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悪役令嬢の残り六十日、私は牢獄の精神科医でした  作者: 夜凪 蒼


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第十話「眠れた、という朝」

残り三十五日。


朝、ライアンが言った。


「昨夜は眠れました」


報告のような声だった。遥に告げるつもりで言ったのか、自分に確認するように言ったのか、境界が曖昧な声だった。


「そうですか」と遥は答えた。「何時間くらい」


「……五時間、くらい。たぶん」


「よかったです」


それだけだった。でも遥の胸の中では、静かに何かが動いた。


五時間。二、三時間から五時間へ。数字は大きくない。それでも、変化は変化だ。ライアンの体が、何かを手放し始めている。


「咳はどうでしたか」


「昨夜は出なかったです。今朝は少し」


「今朝の方が出るということは前から続いていましたね」


「……そうです。朝起き上がるときに出やすくて」


「深呼吸してみると少し楽になりますか」


ライアンは少し考えた。「やったことないです」


「今度出たとき、試してみてください。ゆっくり吸って、吐く方を長くする。それだけでいいです」


「……それで咳が止まるんですか」


「止まらないかもしれません。でも、体が少し落ち着く感覚はあると思います」


ライアンは頷くわけでも否定するわけでもなく、ただ聞いていた。


「どうして咳が出るんでしょう」


「正確にはわかりません」と遥は答えた。「ただ、睡眠が取れていないときに続く咳には、体の疲れや緊張が関わっていることがあります。眠れた日は出にくいかもしれない」


「……じゃあ、眠れるようになれば」


「改善するかもしれないです。まだ一日なので、経過を見ましょう」


ライアンがわずかに口元を動かした。笑みというほどではない。でも険しくはなかった。「経過を見ましょう、って言い方が医者みたいですね」


「前世は医者でしたから」


「……本当に?」


遥はそれを話したことがなかったことに気づいた。でも、いつかは話すことになると思っていた。


「本当に。精神科の医者でした」


「精神科」


「はい。話を聞く仕事です」


ライアンはしばらく黙った。それから静かに言った。「だから聞くのが自然なんですね」


「そうかもしれません」


「……なるほど」


ライアンが「なるほど」と言ったとき、声の質が少し変わった。これまでの「そうですか」という受け取り方より、少し内側に入ってきた感じがした。精神科医という職業を知ったことで、「なぜこの人は聞くのか」という問いに、ライアンなりの答えが見つかったのかもしれない。説明がつくと、人は少し安心できる。安心できると、話しやすくなる。


それだけだった。でもライアンは、その日一日、遥の方を向く時間が少し長かった。


顔つきも変わっていた。最初の頃のライアンは、常に少し眉間に皺が寄っていた。緊張して当然の状態なのだから、それも当然だった。でも今日は、皺が少し薄かった。目の下の影は、まだある。でも以前ほど濃くはない。眠れている夜が増えているからだ。五時間、という数字は、単なる数字ではなかった。体が回復に向かっている証拠だった。


遥は夜、石床に横になって目を閉じた。五時間。ライアンが五時間眠れた。この牢の外でも、それは起きている。世界は続いている。どこかで誰かが少しだけよくなっている。


それで充分だ。


暗闇の中で、そう思った。


次話:「生き残りの重さ」

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