第6話:戻ってきてくれ、でも
夜明け前の境界道は、薄い青に沈んでいた。
森の奥には、まだ夜の黒が残っている。けれど東の空だけが、少しずつ白んでいく。
ぼくたちは壊れた荷馬車のそばで、後始末をしていた。
グレッグと見張りたちは、ヴェルの鎖と荷馬車のロープで縛ってある。ダリオは逃げた。けれど、帳簿と魔法印具は残った。捕まっていた人たちは、まだ青い顔をしながらも、互いに肩を貸し合っている。
完全に直ったものなんて、一つもない。
それでも、全員が生きている。
それだけで、今は十分だった。
「みなさん、痛むところはありませんか。わたし、少しなら」
「セラさん」
ぼくは彼女を止めた。
セラさんは集魔のチョーカーに手を添えたまま、困ったように振り返る。
「でも、まだ痛そうな方が」
「君も痛そうだよ」
「わたしは、大丈夫です」
「大丈夫な人は、そんなに顔が白くならない」
そう言うと、セラさんは小さく目を伏せた。
「……はい。少しだけ、休みます」
素直なのは助かる。
その隣で、ヴェルが腕を組んでいた。
「あたしは平気だし」
そう言いながら、鎖を巻いた腕が細かく震えている。
「ヴェルも座って」
「命令しないで。あたしは」
「お願い」
「……なら、まあ、聞いてあげなくもないけど」
ヴェルは不満そうに唇を尖らせながら、壊れた木箱に腰を下ろした。
セラさんがその横に座る。二人とも、首元と腕輪に自然と手を触れていた。
つい数時間前まで奴隷商人の拘束具だったもの。
けれど今は、二人が自分の意思で触れている。
そのことが、少しだけ救いのように思えた。
「シュウ」
かすれた声がした。
ロイだった。
彼は少し離れたところで、泥だらけのまま立っていた。頬に切り傷が残っている。セラさんの光で塞がりかけてはいるが、まだ痛むはずだ。
昼間みたいな軽さはない。
剣を握る手も、どこか頼りなかった。
「その……」
ロイは言葉を探すように口を開いて、閉じた。
ボルドも、ミナも、リリィも後ろにいる。誰も笑っていない。
「悪かった」
ようやく出た言葉は、短かった。
「あんたを追い出したことも、言ったことも。俺たち、何もわかってなかった。あんたがいなかったら、俺たちは死んでた」
ロイは頭を下げた。
ぎこちない。
謝り慣れていない頭の下げ方だった。
でも、だからこそ、本気なのだろうと思った。
「俺の盾も、留め具が外れた」
ボルドが壊れた大盾を見下ろす。
「あんたが言ってたのに、俺は聞かなかった。盾役が盾を見てなかったんだ。笑えねえ」
ミナは杖を抱きしめるように持っていた。
「火力があれば何とかなるって、本気で思ってた。煙を出すだけで人が逃げる時間を作れるなんて、考えたこともなかった」
リリィは両手を握りしめている。
「私も、ごめんなさい。あの時、止められたのに、何も言えませんでした」
謝罪の言葉は、どれも滑らかではなかった。
けれど、滑らかじゃない方がよかった。
言い慣れた謝罪より、ずっと重かった。
「顔を上げて」
ぼくは言った。
怒っていないわけではない。
昼間の言葉が消えるわけでもない。
でも、彼らは今、生きていて、立っていて、自分たちの失敗を見ている。
なら、それ以上責めても、何かが直るわけではない。
「装備は、ちゃんと見た方がいい」
ロイが顔を上げる。
「剣も盾も、魔法も回復も。強いものほど、手入れを怠ると怖い。君たちは強くなれると思う。だけど、強くなる前に壊れたら意味がない」
ロイの顔が歪んだ。
「……あんたは、そういうことをずっと言ってたんだな」
「うん」
「俺たちが聞かなかった」
「うん」
短く答えると、ロイは苦しそうに笑った。
「そこは否定してくれねえんだな」
「事実だから」
ヴェルが後ろで小さく吹き出した。
「おじさん、そういうとこ遠慮ないよね」
「遠慮して事実が曲がるなら苦労しないよ」
少しだけ、空気が緩んだ。
その緩みの中で、ロイがもう一度口を開く。
「シュウ。戻ってきてくれないか」
空気が止まった。
「俺たち、今度はちゃんと聞く。装備も見る。無茶も、たぶん減らす。だから」
たぶん、というあたりが正直だった。
ボルドも、ミナも、リリィも、こちらを見ている。
ぼくはすぐに答えられなかった。
戻れば、楽かもしれない。
少なくとも町には帰れる。冒険者としての仕事もある。ロイたちが本気で変わろうとしているなら、もう一度やり直す道も、完全にないわけではない。
でも。
背後で、かすかな金属音がした。
セラさんが、首元の集魔のチョーカーを握っていた。
彼女はすぐに手を離そうとしたが、指先が離れきらない。
「シュウ様が、お戻りになりたいなら」
言葉は穏やかだった。
けれど、声の奥に不安がある。
「わたしは、止めません」
ヴェルはそっぽを向いた。
「戻れば? あたしには関係ないし。別に、おじさんがどこ行こうと」
そう言いながら、腕輪の鎖を強く握っている。
黒い鎖が、ぎゅ、と小さく鳴った。
ぼくは息を吐いた。
これは、難しい話じゃない。
もう答えは出ている。
「その前に、二人に言っておきたいことがある」
セラさんとヴェルがこちらを見る。
「町に戻ったら、それは外した方がいい」
セラさんの顔が、はっきりとこわばった。
ヴェルの眉が跳ねる。
「は?」
「奴隷の首枷と腕輪に見える。人に見られたら、嫌なことを言われるかもしれない」
「これは、奴隷の首枷ではありません」
セラさんが、珍しく早口で言った。
両手でチョーカーを包む。
「シュウ様が、わたしを縛るためではなく、守るために作ってくださったものです」
その声は震えていた。
けれど、引かなかった。
「わたしは、これを外したくありません」
ヴェルも腕輪を抱えるように押さえた。
「あたしのも奴隷の鎖じゃない。あたしの武器だし」
そこで一度言葉を切る。
「……おじさんが、くれたやつだし」
最後の方は、ほとんど聞こえないくらい小さかった。
でも、聞こえた。
聞こえてしまった。
「そっか」
ぼくはうなずいた。
「じゃあ、ちゃんと直す。見た目も、もっと装身具や武器に見えるように。奴隷の道具だなんて、誰にも言わせないように」
セラさんの目が潤む。
ヴェルは顔を赤くして、ふんと鼻を鳴らした。
「最初からそう言えばいいのよ」
「ごめん」
「謝るなら、かっこよく作りなさいよね」
「努力する」
ぼくはロイの方へ向き直った。
ロイは、もう答えがわかっている顔をしていた。
「戻らないよ」
自分で言うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「怒っているからじゃない。今は、ぼくが直さなきゃいけないものが別にある」
壊れた道具でも、元の形に戻すだけが修理じゃない。
歪んだまま使い続けるより、別の形に作り替えた方がいいこともある。
ロイは黙っていた。
「セラさんとヴェルを、放っておけない」
沈黙が落ちた。
それを破ったのは、リリィだった。
「そう、ですよね」
ロイが目を伏せる。
「……わかった」
短い言葉だった。
悔しさも、情けなさも混じっていた。
けれど、受け入れる言葉だった。
「なら、せめて町まで一緒に行かせてくれ。帳簿も、奴隷商人どもも、俺たちも証人になる」
「助かる」
「あと、装備のことも」
ロイは自分の刃こぼれした剣を見た。
「町に戻ったら、見てくれないか。金は払う」
「それは修理屋の仕事として受けるよ」
「……ああ」
ロイは小さくうなずいた。
関係は元には戻らない。
でも、完全に壊れたわけでもない。
今は、それでいい。
ぼくたちは街へ戻る準備を始めた。
荷馬車の壊れた車輪軸は、応急で補修した。檻の鉄枠を一本外し、割れた軸に添え木のように当てる。見た目はひどいが、町までゆっくり動かすくらいなら耐える。
「ほんと、何でも直すのね」
ミナが呟いた。
「何でもは直せないよ」
ぼくは車輪の歪みを確認しながら答える。
「でも、町までは持たせる」
捕虜たちを荷台に乗せ、グレッグと見張りたちは縄でつないだ。帳簿と魔法印具は、ぼくの工具箱に入れてある。
セラさんには、首元を隠すための布を渡した。
「隠した方がいい。嫌な目で見る人もいると思う」
「はい。でも、外しません」
「うん。外さなくていい」
ヴェルには、深めのフードをかぶってもらった。
「暑い」
「我慢して」
「おじさん、命令多くない?」
「お願いが多いだけ」
「じゃあ聞いてあげる。お願いだから」
ヴェルは文句を言いながらも、フードを深くかぶった。
赤い瞳が布の陰に隠れる。
それでも、完全には隠せない。彼女の空気は、人間の町ではどうしても目立つ。
ダリオの言葉が、頭をよぎった。
境界の町は、人間に優しい。魔物には、あまり優しくない。
嫌な言葉だ。
けれど、たぶん嘘ではない。
朝日が昇り始めた頃、ぼくたちは町の門へたどり着いた。
ロイが小さく息を吐く。
「これで、ひとまず戻れるな」
ぼくも、そう思いたかった。
門の前にいた守備兵たちは、縛られた奴隷商人たちを見た。壊れた荷馬車を見た。ぼくの工具箱を見た。
そして最後に、ヴェルを見た。
フードの奥の赤い瞳。
布の隙間からのぞいた、魔物の気配。
守備兵の顔色が変わる。
槍の穂先が、こちらへ向いた。
「止まれ」
低い声が、朝の空気を切った。
「その魔物を、町へ入れることはできない」




