。でも今日の暗闇は、以前より少し薄い気がした。気のせいかもしれない。でも、そう感じた。


「重かったですね」という言葉を言ってよかったのかどうか、遥はあとで少し考えた。直接すぎたかもしれない。でも、ライアンの「はい」という返事が来た。三年分の重さを持つ人間が「はい」と言えた。それが今夜の遥には大事なことだった。


前世でも、患者が「重かった」という言葉を受け取れるまでに、時間がかかることがあった。受け取れないとき、患者は「大丈夫です」と言う。受け取れたとき、「はい」と言う。その違いは、外から見ればわずかだ。でも内側では、大きなことだ。


次話:「折り返し」

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