第9話:境界の森の魔法の小屋
森の奥に立っていた小屋は、近くで見ると、思っていたよりも古かった。
壁板は黒ずみ、屋根の端は少し垂れ、窓の一つは斜めに割れている。入口の扉には蔦が絡み、取っ手の金具は指で触れただけで錆が落ちた。
けれど、崩れかけているわけではない。
ぼくは扉の前に膝をつき、取っ手と鍵穴、それから蝶番を順番に見た。
「……まだ立ってる」
「そりゃ、小屋なんだから立ってるでしょ」
ヴェルが腕を組んで言った。
強がった声だった。けれど、その視線はちらちらと森の奥へ向いている。さっきから葉の擦れる音が多い。夜の森に慣れているはずの彼女でも、疲れた身体でここに立つのは落ち着かないらしい。
セラさんも、ぼくの少し後ろで両手を胸元に重ねていた。首に残る集魔のチョーカーが、弱く光を帯びている。
「シュウ様、開きそうですか?」
「開くとは思う。ただ、乱暴にやると扉ごと駄目になる」
鍵穴は潰れていた。
ただし、盗賊がこじ開けたような潰れ方ではない。外から押し込まれた傷もあるが、それ以上に内側から固く閉じたまま、長い時間をかけて金具が歪んだように見える。
蝶番も同じだ。
錆びている。歪んでいる。けれど、折れてはいない。
ぼくは扉の木目に指を当てた。
古い木の冷たさの奥に、かすかに温度がある気がした。
「壊れているというより……拗ねてるみたいだな」
「小屋が拗ねるわけないじゃん」
「普通はね」
「普通じゃないの?」
「少なくとも、ただ放っておかれただけの小屋には見えない」
ぼくは工具箱を下ろした。
中に残っているものは多くない。補修針、細い銅線、ヤスリ、小瓶に入った魔石粉。町を出るときに持てたのはそれくらいだった。
ちゃんとした工房なら、扉を外して蝶番を洗い、金具を焼き直し、歪んだ部分を叩いて戻す。今はそんなことをしている余裕はない。
まず、今夜の雨風をしのぐ場所がほしい。
「壊すんじゃないの?」
ヴェルが聞いた。
「壊したら、今夜の寝床も壊れる」
「地味」
「寝床は地味な方がいい」
「おじさんって、変なところで真面目だよね」
「変なところじゃなくて、ここは大事なところだよ」
ぼくは錆びた取っ手の根元に銅線を巻いた。折れかけた金具を押さえ、補修針で魔石粉を少しずつ馴染ませる。
魔法道具作成の力は、何もないところから立派な道具をぽんと出すものではない。
古いものに手を入れる。歪みを見る。素材がまだ耐えられるかを確かめる。手の中にあるものを、今だけでも使える形に整える。
それは、元の世界で機械を直していたときと似ていた。
ただ、ここでは金属や木の奥に、魔力の流れがある。
「セラさん、少しだけ光を貸してもらっていいですか。強くなくていい。鍵穴の奥の、淀んでいるところを柔らかくする感じで」
「はい。やってみます」
セラさんが一歩近づいた。
白い指がチョーカーに触れる。すると、首元から淡い光が広がり、扉の鍵穴へ薄く流れ込んだ。
ぼくの目には、はっきりとした線としては見えない。
けれど、錆びた金具の奥で、かすかに固まっていた何かがほどけるような感触があった。
「すごいな」
「お役に立てていますか?」
「かなり」
セラさんの表情がほっと緩む。
その横で、ヴェルが少しだけ頬を膨らませた。
「あたしは?」
「内側のかんぬきに鎖を引っかけられる?」
「できるし。最初から言いなよ」
ヴェルは腕の魔鎖をほどいた。
黒い鎖が、細い蛇のように扉の隙間へ滑り込む。さっきまで奴隷商人の拘束具だったものが、今は彼女の指先の延長みたいに動いている。
ぼくは取っ手を固定しながら、蝶番の下に補修針を差し込んだ。
扉を開けるのではなく、まず扉が開ける姿勢に戻してやる。
右上の蝶番を少し緩める。下の歪みを戻す。潰れた鍵穴の縁を削り、奥に詰まった錆と土を掻き出す。
手元は暗い。指先は冷たい。体も疲れている。
それでも、扉の調子が少しずつ変わっていくのがわかった。
ぎし、と木が鳴る。
「ヴェル、今の?」
「違う。あたし、まだ引いてない」
扉の内側で、かたり、と小さな音がした。
ぼくは手を止めた。
かんぬきが動いた音だ。
けれど、ヴェルの鎖はまだそこまで届いていない。
「……今の、何?」
ヴェルが眉をひそめる。
「招いてくれたのでしょうか」
セラさんは、少し不思議そうに扉を見つめていた。
『シュウ。古い魔力が反応しています』
頭の中に、マーサの声が響いた。
いつもの少し浮ついた調子ではない。慎重に、何かを覗き込むような声だった。
「危ない?」
『今のところ、敵意は感じません。ただ、とても古いです。わたしが直接触るには、少し癖があります』
「女神様でも?」
『女神だからこそ、古い手仕事には気を使うのです。雑に触ると、職人に怒られます』
「それは少しわかる」
「何を一人で納得してんの」
ヴェルがじとっとぼくを見た。
「マーサが、古い魔力があるって」
「ふうん。で、入って平気なの?」
「入れてくれるなら助かる。外で夜を越すよりはずっといい」
ぼくは取っ手に手をかけた。
今度は、さっきまでの重さが嘘みたいに少なかった。
ぎい、と扉が開く。
舞い上がった埃が、薄い月明かりの中で白く光った。
中は、静かだった。
入口の正面には古い暖炉がある。炉の縁は欠け、灰はずいぶん前に冷え切っていた。壁際には傾いた棚。床には壊れた椅子と、脚の折れた小さな机。窓の下には雨漏りの跡が黒く残っている。
荒れている。
けれど、荒らされてはいない。
ぼくはその違いに、少しだけ息を止めた。
誰かが大事に使っていた場所が、急に時間を止めたみたいだった。
「……誰かが、ここで暮らしていたんですね」
セラさんが小さく言った。
「そうみたいです」
「ぼろいけど、檻よりはまし」
ヴェルはそう言って中に入ったが、すぐに床板の鳴る音でびくっと肩を揺らした。
「今のは床板」
「わ、わかってるし」
「無理しなくていい。二人とも疲れてる」
「おじさんだって疲れてるでしょ」
「まあ、ぼくはおじさんだからね。疲れるのには慣れてる」
「そういうの、全然自慢になんないから」
ヴェルに呆れられながら、ぼくは小屋の中を見回した。
直すところが多すぎる。
扉。窓。屋根。床。暖炉。棚。机。椅子。壁の隙間。煙突の詰まり。水の確保。火を起こす場所。寝る場所。
どこから手をつければいいか、一瞬わからなくなる。
けれど、こういうときは一つずつだ。
最初に命に関わるところ。次に雨風。その次に火。そのあと寝床。
「まずは扉を閉まるようにする。それから雨漏り」
「窓は?」
「今夜は布で塞ぐ」
「暖炉は?」
「煙突を見ないと危ない。火は小さく」
「おじさん、こういう時だけ手早いね」
「こういう時のための修理屋だから」
その時、外で枝が折れる音がした。
ヴェルの耳がぴくりと動く。
ぼくも入口の方を見た。
扉の隙間の向こう、低い茂みの間に、小さな獣の影があった。狼ほど大きくはない。けれど、牙が長く、目が妙に赤い。
それは小屋へ近づこうとして、扉の前で足を止めた。
ちりん、とどこかで鈴のような音がした。
壁が、微かにきしむ。
獣は低く唸ったが、前足を一歩も進められない。やがて、嫌がるように頭を振り、森の奥へ消えていった。
「……ここ、変な守りがある」
ヴェルが低く言った。
「あの獣、怖がっていました」
セラさんが入口の方へ近づこうとする。
「待って」
ぼくは扉の内側に刻まれた古い印を見た。
半分ほど擦れている。けれど、丸い輪の中に、針と月のような線が残っていた。
「敵意を通しにくい作りかもしれない」
「バリア?」
「そんな大げさなものじゃないと思う。たぶん、近づくのが嫌になる程度」
「地味」
「地味な守りは長持ちする」
そう言ってから、ぼくは小屋の壁に手を当てた。
「……助かったよ」
「小屋にお礼言ってるの?」
「言って損はないから」
ヴェルは何か言いたそうに口を開いたが、結局やめた。
その代わり、腕の鎖を少しだけ伸ばして、扉の近くに垂らしておく。警戒しているのだろう。
ぼくは天井を見上げた。
ぽたり、と水が落ちる。
雨ではない。夜露が屋根の隙間から染みている。けれど、朝までに雨が来たら、このままでは床が濡れる。
「雨漏りを止める」
「今から屋根に登るの?」
「できれば登りたくない。外は暗いし、屋根板がどれだけ傷んでいるかわからない」
ぼくは壊れた椅子の板を外し、まだ使える部分を選んだ。
板の端を削り、銅線を通す穴を開ける。補修針の先に魔石粉をつけ、木の割れ目に薄く馴染ませる。
「ヴェル、この板を屋根裏の梁に押さえられる?」
「できるけど、あたしを便利な棒みたいに使ってない?」
「棒よりずっと助かる」
「ほめ方が下手」
文句を言いながらも、ヴェルは鎖を伸ばして板を持ち上げた。
黒い鎖が梁に巻きつき、板を雨漏りの真下へ押し当てる。
「セラさん、湿っているところを少し乾かせますか。完全にじゃなくていいです。腐った木が広がらない程度に」
「はい。やってみます」
セラさんが両手をかざす。
淡い光が、濡れた木の表面をゆっくり撫でた。水が消えるわけではない。ただ、べたついた湿り気が少し引き、木が折れずに済むだけの硬さを取り戻す。
「十分です」
「よかった」
セラさんは嬉しそうに笑った。
ぼくは板の端を銅線で仮止めし、魔石粉で固定する。
ちゃんとした修理ではない。今夜だけ持てばいい応急処置だ。
それでも、水の音は止まった。
「……あれ?」
ぼくは天井の隅を見た。
もう一つ、黒く濡れていた場所がある。そちらはまだ触っていない。
なのに、ぽたりと落ちていた水が、いつの間にか止まっていた。
「今の、誰かやった?」
「あたしじゃない」
「わたしも、こちらしか触れていません」
小屋の中が、しんと静まる。
その静けさの中で、壁際の棚がわずかに揺れた。
ことん。
棚の上から、古い釘が数本と、色あせた布切れが落ちてきた。
「……助けてくれているみたいです」
セラさんが、そっと言った。
「小屋が? ないない。そんなの、ない……と思うけど」
ヴェルはそう言いながら、落ちた釘を拾う。
拾ってから、すぐにぼくの方へ差し出した。
「使うんでしょ」
「使う。ありがとう」
「別に。床に刺さったら危ないだけだし」
ぼくは受け取った釘を指先で確かめた。
古いが、まだ折れていない。布も埃だらけだが、窓の隙間を塞ぐには使える。
「もし助けてくれているなら、ありがたい」
ぼくがそう言うと、入口の扉が風もないのに少し動いた。
きい、と鳴って、さっきよりも隙間が細くなる。
外から入っていた冷たい風が、少し弱まった。
セラさんが目を丸くする。
ヴェルは無言で、ぼくの袖をつかんだ。
「怖い?」
「怖くないし」
「そう」
「……ちょっと気持ち悪いだけ」
「それは怖いに近いと思う」
「うるさい」
ヴェルは文句を言ったが、袖から手は離さなかった。
ぼくは笑いそうになり、それを飲み込んだ。彼女は疲れている。怖がっているところをからかうのはよくない。
「大丈夫。今のところ、ぼくらを追い出す気はなさそうだ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんじゃん」
「ぼくに言えるのは、だいたいそれくらいだよ」
セラさんが小さく笑った。
それだけで、小屋の中の空気が少し柔らかくなる。
次は寝床だ。
床を掃く道具もないので、壊れた棚の板を使って埃を寄せる。セラさんが布を振り、ヴェルが鎖で壊れた椅子を引きずって壁際へ寄せる。
「セラさん、座ってていいですよ」
「いいえ。わたしも手伝います」
「でも、かなり疲れているでしょう」
「シュウ様もです」
そう言われると、返す言葉がない。
「ヴェルも、無理しなくていい」
「寝る場所くらい、自分で作るし」
ヴェルはつんと横を向いた。
だが、その鎖の動きは丁寧だった。床に残った釘を拾い、尖った木片を避け、セラさんが歩くところに危ないものがないか見ている。
この子は、口よりずっと周りを見ている。
ぼくは床の一角に布を敷いた。
まともな寝床とは言えない。硬いし、狭いし、埃っぽい。
それでも、檻の中ではない。
街道の上でもない。
町の門の外で追い払われる場所でもない。
「今夜はここで休もう」
ぼくが言うと、セラさんが胸元のチョーカーをそっと押さえた。
「ここに、いてもいいのでしょうか」
「少なくとも、この小屋は今のところ入れてくれてる」
「……はい」
ヴェルは床に座り込み、壁に背中を預けた。
「変な小屋だけど、外よりはまし」
「そうだね」
「檻よりは、ずっとまし」
その言葉は、強がりではなかった。
ぼくは工具箱を閉じようとして、手を止めた。
扉は閉まる。雨漏りは、今のところ止まっている。床には三人が横になれる場所がある。
最低限だ。
最低限だけれど、今のぼくらには十分だった。
扉が、静かに閉まった。
さっきまで隙間風が入っていたはずなのに、今はほとんど感じない。
『シュウ。この小屋、ただの小屋ではありません』
「うん。たぶんね」
ぼくは暖炉の横、煤けた石の隅に刻まれた印を見つけた。
扉にあったものと似ている。針と月。それから、細い蔦のような線。
古い魔女の印かもしれない。
調べたい。
正直に言えば、すぐにでも工具箱を開け直して、壁の中の魔力の流れを見てみたい。
けれど、セラさんは座ったまま眠りそうになっている。ヴェルも、まぶたが落ちかけているのを必死にこらえている。
「調べないの?」
ヴェルが聞いた。
「調べたいけど、今は寝床が先」
「おじさんなのに、我慢できるんだ」
「おじさんだから、明日に回すことを覚えたんだよ」
「ふうん」
ヴェルは少し笑った。
ぼくは工具箱を枕代わりに置き、入口に近い場所へ腰を下ろした。何かあった時、最初に動けるように。
「シュウ様、そこでは冷えます」
「大丈夫です。ぼくは慣れてますから」
「それは、大丈夫とは違います」
セラさんが困った顔をする。
ヴェルも、小さく舌打ちした。
「ほんと、そういうところ面倒くさい」
「面倒かな」
「面倒。だから、明日から直す」
「ぼくを?」
「そう。おじさんも壊れてるところ多そうだし」
その言い方が、少しおかしくて。
ぼくは、久しぶりに肩の力が抜けた。
「それは、手間がかかりそうだ」
「覚悟しときなよ」
部屋の奥で、古い食器がかたりと鳴った。
風は、吹いていなかった。




