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境界の修理屋-外れスキル《魔法道具作成》で宿屋を直していたら、世界の対立まで直すことになりました-  作者: 山賀 秀明
第1章:第3部

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第29話:宿帳に残る名前

「ミミルさん。お名前を書いてもよろしいですか?」


 セラさんの声は、いつも通りやわらかかった。


 問い詰める響きはない。


 急かす音もない。


 それでも、ミミルさんの耳は、ぴたりと伏せた。


 朝食の器を片付けていた小屋の中が、少しだけ静かになる。


 薬売りの女性も、荷運びの若者も、老人も、護衛役の男も、何も言わなかった。


 ミミルさんは籠を胸に抱え、宿帳代わりの板を見ている。


 昨日、入口で震えていた時と似た目だった。


 名前を書く。


 ただ、それだけのことに見える。


 けれど、追われる側にとっては、たぶんそれだけではない。


 道に残る足跡と同じだ。


 折れた枝と同じだ。


 荷車の轍と同じだ。


 誰かが後から見つけて、たどれるものは、怖い。


「セラさん」


「はい」


「少し、待ってください」


 セラさんはすぐに木炭を下ろした。


 いい人だ。


 この人は、たぶん書いていいかと聞いただけで、断られるとはあまり思っていなかったのだろう。


 でも、こちらが気づけば、すぐに手を止めてくれる。


「ミミルさん」


「……はい」


「名前を書くのが怖いなら、書かなくていいですよ」


 ミミルさんが、びくりと肩を揺らした。


「でも、宿帳……」


「宿帳は、捕まえるためのものじゃありません」


 ぼくは、セラさんの持っている板を見る。


 薄い板を数枚、紐でまとめただけのものだ。


 そこには、薬売りの女性の名前と、薬草の束。


 荷運びの若者の名前と、薪割り。


 老人の名前と、道の話。


 護衛役の男の名前と、少額の銅貨。


 その横には、預かった短剣、杖、荷物札、直した薬箱、足の怪我、寝床の場所まで、セラさんの細い字で書き足されている。


 売上帳ではない。


 これは、預かり物の札に近い。


 誰から何を預かったか。


 何を返すべきか。


 どこが壊れていたか。


 何で困っていたか。


 あとで間違えないための目印だ。


「預かったものを、ちゃんと返すためのものです。困っていたことを忘れないためのものでもあります」


 ミミルさんは、まだ宿帳を見ている。


「本当の名前でなくても構いません。ここで呼べる名前か、印だけでもいいです」


「……印」


「はい。葉の札でも、耳の形でも、線を一本でも。あとで、これは自分の分だと分かればいいんです」


 護衛役の男が、腕を組んだ。


「名前も残さない客を泊めるのか」


 責める声ではなかった。


 ただ、境界道で人を守ってきた者の、硬い確認だった。


「危ないと思いますか」


「危ない。少なくとも、普通の宿なら嫌がる」


「でしょうね」


 ぼくも、普通の宿の主人ならそうすると思う。


 というか、ぼくは宿の主人ではない。


 まだ、ただの修理屋のはずだ。


 はずなのだけれど、目の前には宿帳代わりの板があり、朝食を食べた客がいて、名前を書けずに怯えている子がいる。


 なら、ここで考えるしかない。


「でも、名前を書ける人だけ泊めるなら、困っている人ほど入れません」


「身元を隠すやつも混ざるぞ」


「混ざるでしょうね」


「分かって言ってるのか」


「はい」


 ぼくは頷いた。


 怖くないわけではない。


 正直、怖い。


 人を見る目に自信があるわけでもない。


 剣を振れるわけでもない。


 変な客が来たら、ぼく一人ではたぶん止められない。


 ただ、壊れた道具を直す時も、見えない傷はある。


 外側だけ見て、これは大丈夫だと決めつける方が危ない。


 だから、全部を一つの形にそろえるのではなく、その道具ごとに合う印をつける。


 客も、たぶん同じだ。


「名前を書ける人は、名前を書く。書けない人は、印を書く。預けたものと、困っていることは、できる範囲で残す。それでどうでしょう」


 護衛役の男は、しばらくぼくを見た。


 それから、小さく息を吐く。


「甘いな」


「よく言われます」


「でも、まあ」


 男は、ミミルさんの方を見ないまま言った。


「昨夜、そいつは騒がなかった。武器箱にも近づかなかった。俺たちの荷にも手を出してない」


 ミミルさんの耳が、少しだけ動く。


「それは書いておけ」


「はい」


 セラさんが、すぐに木炭を取った。


「夜間、騒ぎなし。武器箱に近づかず。荷物への接触なし」


 丁寧な字が、板の上に増えていく。


 薬売りの女性が、ふっと笑った。


「いいじゃないか。旅人には、名前を置いていけない時もある。あたしだって、昔は何度か偽名で泊まったよ」


 荷運びの若者が目を丸くする。


「え、姉さんが?」


「若い頃は色々あるんだよ」


「何したんだよ」


「薬草の値段をつり上げた悪徳商人の馬車に、臭い草を詰めた」


「それは偽名で泊まるわ」


 小屋の中に、少しだけ笑いが起きた。


 ミミルさんは笑わなかった。


 けれど、籠を抱える手の力は、少しだけ抜けた。


 ヴェルが、壁際から歩いてくる。


「あんたさ」


「……はい」


「嫌なら嫌って言いなさいよ。おじさん、そういうの気づくの遅い時あるから」


「ヴェル」


「何よ。本当のことでしょ」


「まあ、否定はできませんけど」


 ヴェルは、ふん、と鼻を鳴らした。


 それからセラさんを見る。


「あんたもさ、また女将さんみたいな顔してる」


「女将さん、ですか?」


「そういう、すました顔で板に書いて、はい次の方、みたいなやつ」


「では、ヴェルさん」


 セラさんは、にこりと微笑んだ。


「魔物側のお客様が嫌がることを、教えてください。わたしだけでは分からないことがありますから」


 ヴェルが、言葉に詰まった。


「……は?」


「ミミルさんが名前を残すのを怖がることも、わたしはすぐには気づけませんでした。ヴェルさんがいてくださると、とても助かります」


「べ、別に、あたしは」


 ヴェルはぼくをちらりと見た。


「シュウの手伝いなら、やるけど」


「ありがとうございます」


「あんたに頼まれたからじゃないからね」


「はい」


 セラさんはにこにこしている。


 ヴェルは顔を赤くして、ミミルさんの隣にしゃがんだ。


 どうしてこっちを見るのだろう。


 ぼくは何も言っていない。


 言っていないのに、少し恥ずかしくなって、作業台の上の木片を並べ直した。


 こういう時、どこを見ればいいのか、四十になってもよく分からない。


「印なら、これでいいんじゃない」


 ヴェルが、床に落ちていた小さな葉を拾う。


 フィオさんの畑から来た、柔らかい若葉だ。


 朝食には使わなかった、端の小さな一枚。


「葉っぱ?」


「あんた、昨日からずっとその葉の札握ってるでしょ。なら、これでいいじゃん」


 ミミルさんは、自分の手の中を見た。


 そこには、ぼくが昨日渡した小さな葉の札がある。


 荷物札というには頼りない。


 けれど、ミミルさんはずっとそれを手放さなかった。


「……これ、わたしの」


「そう。だから印」


 ヴェルは、セラさんに向かって顎をしゃくった。


「木炭で名前を書くんじゃなくて、葉っぱの形だけ写せば?」


「できます」


 セラさんは、小さな布に水を含ませ、若葉の裏を少し湿らせた。


 それを板の端にそっと押し当てる。


 薄い緑の跡が、板に残った。


 きれいな形ではない。


 葉脈もかすれている。


 でも、確かにそこにある。


 セラさんは、その横に小さく書いた。


 ミミル。


 それから少し迷い、種族を書く欄には何も書かず、代わりにこう添えた。


 森側の小さな客。


「これで、どうでしょうか」


 ミミルさんは、板の上の葉の跡を見つめた。


 長い沈黙の後で、こくりとうなずく。


「……それなら、いい」


「では、そうしましょう」


 セラさんの声が、少し明るくなる。


 ヴェルは、なぜか得意げに胸を張った。


「ほら。あたしがいると助かるでしょ」


「はい。助かります」


「……おじさんに言ったの」


「助かります」


「即答しないでよ。なんか腹立つ」


「ええ……」


 難しい。


 褒めても怒られる。


 褒めなくても、たぶん怒られる。


 セラさんが口元を押さえて笑っているので、たぶんこれでよかったのだと思うことにした。


 その後、支払いの話に戻った。


 薬売りの女性は、乾いた薬草を三束、小さな傷薬を二つ、布に包んで出した。


「これは腫れに。これは切り傷に。こっちは、煎じると腹を下した時に効く。ただし苦い」


「ありがとうございます。助かります」


「あと、境界道の西側で赤い斑点のある草を見たら、触らない方がいい。馬が嫌がる匂いがする。荷車が荒れる」


 セラさんが、すぐに書き留める。


 荷運びの若者は外へ出て、薪を割り、積み直してくれた。


 若いだけあって力がある。


 ただ、勢いがよすぎて、何本か細い板まで割りそうになったので、そこだけは止めた。


「それは寝床の脚に使います」


「あ、すまん」


「薪はこっちの短い端材でお願いします」


「端材って、これか」


「はい。割るなら、節の少ない方から」


「へえ。木って、どれでも同じじゃないんだな」


「同じなら、職人は困りません」


 若者は笑いながら、今度は慎重に斧を振った。


 老人は、炉端に座ったまま、境界道の話をしてくれた。


「東の分岐は、昼なら近いが、夜はやめた方がよい。音がよく響く」


「獣ですか」


「獣もおる。だが、獣だけではない。人が獣のふりをして待つこともある」


 護衛役の男が頷く。


「あそこは伏せる場所が多い。荷車なら、遠回りでも南の浅い坂を使った方がいい」


 セラさんの板に、道の印が増えていく。


 これも支払いだ。


 金貨より、今の小屋には役に立つかもしれない。


 護衛役の男は、銅貨を数枚置いた。


「大した額じゃない」


「十分です」


「それと、余計な忠告だ」


「はい」


 男は入口の方を見る。


 入口灯は、朝の光の中でうっすらとしか見えない。


 けれど、夜になればまた、足元を照らし、呼び鈴を鳴らす。


「境界道で噂になってる。泊まれて、直せて、水が飲めて、魔物も追い出さない小屋があるってな」


 薬売りの女性が、肩をすくめる。


「あたしたちが来たくらいだからね。そりゃ、他にも聞くさ」


「便利だと思う人ばかりなら、助かるんですけど」


「そうじゃない連中もいる」


 護衛役の男は、短く言った。


「魔物を泊めるなんて危ないと考えるやつ。人間がいる小屋になんで魔物を入れるんだと怒るやつ。逆に、人間に媚びてると見る魔物もいるかもしれない」


 小屋の空気が、少し冷える。


 ミミルさんが籠を抱え直した。


 ヴェルの目が細くなる。


 セラさんは、宿帳の板を胸元に寄せた。


 ぼくは、護衛役の男の言葉を、ゆっくり飲み込む。


 分かっていなかったわけではない。


 でも、改めて言葉にされると、やっぱり怖い。


 ここは境界線だ。


 人間の街からも、魔物の森からも少し外れている。


 だから誰かが逃げ込める。


 同時に、どちらからも見られる。


 どちらからも疑われる。


「やめるなら、早い方がいい」


 護衛役の男が言った。


 それは脅しではなかった。


 たぶん、忠告だ。


 境界道で人を守ってきた男の、現実的な言葉。


 ぼくは作業台の上にある宿帳代わりの板を見た。


 薬草。


 薪割り。


 道の情報。


 銅貨。


 葉の印。


 預かった武器。


 直した薬箱。


 夜に騒がなかったこと。


 足の腫れ。


 食べられる葉。


 足りない食器。


 減った水。


 名前を書けない客。


 そこには、面倒なことばかり並んでいる。


 でも、直す時の帳面も、だいたいそうだ。


 割れ、欠け、歪み、ゆるみ、焦げ、すり減り。


 きれいなことだけ書いてある帳面なら、そもそも修理屋はいらない。


「やめるかどうかは、まだ決められません」


 ぼくは言った。


「ただ、続けるなら、余計に記録がいります」


「記録?」


「はい。誰が何を預けたのか。何を払ってくれたのか。何で困っていたのか。何を嫌がったのか。何をしてはいけないのか」


 ぼくは、葉の印を指先でそっと示した。


「名前が残せないなら、印でいい。金貨がないなら、薬草でも、労働でも、情報でもいい。ここに来た人を同じ形にそろえるより、間違えずに返せる形にしたいんです」


 護衛役の男は、少し黙った。


 それから、苦笑する。


「やっぱり甘いな」


「すみません」


「謝るところじゃない。だが、覚悟はしておけ」


「はい」


 怖い。


 けれど、不思議と、手は止まらなかった。


 セラさんが宿帳を整える横で、ぼくは余った薄板を削り、木札を増やした。


 名前を書ける札。


 印だけの札。


 武器用。


 荷物用。


 支払い用。


 細い穴を開け、紐を通す。


 木の角は丸める。


 ミミルさんのように小さな手で握っても痛くないように。


 ヴェルが横から覗き込む。


「おじさん、また細かいことしてる」


「角が立っていると、指に当たりますから」


「そういうところ、ほんとおじさんだよね」


「褒めています?」


「半分」


「半分は」


「呆れてる」


「ですよね」


 セラさんが、できあがった木札を一枚手に取った。


「優しい形ですね」


「いや、ただ角を落としただけです」


「それが優しいのです」


 まっすぐ言われると困る。


 ぼくは咳払いをして、別の木札に手を伸ばした。


「……次からは、最初から少し多めに作っておきます」


「はい」


 セラさんは嬉しそうに頷いた。


 その様子を見て、ヴェルがむっとする。


「あたしにも削らせて」


「勢いよく削ると、また薪になります」


「ならないわよ!」


「では、これを。薄くです。薄く」


「分かってるって」


 ヴェルは木片を受け取り、妙に真剣な顔で小刀を当てた。


 最初の一削りで、少し厚めにえぐれた。


 ぼくは何も言わなかった。


 ヴェルがじろりと見る。


「今、何か思ったでしょ」


「いえ」


「絶対思った」


「少しだけ」


「言いなさいよ」


「力を抜くと、もっときれいになります」


「最初からそれ言えばいいでしょ!」


「すみません」


 小屋の中に、また少し笑いが戻る。


 ミミルさんも、声には出さなかったが、葉の印を見ながら目元を少し緩めていた。


 やがて、宿帳の最初の一枚が埋まった。


 薬売りの女性。


 荷運びの若者。


 老人。


 護衛役の男。


 ミミルさんの葉の印。


 それぞれの支払い。


 預かったもの。


 直したもの。


 困りごと。


 してはいけないこと。


 セラさんはそれを眺め、少し誇らしげに息を吐いた。


「できました」


「ありがとうございます」


「宿帳の最初の一枚ですね」


 宿帳。


 その言葉を聞くと、やっぱり少し落ち着かない。


 ぼくは、ただの修理屋だったはずなのだ。


 けれど、板の上に並んだ文字と印を見ると、これはこれで、修理屋の帳面に見えた。


 壊れた薬箱。


 減った水。


 足りない器。


 怖がる客。


 眠れない主人。


 どこを直せば、次はもう少しましになるのか。


 その目印が、ここに並んでいる。


「シュウ様」


「はい」


 セラさんが、宿帳の下の方を指した。


「客用の器が足りません」


「はい」


「水も、今の浄水壺だけでは追いつきません」


「はい」


「寝床も、仕切りも、保存箱も、薪置き場も足りません」


「はい」


「あと、シュウ様の休む場所も足りません」


 そこまで書いてあるのか。


 ぼくは宿帳を覗き込んだ。


 確かに、小さく書いてあった。


 主人、寝不足。


 ヴェルが吹き出す。


「そこ一番大事じゃん」


「大事です」


 セラさんは真面目な顔で言った。


「シュウ様が倒れたら、誰が直すのですか」


「それは、まあ」


「おじさん、寝ながらでも直しそうだけどね」


「寝ながらは無理です」


「昨日ほぼ寝てないのに直してたじゃん」


「あれは起きていました」


「目は死んでたけど」


「またそこに戻るんですか」


 老人が、杖を抱えて笑った。


「よい宿帳じゃな。客より主人の傷みが先に見つかる」


「傷みというほどではなく、ええと……疲れです」


 危ない。


 うっかり、昔の仕事で使っていたような言葉が出そうになった。


 こちらの世界で言うなら、ただの疲れだ。


 いや、ただの疲れでもない。


 小屋の仕組みが追いついていない。


 ぼく一人の体力で埋めている部分が多すぎる。


 それは、長くはもたない。


 宿帳の最初の一枚は、思っていたより重かった。


 客が泊まった記録。


 支払いの記録。


 名前を残せなかった子の印。


 そして、小屋に足りないものの一覧。


 ぼくは木炭を取り、宿帳の端に小さく書き足した。


 器。


 水。


 寝床。


 仕切り。


 保存箱。


 薪置き場。


 主人の休む場所。


 書けば書くほど、宿屋から遠ざかっていく気がする。


 泊まれる場所にはなった。


 でも、まだ宿屋と呼ぶには、足りないものだらけだ。


 セラさんが、そっと言う。


「シュウ様」


「はい」


「次に直す場所が、見えてきましたね」


 ぼくは宿帳を見下ろし、苦笑した。


「そうですね」


 宿帳の最初の一枚は、宿屋の始まりというより、足りないものの一覧だった。


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