第10話:ここを宿にするしかない
目が覚めたのは、夜明け前だった。
小屋の中は、まだ薄暗い。
暖炉には火を入れていない。煙突の具合を確かめないまま火を焚くのは危ないからだ。それなのに、思ったほど寒くなかった。
入口に近い床で、ぼくは工具箱を枕にして横になっていた。
寝たつもりはなかった。
見張りをするつもりだった。
けれど、まぶたが落ちたらしい。体が重い。肩も腰も痛い。四十男が硬い床で寝ると、朝はこうなる。
「……いたた」
小さく声が漏れた。
すると、すぐ近くで布が擦れる音がした。
セラさんが、ぼくの上着の端を握ったまま眠っていた。
白い髪が頬にかかり、首元の集魔のチョーカーがかすかに光っている。昨日まで奴隷の首枷だったものを、彼女はいまも大事そうにつけている。
外した方がいい。
そう思うのに、今のぼくにはまだ言えなかった。
彼女の指は、眠っていても上着を離していない。
左側では、ヴェルが壁にもたれて眠っていた。
眠っている、というより、途中で力尽きた姿勢だ。腕には魔鎖の腕輪。黒い鎖の先が、入口の扉の取っ手に軽く巻きついている。
寝ながら見張っていたのだろう。
「無理しなくていいのに」
ぼくは小さくつぶやいた。
返事はない。
二人とも、やっと眠れたのだ。
町から追い出され、森を歩き、得体の知れない小屋に入った。安心できるはずがない。それでも、少しだけ眠れた。
それだけで、この小屋には意味がある。
檻ではない。
街道の脇でもない。
門の外で、誰かの許可を待つ場所でもない。
扉があって、屋根があって、眠っている二人がいる。
今のぼくには、それがずいぶん大きなものに見えた。
ぼくは起き上がろうとして、セラさんの指が上着を握っていることに気づき、動きを止めた。
無理に外すのはためらわれる。
仕方なく、そのまま上半身だけ起こした。
扉を見る。
昨日、閉まりきらなかったはずの隙間が、少し狭くなっている。風は入ってこない。床の濡れていた場所も乾きかけていた。
直したのは、ぼくの手だけではない。
小屋が、少しだけ自分で整ったように見えた。
『シュウ。起きていますか』
頭の中に、マーサの声が響いた。
「起きたところ」
『寝顔を拝見しました。疲れた職人の寝顔というのは、なかなか味わい深いものですね』
「見ないでほしいな」
『女神ですので』
「理由になってない」
『それより、この小屋です』
マーサの声が、少し真面目になった。
『古代の魔女の手仕事に近いものを感じます。神の奇跡ではありません。人の手で作られ、人ではないものにも開かれていた場所です』
「人ではないものにも?」
『ええ。人間だけの家ではありません。魔物だけの巣でもありません。境界に置くために作られたものかもしれません』
境界に置くための小屋。
その言葉は、今のぼくらに妙に合っていた。
人間の町には入れない。
魔物側にも行けない。
道の上で眠るには危ない。
その間に立つ小屋。
「都合が良すぎないかな」
『都合の良いものを見つけた時、人はまず疑います。よいことです』
「マーサに言われると、少し不安になる」
『なぜですか』
「なんとなく」
ぼくは苦笑して、ゆっくり立ち上がった。
セラさんの指から上着の端をそっと外す。彼女は少しだけ眉を寄せたが、起きなかった。
ヴェルの鎖も、扉から外さずにそのままにしておく。見張りのつもりなら、無理に解かない方がいい。
まずは水だ。
次に火。
その次に、二人がもっとまともに眠れる場所。
町を出た時から、ぼくの頭はずっとその順番を考えている。
大きな理想や、これからどう生きるかなんて話は、その後だ。
人は、水がないと困る。
濡れた床では眠れない。
寒ければ体を壊す。
それを一つずつ直す。
ぼくにできるのは、それくらいだ。
部屋の隅に、古い桶があった。
昨日は見なかった気がする。いや、あったのかもしれない。疲れていて、見落としただけかもしれない。
桶はひび割れていたが、底は抜けていない。
ぼくは補修針を取り出し、割れ目を指でなぞった。木が乾ききっている。水を入れたら、すぐに漏れるだろう。
「まずは、桶からかな」
銅線を細く割れ目に沿わせ、魔石粉を少しだけ馴染ませる。
きれいな仕上がりではない。
でも、半日くらい水を持たせるなら足りる。
「ん……」
背後で、セラさんが目を覚ました。
ぼくの上着の端を探すように手を伸ばし、空を掴んでから、はっと起き上がる。
「シュウ様?」
「おはようございます。まだ寝ていていいですよ」
「いえ。わたしも手伝います」
昨日も同じようなことを言われた気がする。
「まず水を使えるようにします。浄化できますか?」
「はい。少しずつなら」
セラさんはすぐに立ち上がった。ふらつきかけたので、ぼくは慌てて手を出す。
「無理は」
「していません」
「今、少しふらつきました」
「……少しだけです」
「少しなら座って」
「シュウ様も、昨日ほとんど眠っていません」
穏やかな声なのに、なぜか強い。
ぼくは困って、桶を差し出した。
「では、座ったままでお願いします」
「はい」
セラさんは床に座り、桶の中に手をかざした。
近くの雨受けに溜まっていた水を少し移す。濁った水が、淡い光を受けてゆっくり澄んでいく。
完全な飲み水にするには時間がかかる。
それでも、昨日のままよりずっといい。
「すごいですね」
「チョーカーが、助けてくれています」
セラさんは首元に触れた。
「わたし一人では、たぶんここまでできません」
「それなら、道具としては役に立ってますね」
「はい。とても」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が少し軽くなる。
道具は、使う人を助けるためにある。
それができているなら、昨日の応急仕事にも意味があった。
「……朝から何してんの」
ヴェルの声がした。
寝起きで髪が少し跳ねている。赤い目は半分だけ開き、まだ眠そうだ。
「水を使えるようにしてる」
「ふうん」
ヴェルは立ち上がろうとして、足元の布に引っかかりかけた。
ぼくが支えようとするより早く、彼女は鎖を床に伸ばして自分の体を支えた。
「見た?」
「転びそうだったところ?」
「見てないって言いなよ」
「見てない」
「遅い」
ヴェルは不満そうに言ったが、すぐに桶を覗き込んだ。
「水、飲めるの?」
「もう少し」
「じゃあ、その間に何すればいい?」
「休む」
「それ以外」
「休むのも大事なんだけど」
「おじさんに言われたくない」
正論だった。
ぼくは部屋を見回し、壊れた棚を指さした。
「じゃあ、あの棚を壁際に寄せたい。寝る場所を少し広げる」
「任せなよ」
ヴェルの鎖が伸びる。
棚に巻きつき、ぎしぎしと音を立てながら壁際へ引かれていく。
「ゆっくり。床板が傷む」
「はいはい」
「ほんとにゆっくり」
「おじさん、棚にも優しいの?」
「棚が壊れると、ぼくらが困る」
「地味」
「地味なものほど大事」
ヴェルは呆れたように笑った。
その笑い方が、昨日より少しだけ柔らかい。
棚を動かすと、裏から古い布と釘、それから小さな鉄鍋が出てきた。
鉄鍋は底に穴が空いている。
普通なら捨てる。
でも、ぼくには宝に見えた。
「鍋だ」
「穴空いてるじゃん」
「直せば鍋になる」
「おじさん、なんでも直せば何かになるって思ってない?」
「だいたいは」
「怖いくらい前向き」
「前向きというか、もったいない」
ぼくは鉄鍋を受け取り、穴の周りを爪で軽く叩いた。薄くなっているが、まだ全体は持つ。底板を当てて、銅線と魔石粉で仮止めすれば湯を沸かすくらいはできる。
暖炉の煙突も、外から見た傾きほど悪くはなかった。
煤が詰まっているだけだ。
ヴェルの鎖に布を巻き、煙突の内側を軽く通してもらう。セラさんが光で舞った煤を少し抑え、ぼくが暖炉の割れ目を塞ぐ。
一つずつ。
桶。
鍋。
暖炉。
寝床。
扉。
どれも立派ではない。
けれど、動き出す。
小屋の中に、少しずつ生活の音が戻っていく。
水が桶に落ちる音。
釘を打つ音。
ヴェルの鎖が木材を運ぶ音。
セラさんが布を払う音。
そして時々、誰も触っていないはずの棚が、少しだけこちらへ釘を寄せるように軋む音。
「やっぱり、この小屋、手伝ってるよね」
ヴェルが小声で言った。
「そうかもしれない」
「認めるの早くない?」
「助かってるから」
「怖くないの?」
「少しは。でも、今のところ親切だから」
「親切な小屋って何」
ヴェルはそう言いながら、床に落ちていた布を拾った。
部屋の奥で、食器がかたりと鳴る。
今度は、セラさんもヴェルも驚かなかった。
ぼくも、驚かなかった。
「ありがとう」
ぼくが言うと、暖炉の灰がふわりと揺れた。
火を入れる。
小さな火だ。
煙突の引きが弱いので、最初は慎重に。湿った枝は避け、乾いた細い枝だけを選ぶ。
煙は少し戻ったが、すぐに上へ抜けた。
セラさんがほっと息をつく。
「あたたかいです」
「まだ弱い火ですけど」
「それでも、あたたかいです」
ヴェルも何も言わず、火に近いところへ座った。
膝を抱え、炎をじっと見ている。
その横顔は、昨日の強がった魔物の娘ではなく、年相応の女の子に見えた。
ぼくは直した鉄鍋に水を入れ、火にかけた。
しばらくして、湯気が立つ。
ただのお湯だ。
それでも、三人で飲むには十分だった。
「町には戻れない」
ぼくは湯気を見ながら言った。
セラさんとヴェルが、こちらを見る。
「少なくとも、今すぐには。バルクさんたちが考えを変えるとは思えない」
「魔物側も無理」
ヴェルが言う。
「あたしが何者かもわかんない。人間のおじさんを連れて行ったら、たぶん面倒になる」
「神殿も、安全とは限りません」
セラさんの声は静かだった。
「わたしが何者なのか、まだわかりません。でも、奴隷商人がわたしを欲しがった理由があるなら、戻る場所を間違えれば、また捕まるかもしれません」
セラさんは、湯を包んでいた両手に少しだけ力を込めた。
「町の人たちを恨みたいわけではありません。でも、昨日の門の前で、わかってしまいました。わたしが大丈夫だと言っても、ヴェルさんが大丈夫だと言っても、聞いてもらえないことがあるのだと」
ヴェルは何も言わなかった。
ただ、魔鎖の腕輪に指をかける。
「魔物側だって同じかもしれない」
彼女は火を見たまま言った。
「あたしが偉いやつの娘だったとしても、だから安全ってわけじゃない。むしろ、またどっかに閉じ込められて、勝手に使われるだけかもしれない」
その声は、小さかった。
「人間の町も、魔物の城も、あたしにはまだ檻に見える」
その言葉に、胸が痛くなる。
戻る場所がない。
行く場所もない。
だから、この小屋にいる。
それは、情けない理由かもしれない。
でも、理由としては十分だった。
「ここに、一時的に暮らそうと思う」
ぼくは言った。
「一時的?」
ヴェルが聞く。
「まずは。水と火と寝床を整えて、セラさんとヴェルの道具をちゃんと仕上げる。それから、町の様子を見る。ロイたちが帳簿をどう扱うかも気になる」
「おじさん、自分が追い出された町のこと、まだ心配してるの?」
「全部ではないけど、捕まっていた人たちは心配だし、奴隷商人の仲間が残っているかもしれない」
「ほんと、損な性格」
「よく言われる」
ヴェルは、ふん、と鼻を鳴らした。
セラさんは湯を両手で包み、静かに微笑む。
「わたしは、ここで暮らすのに賛成です」
「危ないかもしれませんよ」
「外も危ないです」
「それはそうですが」
「それに、この小屋は、わたしたちを追い出しませんでした」
セラさんは壁を見た。
「わたしは、それだけで少し安心します」
部屋の奥で、また小さく食器が鳴った。
返事のようだった。
ヴェルはそれを見て、肩をすくめる。
「じゃあ、決まりでいいんじゃない」
「ヴェルは?」
「あたしは、別にどこでもいいし」
そう言ってから、彼女は少し間を置いた。
「……檻じゃなければ」
ぼくは頷いた。
「檻にはしない」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあ、ここでいい」
ヴェルは視線をそらした。
耳が少し赤い。
ぼくは何も言わず、直した鍋の湯を足した。
小屋の中に、しばらく湯気だけが上がった。
三人とも、何か大きなことを決めたような顔はしていなかった。
けれど、ぼくにはわかった。
町を出た時、ぼくたちはただ行き場を失っていた。
今は違う。
まだぼろぼろで、雨漏りも残っていて、床も硬い。
それでも、ここを直す理由ができた。
その時だった。
遠くで、木の枝に吊るした鈴が、ちりん、と鳴った。
昨日、森の中で拾って直した、小さな警戒具だ。
続いて、街道の方から車輪の軋む音が聞こえた。
ぎし、ぎし、と嫌な間隔で鳴っている。
ただ通り過ぎる荷車の音ではない。
車軸か、輪留めか、どこかがずれている音だ。
外で、がたん、と大きな音がした。
ヴェルが一瞬で立ち上がる。鎖が腕からほどけ、扉の方へ伸びた。
セラさんもチョーカーに触れる。
ぼくは工具箱を手に取り、扉へ近づいた。
敵意は、あまり感じない。
ただ、困った音だ。
壊れた車輪が、泥に取られたような音。
「誰だろう」
「敵なら、あたしが縛る」
「縛る前に、見よう」
ぼくは扉を少し開けた。
外は薄い朝靄に包まれていた。
小屋から少し離れた木の間で、小さな荷車が傾いている。車輪の片方が外れかけ、積み荷の袋が地面に落ちていた。
その横に、人間の商人らしい男が一人、泥だらけで立っている。
年は五十前後だろうか。片足をかばい、こちらを見て固まっていた。
その手には短い杖がある。
けれど、構え方が戦う人間のそれではない。怖くて握っているだけだ。
「……人が、いるのか」
男は掠れた声で言った。
「すみません。ここは」
ぼくが言いかけるより早く、男の視線が小屋の中へ動いた。
暖炉の火。
修理された扉。
床に敷いた布。
湯気の立つ鍋。
そして、ぼくの後ろにいるセラさんとヴェル。
ヴェルを見た瞬間、男の顔が強張った。
魔物の娘だと気づいたのだろう。
ヴェルの鎖も、少しだけ鋭く揺れた。
ぼくは一歩前に出た。
「この子は、ぼくの連れです」
男の目が、ぼくへ戻る。
しばらく、何も言わなかった。
朝靄の中で、外れかけた車輪がぎしりと鳴る。
「……宿か」
男が聞いた。
「いえ、ここは」
ただの小屋だ。
そう言おうとした。
けれど、背中でセラさんが小さく息を吸う音がした。
「シュウ様」
穏やかな声。
責めるでも、急かすでもない。
ただ、ぼくの背中をそっと押すような声だった。
ヴェルは小さく舌打ちする。
「車輪、壊れてるじゃん」
「見える?」
「見えるし。あれじゃ動かない」
「そうだね」
「……直すんでしょ」
ぼくは思わず苦笑した。
この子には、もう読まれているらしい。
男は警戒したまま、ぼくらを見ていた。人間の男。魔物の娘。白い髪の女性。古い小屋。
どう見ても、まともな宿ではない。
それでも、ここには扉がある。
火がある。
少しの水がある。
壊れた車輪を直せる手がある。
境界の道で困った人間を、追い返す理由もない。
「宿ではありません」
ぼくは言った。
男の顔に、落胆が浮かびかける。
「ただ、修理ならできます。車輪を見ます。それと、今夜だけなら、雨風はしのげると思います」
男が目を見開いた。
「いいのか」
「まだ床は硬いし、食事もありません。代金を取れるような場所ではないです」
「それでもいい。助かる」
男の肩から、力が抜けた。
ぼくは工具箱を持ち直し、外へ出ようとした。
その時、小屋の扉が、きい、と少し大きく開いた。
ぼくが押したわけではない。
風も吹いていない。
まるで、荷車の男を中へ招くように。
セラさんが微笑んだ。
ヴェルは顔をしかめた。
「この小屋、やっぱり変」
「うん」
ぼくは扉の縁に手を当てた。
「でも、悪くない」
町から追い出された。
魔物側にも行けない。
境界の森で、古い小屋に拾われた。
ぼくはただの修理屋だったはずだ。
壊れた道具を直して、困っている人に渡す。それくらいのことしか、できないと思っていた。
けれど、扉の向こうには壊れた荷車がある。
小屋の中には、昨日まで檻にいた二人がいる。
ここには、直すものがある。
泊まる場所を必要としている人がいる。
だったら。
「……ここを宿にするしかない、のかな」
ぼくがつぶやくと、ヴェルがにやりと笑った。
「おじさん、今さら気づいたの?」
セラさんは、胸元のチョーカーに手を添えて、やわらかく頷いた。
「きっと、ここから始められます」
部屋の奥で、古い食器がかたりと鳴った。
今度は、はっきりと返事のように聞こえた。
境界の森の小屋に、最初の朝が来た。




