第8話:境界の森へ
町の門が、背中の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
振り返れば、まだ門の上の見張り台が見えた。守備兵たちの槍も、ロイたちの姿も、小さくなっていく。
ロイは最後まで何か言いたそうにしていた。
でも、来なかった。
来られなかったのだと思う。
帳簿と魔法印具、捕虜たちの証言、縛られた奴隷商人一味。あれを町の中で守る役目が、今のロイたちにはある。
ぼくたちは、門の外へ出た。
正確には、入れてもらえなかった。
その違いは、思ったより大きい。
「こっちから願い下げだし」
ヴェルがフードの奥でぼそっと言った。
「あんな町、別に入りたくなかったし」
声は強い。
でも、歩幅は少し小さい。
セラさんが心配そうにヴェルを見る。
「腕、痛みませんか」
「痛くない」
「本当に?」
「ちょっとだけ」
「では、見せてください」
「やだ」
即答だった。
けれど、ヴェルは腕を後ろに隠さなかった。鎖の巻きついた腕を、ぎこちなく抱えるだけだった。
セラさんは無理に触れない。
ただ、その隣を歩く。
それだけで、少しだけ二人の距離が近づいた気がした。
「魔物側へ行くのは?」
ヴェルが急に言った。
言ってから、自分で顔をしかめる。
「いや、やっぱなし。おじさん、人間だし」
「うん。たぶん歓迎はされない」
「あたしだって、歓迎されるかわかんないし」
ヴェルは腕輪に触れた。
「魔王軍の残党が探してるとか、あの奴隷商人は言ってたけど。そんなの知らない。あたし、自分が何者かもちゃんと思い出せない」
赤い瞳が、フードの影で揺れる。
「魔物側に行ったら、助けてもらえるかもしれない。でも、また別の檻に入れられるかもしれない」
その言葉に、セラさんの指が首元のチョーカーへ触れた。
「神殿筋、という言葉もありました」
彼女は静かに言う。
「わたしも、人間側なら安全とは限らないのですね」
「たぶん」
認めたくはない。
でも、嘘は言えない。
「今は、どちらかの勢力に保護してもらうより、少し距離を置いた方がいいと思う」
「で、行くあては?」
ヴェルが聞く。
「ない」
「ほんとにないんだ」
「ないけど、探す」
「行き当たりばったりじゃん」
「そうとも言う」
ヴェルは呆れたようにため息をついた。
けれど、歩くのをやめなかった。
境界道は、町を離れるにつれて細くなっていく。
片側は人間の手が入った道だ。古い石畳がところどころ残り、草に埋もれた標識が傾いている。
もう片側は、濃い森。
木々の奥から、鳥とも獣ともつかない声が聞こえる。空気は湿っていて、土と葉の匂いが強い。
道と森。
人間と魔物。
その間を、ぼくたちは歩いている。
「あ」
道端の標識が、半分倒れていた。
古い木の柱に、かすれた文字で方角が書いてある。根元が腐って、少し触れば完全に倒れそうだ。
ぼくは足を止めた。
「何?」
ヴェルが振り返る。
「標識が」
「今それ直す必要ある?」
「道に迷う人がいるかもしれない」
「今いちばん迷ってるの、あたしたちじゃない?」
その通りだった。
セラさんが小さく笑う。
「シュウ様らしいです」
「褒められてるのかな」
「はい」
「たぶん、褒めてないと思うけど」
ヴェルが言う。
それでも、ぼくは標識の根元に補修札の切れ端を巻き、余った銅線で軽く固定した。長くは持たない。でも、今日明日で倒れることはないだろう。
「ほんと、変なところで律儀」
「壊れかけてると、気になるんだ」
「自分も壊れかけてるくせに」
ヴェルの言葉に、セラさんがはっとする。
ぼくは苦笑した。
「そこは否定しづらいね」
徹夜だ。
追放され、奴隷商人とやり合い、町からも閉め出された。体も頭も、かなり限界に近い。
セラさんも疲れている。
ヴェルも強がっているだけだ。
「少し休もう」
ぼくは道端の大きな木の根元を示した。
三人で腰を下ろす。
セラさんは、すぐにヴェルの腕を見ようとした。
「やだってば」
「少しだけです」
「少しでもやだ」
「痛むなら、放っておけません」
「……痛むって言ってない」
「ちょっとだけ、と言いました」
ヴェルは言い返せなくなった。
結局、渋々腕を差し出す。
鎖の下の皮膚は赤くなっていた。ぼくの応急処置と、セラさんの光でかなりましになっているが、無理をした跡は残っている。
「ごめん。あとできちんと仕上げる」
ぼくは言った。
「その腕輪も、セラさんのチョーカーも。今は応急だから、負担が残ってる」
「別に、今のままでも」
「だめ。道具は使う人を傷つけたらだめだ」
ヴェルが黙る。
セラさんが、首元のチョーカーに触れた。
「わたしのものも、もっとよくなるのですか」
「なる。ちゃんと磨いて、肌に当たるところも直して、魔力の流れも整える」
「……楽しみです」
セラさんが、控えめに笑った。
その笑顔を見ると、少しだけ疲れが軽くなった気がした。
『シュウ。森の奥です』
頭の中で、マーサの声がした。
『古い魔力は、たぶんそちらです。右……いえ、女神的には右ですが、あなたから見ると少し左かもしれません』
「どっち」
『斜めです』
「斜め」
ヴェルが眉をひそめる。
「何? また女神?」
「うん。森の奥に古い魔力があるらしい」
「案内として雑じゃない?」
『聞こえていますよ、黒髪の小さい方』
「小さいって言うな!」
ヴェルが空に向かって怒る。
セラさんが目を丸くした。
「本当に、女神様の声が聞こえるのですね」
「聞こえる。便利な時と、そうでもない時がある」
『便利です。女神ですから』
「半分くらいは助かってる」
『なぜ半分なのですか』
ぼくは返事をせず、森の方を見た。
風の抜け方が少し違う。
木々の間に、古い道の跡がある。人がよく通る道ではない。けれど、昔は何かがあったのだろう。踏み固められた土が、草の下に残っている。
「こっちかな」
「今の、女神の案内じゃなくておじさんの勘じゃない?」
「道具を見るのと似てる。風の通り方とか、地面の沈み方とか」
「ほんと変」
ヴェルはそう言いながら、立ち上がった。
森に入ると、空気が変わった。
街道より湿っていて、葉の匂いが強い。足元には蔦が多く、ところどころに小さな白い花が咲いている。
「その花、踏まない方がいい」
ヴェルが言った。
「眠くなる匂いを出す」
「わかるの?」
「なんとなく。魔物は、たぶん嫌がる」
ぼくは花を避け、近くに落ちていた小さな鈴を拾った。
古い旅人の荷物から落ちたものだろう。割れていて、音はほとんど鳴らない。
「また拾ってる」
「使えるかもしれない」
銅線を巻き、鈴の割れ目を少しだけ補修する。木の枝に吊るして、細い糸を張る。何かが近づけば、小さく鳴る程度の警戒具だ。
ちゃんとしたものではない。
でも、今のぼくたちには、少しの警戒でもありがたい。
白い花の匂いが風に乗った。
セラさんのチョーカーが淡く光る。
「少し、嫌な匂いが薄くなりました」
「助かる」
ヴェルが小さく言った。
セラさんは嬉しそうに微笑む。
「はい」
「そこで嬉しそうにしないでよ」
「すみません」
「謝るなってば」
二人のやり取りを聞きながら、ぼくは森の奥へ進む。
しばらく歩くと、空気がまた変わった。
見えない薄い膜をくぐったような感覚。
古い網戸に手を触れた時のような、かすかな抵抗がある。
「結界……かな」
ぼくは手を伸ばす。
指先に、ぴり、と弱い感触。
拒んでいるというより、確かめている。歪んだ扉が、開ける相手を選んでいるみたいだ。
ヴェルが少し顔をしかめた。
「なんか、入りにくい」
「嫌な感じですか?」
セラさんが聞く。
「嫌ってほどじゃない。面倒くさい感じ」
「ぼくが先に触ってみる」
古い結界の流れに、そっと魔力を通す。
鍵をこじ開けるのではなく、錆びた蝶番に油を差すように。
壊すつもりはない。
通してほしいだけだ。
しばらくして、抵抗が少し緩んだ。
『……反応しました』
マーサの声が、珍しく真面目になる。
『敵意がない者を、確かめているようです』
「じゃあ、入ってもよさそうだ」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんで入るの?」
「他に行く場所がないから」
ヴェルは小さくため息をついた。
「ほんと、行き当たりばったり」
それでも、彼女はぼくの後ろについてきた。
朝に町を出たはずなのに、森の中では時間の流れが妙にわかりにくかった。
休み、歩き、また休む。
セラさんの足取りが重くなれば止まり、ヴェルの腕輪が痛み出せば腰を下ろす。ぼく自身も、何度か工具箱を置いて息を整えた。
木々の隙間から差す光は、いつの間にか低くなっていた。
葉の影が長く伸び、森の奥に薄い夕闇が溜まり始める。
結界の向こうに出ると、木々が少し開けていた。
そこに、小屋があった。
苔むした屋根。
浮いた壁板。
割れた窓。
傾いた煙突。
扉の前には落ち葉が積もり、長い間、誰も出入りしていないように見える。
ぼろ小屋、と言えばそれまでだ。
でも、完全には崩れていない。
屋根の芯はまだ生きている。柱も、根元は傷んでいるが折れてはいない。窓枠も歪んでいるだけで、直せばはまりそうだ。
捨てられたというより、誰かが戻ってくるのを待って、壊れながら踏ん張っていたように見えた。
まだ、直せる。
「……誰かを、待っていたみたいです」
セラさんが小さく言った。
ヴェルは腕を組む。
「ぼろ小屋じゃん」
そう言いながら、声には少しだけ安心が混じっていた。
扉の取っ手は錆びて、半分外れかけていた。
鍵穴は潰れている。
蝶番も歪んでいる。
屋根からは、夕露がぽたりと落ちていた。
「入れるの?」
ヴェルが聞く。
「普通には無理かな」
「じゃあ」
「でも、直せば開く」
ぼくは工具箱を地面に置いた。
人間の町にも、魔物の領地にも入れなかったぼくたちの前で。
鍵の壊れた扉と、屋根の傾いた小屋だけが、こちらを拒まなかった。
壊れた小屋だけが、まだ直せる顔をして立っていた。




