第7話:魔物を連れた者は街に入れない
「その魔物を、町へ入れることはできない」
守備兵の槍が、まっすぐヴェルへ向けられていた。
朝の光が、槍の穂先に白く反射する。
ぼくたちは町へ戻ってきたはずだった。
奴隷商人の帳簿を持っている。魔法印具もある。グレッグと見張りたちは縛ってある。捕虜たちも、ロイたちも証人になる。
それなのに、門の前の守備兵が最初に見たのは、帳簿ではなかった。
ヴェルだった。
「魔物じゃない」
ヴェルが低く言った。
フードの奥で、赤い瞳が細くなる。声は怒っている。けれど、その奥には傷ついた響きが混じっていた。
「あたしは、あたしだし」
「魔物の気配がある」
守備兵は槍を下げない。
「町へ入れるわけにはいかない」
「待ってくれ」
ロイが前へ出た。
まだ顔色は悪い。だが、昼間の軽さは消えている。
「こいつらは俺たちを助けた。奴隷商人に捕まってたんだ。帳簿もある。まずはそっちを」
「下がれ、銀鹿の牙」
門の奥から、低い声がした。
鎧を着た大柄な男が歩いてくる。
四十代くらいだろうか。顔には深い皺が刻まれていて、目つきは鋭い。腰の剣は飾りではない。鎧もよく手入れされている。
壊れたところを放置しない人間の装備だ。
だからこそ、厄介だと思った。
この人は、ただの怠慢や悪意で動いているわけではない。
「守備隊長バルク……」
ボルドが小さく呟いた。
バルクはぼくたちを順に見た。
縛られたグレッグたち。壊れた荷馬車。青い顔の捕虜たち。ロイたち。そして、ヴェル。
最後に、ぼくの工具箱へ視線を落とす。
「事情は聞く。奴隷商人どもは引き取る。帳簿も確認する」
低く、硬い声だった。
「だが、魔物を町へ入れることはできん」
「彼女も捕まっていたんです」
ぼくは言った。
「奴隷商人に、商品として扱われていた。怪我もしている。事情を」
「事情は聞くと言った」
バルクはぼくを見た。
「その上で、町へは入れん。町民が怯える。魔王軍の間者かもしれん。門を開けてからでは遅い」
「間者じゃない!」
ヴェルが叫んだ。
その瞬間、守備兵たちの槍がわずかに動く。
ぼくは一歩、ヴェルの前に出た。
槍の穂先が、今度はぼくの胸元へ向く。
怖くないわけじゃない。
けれど、どくわけにはいかなかった。
「人間ならどけ」
バルクが言う。
「その娘は、町外の拘束所で調べる」
「拘束所?」
ヴェルの声が硬くなる。
「また檻に入れろってこと?」
バルクは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
守備兵の一人が、ヴェルの腕輪を見て言った。
「鎖つきなら、ちょうどいい。暴れられないように」
ヴェルの肩が、ぴくりと震えた。
彼女は怒った顔をしている。
でも、鎖を握る手は白くなるほど強い。
「この鎖は、彼女を縛るためのものじゃない」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
守備兵がこちらを見る。
「ぼくが作り替えた。彼女の武器だ」
「魔物に武器を持たせて町へ入れろと言うのか」
バルクの声がさらに硬くなる。
理屈としては、間違っていないのかもしれない。
町を守る人間としては、当然の判断なのかもしれない。
でも。
檻の中で震えていたヴェルを知っている。
怖いのに強がって、鎖を自分の武器だと言った彼女を知っている。
それをまた「縛るためのもの」に戻すことだけは、できなかった。
「帳簿と印具は渡します。奴隷商人たちも引き渡す。捕虜の保護もお願いします」
ぼくは工具箱を抱え直した。
「その代わり、二人を保護してください」
バルクはセラさんを見た。
「白い髪の女は、人間なら保護できる」
セラさんが小さく息をのむ。
「だが、その魔物は別だ」
「わたしだけ、ですか」
セラさんが聞いた。
声は柔らかい。
けれど、いつものおっとりした響きとは少し違う。
「わたしだけ保護されて、ヴェルさんは檻へ戻されるのですか」
「安全確認が済むまでだ」
「安全を確認してくださるのは、どなたですか」
バルクは答えない。
代わりに、別の守備兵がセラさんの首元を見た。
「その首輪は何だ」
セラさんがチョーカーに手を添える。
「これは」
「奴隷商人の首枷に見える。改造品か?」
守備兵たちの視線が変わる。
帳簿には、神殿筋の符丁があった。セラさんの身元はわからない。首には元奴隷具のチョーカー。
人間だから安全。
そんな単純な話ではなくなっていく。
「その女も事情聴取が必要だな」
バルクが言った。
セラさんの指が、チョーカーを握る。
でも、彼女は一歩前へ出た。
「この方は、わたしを商品として見ませんでした」
セラさんは、ぼくではなくバルクを見ている。
「わたしは、その方のそばにいます」
「セラさん」
「シュウ様」
彼女は静かに首を振った。
「わたしだけ安全な場所へ行くことはできません」
ヴェルが横を向いた。
「別に、あたしは頼んでないし」
「はい。でも、わたしがそうしたいのです」
「……勝手にすれば」
ヴェルの声は、少しだけ震えていた。
「隊長、待ってください」
ロイが言った。
「その子も、俺たちを助けたんです。鎖でグレッグを止めた。こっちの白い髪の人も、捕虜を守ってくれた。シュウがいなきゃ、俺たちは全員売られてた」
ミナも一歩前へ出る。
「魔物だから危険っていうなら、私たちを助けたことはどうなるんですか」
ボルドは壊れた盾を抱えたまま、うなずいた。
「少なくとも、あの奴隷商人どもより先に槍を向ける相手じゃねえ」
リリィも震えながら言う。
「お願いします。話だけでも」
バルクは、彼らの言葉を黙って聞いた。
そして、短く言った。
「証言は受け取る」
ロイの顔に、わずかに希望が浮かぶ。
「だが、判断は変えん」
その希望が、すぐに消えた。
「町の安全を預かる者として、魔物を門の内側へ入れることはできない。白い髪の女も、身元が確認できるまで拘束に近い保護となる」
バルクの声に迷いはなかった。
たぶん、この人は本気で町を守ろうとしている。壊したいのではなく、壊される前に閉じようとしている。
だからこそ、余計にきつかった。
保護。
便利な言葉だ。
檻も首枷も、きっと誰かにとっては保護だったのだろう。
そう思った瞬間、胸の奥が冷えた。
「おまえは人間だ」
バルクがぼくを見る。
「帳簿を渡し、魔物を置いて町へ入れ。おまえの事情は聞く」
ロイがこちらを見る。
セラさんが息を止める。
ヴェルは、何も言わなかった。
フードの奥で、赤い瞳だけがこちらを見ていた。
答えは、もう決まっていた。
「なら、ぼくも入らない」
門の前が静かになった。
自分の声が、思ったより遠く聞こえた。
「この二人を置いて入るつもりはありません」
壊れたものを前にして、自分だけ雨の当たらない場所へ逃げる修理屋はいない。
「その選択が、町から出るという意味だとわかっているのか」
「わかっています」
たぶん、完全にはわかっていない。
町に入れないということが、どれほど困るのか。仕事も、宿も、食料も、全部遠ざかる。帳簿を渡しても、ぼく自身は証人として扱われないかもしれない。
それでも。
ここで二人を置いていく方が、ずっと取り返しがつかない。
「シュウ、待て」
ロイが声を上げた。
「そんな、あんたまで追い出されることは」
「ロイ」
ぼくは帳簿と魔法印具を差し出した。
「これを頼む。捕虜の人たちのことも」
「でも」
「君たちは町に入れる。証言もできる。だから頼む」
ロイは何も言えなくなった。
昼間、ぼくを追い出した彼が、今度はぼくが町に入れなくなるのを止められずにいる。
その顔は、見ていて少しつらかった。
「……わかった」
ロイは、歯を食いしばるように言った。
「絶対、握り潰させない」
「ありがとう」
バルクは帳簿と印具を受け取らせ、グレッグたちを守備兵に引き渡すよう命じた。
最後まで、ヴェルへの槍は完全には下がらなかった。
ぼくたちは門を離れた。
セラさんは、申し訳なさそうに俯いている。
「わたしのせいで」
「違う」
「でも、シュウ様は町へ」
「入らないって決めたのは、ぼくだよ」
ヴェルは黙っていた。
怒っているのか、悔しいのか、泣きそうなのか。
フードの奥の顔は見えない。
「……あたしのせいでもないから」
小さな声だった。
「うん」
「おじさんが勝手にしただけだから」
「うん」
「だから、後で文句言わないでよ」
「言わないよ」
ヴェルはそれ以上何も言わなかった。
でも、歩く位置が少しだけ近くなった。
町の門が遠ざかる。
人間の町にも戻れない。
魔物の領地へ行けるわけでもない。
ヴェルは魔物だと疑われているが、自分が何者かを証明できない。ぼくは人間だ。魔物側へ行けば、今度はぼくが怪しまれるだろう。
ぼくたちは、境界道の上に取り残されていた。
「シュウ様、これからどちらへ」
セラさんが不安そうに聞く。
「まずは、雨風をしのげる場所を探そう」
「おじさん、計画ないの?」
ヴェルが呆れた声を出す。
「ない」
「言い切った」
「でも、壊れた屋根くらいなら直せる」
ヴェルが一瞬こちらを見て、それから小さく笑った。
「ほんと、変なおじさん」
その時だった。
頭の奥で、マーサの声がした。
『シュウ。森の奥に、妙な気配があります』
「妙な気配?」
『敵意ではありません。古い魔力です。とても古くて、少し寂しそうな』
ぼくは足を止め、森の方を見る。
朝日が木々の隙間から差し込んでいる。
その奥で、風の流れがほんの少しだけ曲がったように見えた。
何かがある。
はっきりとは見えない。
けれど、森の奥に古い道具の匂いがする。長く放っておかれて、それでもまだ完全には壊れていないものの気配だ。
「行ってみよう」
ぼくは工具箱を持ち直した。
雨風をしのげるかは、わからない。
でも、壊れかけたものなら、たぶん何かはできる。




