第5話:おっさん、奴隷商人を出し抜く
鉄箱の鍵穴には、嫌な魔力の染みがこびりついていた。
錆ではない。
汚れでもない。
何度も何度も、人の名前や血や魔力を押しつけられて、道具の方まで歪んでしまった跡だ。
「それに触れるな、と言ったはずです」
ダリオの声が、煙の向こうから飛んでくる。
さっきまでの余裕は、少しだけ薄くなっていた。
つまり、この箱は当たりだ。
「触るなと言われると、余計に見たくなるよね」
「おじさん、そういうこと言う余裕あるの?」
ヴェルの声が後ろからした。
振り返る余裕はない。けれど、鎖の鳴る音でわかる。彼女はまだ立っている。セラさんの光に支えられて、ぎりぎりのところで踏ん張っている。
「余裕はない」
ぼくは鉄箱の角に指をかけた。
「だから急ぐ」
鍵穴にヤスリを差し込もうとして、すぐにやめた。
正面から開ける作りではない。鍵穴の奥に、細い燃焼札が仕込まれている。無理にこじれば、箱の中身が燃える。帳簿か契約書かはわからないが、証拠を消す仕掛けだ。
よくできている。
だから腹が立つ。
人を縛るための道具に、どうしてこうも手間をかけるのか。
「鍵は?」
「ありません。鍵穴からは開けない」
「は? じゃあどうすんのよ」
「箱は鍵穴だけでできてるわけじゃない」
ぼくは鉄箱を横から見る。
蝶番。底板。側面のかしめ。どれも頑丈だが、何度か開け閉めした跡がある。鍵穴は罠付きでも、箱そのものを作った職人は、修理や点検のための逃げ道を残している。
職人は、完全に壊さないと開かないものを嫌う。
たとえ使う人間が悪党でも、作った人間の癖は残る。
「ここだ」
ぼくは側面の留め具にヤスリを入れた。
鉄粉が指に落ちる。
森の奥から見張りの怒鳴り声が近づく。グレッグは素手で檻を押しのけようとしている。ダリオの靴音も、じりじりと近づいてくる。
怖い。
でも、手は止めない。
留め具の噛み合わせが浅くなったところで、刻印針を差し込む。ぐ、と角度を変える。
ぱきん。
小さな音を立てて、側面の板が浮いた。
「地味」
「開いたならいい」
「まあ、そこはちょっとすごいけど」
ヴェルが小さく言った。
ぼくは鉄箱の中を覗き込む。
入っていたのは、黒い革表紙の帳簿。小型の魔法印具。束ねられた制御札。それから、細い銀鎖でまとめられた契約札の束だった。
帳簿の端には、いくつもの符丁が並んでいる。
神殿筋らしき印。境界貴族の紋。魔王軍残党を示すのか、黒い角のような印。
文字の意味は全部はわからない。
だが、道具としての意味はわかる。
これは、人を物にするための一式だ。
「見つけた」
「シュウ!」
ロイの声が飛んだ。
顔を上げると、グレッグがこちらへ走ってきていた。
大剣はもうない。けれど、あの腕で殴られれば、それだけで骨が折れる。いや、折れるだけで済めばいい方だ。
「この野郎、ちょこまかと!」
「ヴェル」
「わかってる!」
ヴェルが腕を振る。
黒い鎖が地面を走り、グレッグの足首に絡みつく。
だが、グレッグは止まらない。鎖を引きずったまま、力任せに踏み込んでくる。
「軽いんだよ!」
「軽いのは、あんたの頭でしょ!」
ヴェルが言い返す。
けれど、顔色は悪い。魔鎖の腕輪は動いているが、まだ完全ではない。ヴェルの魔力も、封印で細く絞られたままだ。
セラさんが、ヴェルの背中に手を添えた。
「少しだけ、支えます」
「だから、余計なこと」
「ごめんなさい」
「謝るなって言ってるでしょ!」
言いながらも、ヴェルは手を振り払わなかった。
集魔のチョーカーが淡く光る。
周囲の魔力がセラさんの首元に集まり、そこからヴェルの背へ、腕へ、鎖へと流れていく。押しつける力ではない。乱れていた流れを、そっと整える力だ。
鎖の音が変わった。
じゃら、ではなく、す、と影が滑るような音。
黒い鎖が角度を変え、グレッグの足首だけではなく、膝、腰、腕へと回り込む。
「縛られるだけの鎖じゃない」
ヴェルが歯を食いしばる。
「これは、あたしが縛る鎖だ!」
鎖が締まった。
グレッグの巨体が、つんのめる。
「ぐっ、おおおおっ!?」
力で引きちぎろうとするが、鎖は真正面から受け止めない。影みたいに角度を変え、力を横へ逃がす。押せばずれ、引けば絡む。
上手い。
ヴェルは感覚でやっている。だが、鎖の使い方を体で知っている。
その事実に、本人も少し驚いているようだった。
「な、なによ。やればできるじゃん、あたし」
「できてる。すごい」
「おじさんに褒められても、別に嬉しくないし」
耳まで赤くして言うので、説得力はなかった。
その間に、ぼくは鉄箱から制御札の束を取り出す。
ダリオが低く舌打ちした。
「制御札に触れるな」
「触られたくないなら、もう少し目立たないところにしまうべきだった」
「それが何かわかっているのですか」
「人を縛るための道具だってことくらいは」
ぼくは札の端を見た。
セラさんの首枷、ヴェルの腕輪、捕虜たちの簡易契約縄。それぞれの模様がある。札を起点にして、契約具へ命令を流す仕組みだ。
難しい魔法理論はわからない。
けれど、魔力の噛み合わせなら見える。
帳簿と印具と札が、互いに同じ向きへ噛んでいる。だから命令が通る。なら、その噛み合わせをずらせばいい。
壊す必要はない。
狂わせれば十分だ。
人を縛るために作られた噛み合わせなら、人を逃がすために噛み違えさせる。
それくらいの嫌がらせは、修理屋にもできる。
「セラさん、少しだけ光をこっちへ」
「はい」
セラさんが手を伸ばす。
集魔のチョーカーに集まった淡い光が、ぼくの手元の札へ流れた。
その光に触れた瞬間、契約札の黒い線が嫌がるように波打つ。
「やっぱり」
「何が?」
ヴェルがグレッグを押さえながら聞く。
「この札、きれいな魔力に弱い。汚れを隠すために黒く塗ってあるだけで、中の線は細い」
「じゃあ壊せる?」
「壊すと燃える。だから、ずらす」
ぼくは刻印針で、制御札の端にほんの少し傷を入れた。
大きく切らない。
紙を破るのではなく、魔力の通り道を横へ逃がす。水路の向きを変えるように。
黒い線が、ぷつ、と震える。
同時に、捕虜たちを縛っていた縄のいくつかが緩んだ。
「縄が……!」
リリィが声を上げる。
「ロイ、今」
「あ、ああ!」
ロイが動いた。
縄が緩んだ捕虜を起こし、荷馬車の陰へ誘導する。ボルドは壊れた盾を抱え、檻の扉を押さえた。ミナは杖を握りしめ、爆発ではなく、煙だけを細く広げている。
派手ではない。
だが、今はそれでいい。
煙が見張りの視界を遮り、ボルドの盾が逃げる人の壁になり、ロイが声をかけて動線を作る。
やればできるじゃないか。
胸の奥に、少しだけ苦いものが広がる。
最初からこうやって動けていれば、たぶん捕まらなかった。
でも、今動けているなら、それでいい。
「俺たち、今まで何を見てたんだ」
ロイが、誰に言うでもなく呟いた。
ぼくは聞こえないふりをした。
今は反省より手を動かす時間だ。
「商品が勝手に、契約を拒むはずがない」
ダリオの声が硬くなる。
彼は新しい札を取り出し、こちらへ向けた。
札の模様が黒く光る。
だが、セラさんの首元の集魔のチョーカーは締まらなかった。ヴェルの腕輪も、逆流するように黒い火花を散らしただけだ。
ダリオの札の端が焦げる。
「なぜ」
「商品じゃないからだと思う」
ぼくは札束の噛み合わせをもう一つずらした。
ぱん、と乾いた音がして、魔法印具の表面にひびが入る。
「あ」
思わず声が出た。
「壊したの?」
ヴェルが聞く。
「壊すつもりはなかった」
「でも壊したんでしょ」
「……直せない壊し方ではない」
「出た。おじさんの変なこだわり」
ヴェルが笑う。
その笑い声に、セラさんもほんの少しだけ頬を緩めた。
だが、ダリオは笑っていない。
「その帳簿を街に持ち帰って、どうするつもりですか」
彼は低い声で言った。
「あなたはただの修理屋でしょう。誰が信じるのです。神殿筋や境界貴族の名を、あなたのような者が口にしたところで、握り潰されるだけですよ」
痛いところを突かれた。
たぶん、その通りだ。
ぼくはこの町で有名な冒険者でもなければ、貴族でもない。女神に転移させられたなどと言っても、信じる人の方が少ないだろう。
帳簿を持ち帰っても、誰かが握り潰すかもしれない。
それでも。
「俺たちが見てた」
ロイの声がした。
振り返ると、ロイが捕虜の一人を支えながら、こちらを見ていた。
顔はまだ青い。足も震えている。
それでも、目だけは逸らしていなかった。
「銀鹿の牙が、見てた。こいつらに捕まったことも、あんたが助けに来たことも、その帳簿も」
ミナが唇を噛んでから、小さくうなずいた。
「私も見たわ」
ボルドが壊れた盾を構え直す。
「俺もだ」
リリィも震えながら手を上げた。
「わ、私も……証言します」
ロイたちは、まだ謝っていない。
それでいい。
謝罪より先に、今は立つことを選んだ。
その方が、ずっといい。
「証人が増えたね」
ぼくが言うと、ダリオの顔から薄い笑みが消えた。
「ならば、全員連れていけばよいだけです」
ダリオが指を鳴らす。
残っていた見張りたちが、一斉に動いた。
グレッグも鎖を引きちぎろうと、全身に力を込める。ヴェルの顔が歪んだ。
「おじさん、長くは無理!」
「十分」
ぼくは荷馬車の車輪を見た。
さっき固めた車輪止めは、もうひび割れている。だが、荷馬車そのものの留め具は古い。右後ろの車輪軸に、小さな割れがある。そこへ無理な力がかかれば、馬車は傾く。
逃げ道を塞ぐには、ちょうどいい。
「ボルド、荷馬車の右を押せる?」
「右だな!」
「ミナ、煙を馬の方へはやらないで。驚かせると危ない」
「わ、わかってるわよ」
「ロイ、捕虜を左へ。リリィは転んだ人を」
「わかった!」
指示を出しながら、ぼくは最後の魔石欠片を車輪軸へ投げた。
狙うのは破壊ではない。
もともと割れていたところへ、小さな振動を入れるだけだ。
かつん。
魔石欠片が車輪軸に当たる。
ボルドが荷馬車を押す。
軸が、ぎしりと鳴った。
次の瞬間、荷馬車が大きく傾く。
「なっ」
見張りたちの進路がふさがる。
積んであった空の檻が滑り落ち、地面に転がった。グレッグが巻き込まれそうになり、体勢を崩す。そこへヴェルの鎖がさらに絡みついた。
「今!」
「言われなくても!」
ヴェルが叫ぶ。
黒い鎖がグレッグの腕と胴を締め、倒れた檻の柱へ縛りつけた。
グレッグが吠える。
だが、動けない。
セラさんの光が捕虜たちの前に薄く広がり、飛んできた木片や小石の勢いを弱める。
「下がってください!」
震える声。
それでも、セラさんは前に出ていた。
「わたしにできることが、少しでもあるなら」
捕虜たちが、彼女の後ろへ下がる。
ダリオは一歩、また一歩と後ずさった。
手にはまだ札がある。
だが、帳簿と印具はぼくの手元にある。制御札の束も、いくつかは使えなくなっている。
「ここまでですね」
ダリオが静かに言った。
その声だけは、まだ整っている。
「グレッグ。あなたは時間を稼ぎなさい」
「頭ぁ!?」
ダリオは返事をしなかった。
袖口から、小さな灰色の札を取り出す。
逃げる札だ。
見た瞬間にわかった。札の端が焼け焦げていて、一度きりの使い捨て。発動すれば煙か転移か、どちらにせよ追えない。
「逃がすか!」
ヴェルの鎖が伸びる。
だが、間に合わない。
ダリオの周囲に灰色の煙が弾けた。
「帳簿を持っていたところで、あなた方が街に戻れるかどうか」
煙の向こうで、ダリオが薄く笑う。
「境界の町は、人間に優しい。魔物には、あまり優しくない」
その言葉だけを残して、ダリオの姿は煙に消えた。
あとには、縛られたグレッグと、倒れた見張りたちと、壊れた荷馬車。
そして、ぼくの手の中の帳簿と、ひびの入った魔法印具が残った。
「逃げた……」
ヴェルが悔しそうに言う。
「でも、全部は持っていけなかった」
ぼくは帳簿を持ち上げた。
「こっちは残った」
「おじさん、地味に勝つね」
「派手に勝てないからね」
そう言うと、ヴェルは少しだけ笑った。
セラさんは、集魔のチョーカーに手を添えたまま、捕虜たちを見回している。
「みなさん、痛いところはありますか。少しずつなら、たぶん」
「セラさんも休んで」
「でも」
「君が倒れたら、みんな困る」
セラさんは困ったように眉を下げ、それから小さくうなずいた。
「……はい。シュウ様」
名前を呼ばれて、少しだけ変な感じがした。
さっきまで檻の中にいた二人が、もうぼくの近くに立っている。首元のチョーカーと、腕の鎖に触れながら。
夜明け前の空が、少しだけ白んでいた。
捕虜たちは解放された。
グレッグと見張りたちは縛った。
ダリオは逃げたが、帳簿と印具は残った。
「シュウ」
ロイが、かすれた声でぼくを呼んだ。
昼間みたいな軽さは、もうなかった。
「俺たち、あんたに……」
言葉はそこで止まる。
謝罪にしては遅すぎて、言い訳にしては弱すぎる。
ぼくは工具箱を抱え直した。
壊れたものは、まだ多い。
道具も、人の関係も。




