第30話:まだ宿屋とは呼べない
宿帳の最初の一枚は、宿屋の始まりというより、足りないものの一覧だった。
けれど、客はいつまでも小屋にいるわけではない。
境界道を行く人たちは、朝のうちに動き出す。
薬売りの女性は、荷をまとめながら、薬草の束を三つ、作業台の端に置いた。
「これは約束の分。腫れ止めと、切り傷用と、腹にくるやつ用だよ」
「ありがとうございます」
「腹にくるやつは苦いからね。老人に飲ませる時は、薄めな」
「わしはまだ飲むとは言っておらんぞ」
老人が、杖を抱えて笑う。
薬売りの女性は、肩をすくめた。
「境界道を歩いてりゃ、腹くらい壊すよ」
「縁起でもないことを言うでない」
荷運びの若者は、外で割った薪を入口脇に積んでいた。
昨日までは散らかっていた端材が、短い薪と、まだ使えそうな板とに分けられている。
少し雑ではある。
でも、助かる。
「こんなもんでいいか、シュウさん」
「十分です。ありがとうございます」
「いや、飯食わせてもらったし。あと、昨日のこともあるし」
若者は、ちらりとミミルさんを見る。
ミミルさんは籠を抱え、蔓の仕切りのそばに座っていた。
足の腫れは昨日より引いている。
ただ、まだ歩き出すには少し不安がある。
「……昨日は悪かったな」
若者が、もう一度言った。
声は小さい。
謝り慣れていない人の声だった。
ミミルさんは、すぐには答えない。
籠の縁をぎゅっと握って、それから小さくうなずいた。
「うん」
それだけだった。
許した、というほどではない。
仲良くなったわけでもない。
でも、謝罪を受け取った。
それで十分だと思う。
護衛役の男は、武器箱の前で腕を組んでいた。
ぼくは宿帳を確認しながら、預かった短剣と杖を一つずつ返す。
木札と宿帳を見比べると、誰のものか迷わなかった。
急ごしらえの札でも、あるとないとでは違う。
「短剣、一本。鞘に割れあり」
「ああ。俺のだ」
「杖、一本。先端の金具が少し緩んでいます」
「わしのじゃな。まだ歩けるかの」
「今日中なら大丈夫だと思います。次に来る時があれば、直します」
「では、また道に迷う理由ができたのう」
「迷わないでください」
老人は、ふぉっふぉっと笑った。
護衛役の男が短剣を受け取り、鞘に収める。
その目が、ミミルさんへ向いた。
ミミルさんの耳が少し伏せる。
男は、しばらく何も言わなかった。
それから、短く言う。
「道で会っても、いきなり剣は抜かない」
ミミルさんが顔を上げた。
「……わたしも、逃げる前に見る」
「そうしろ」
それだけだった。
握手もない。
笑顔もない。
それでも、昨日の夜よりは近い。
薬売りの女性が、ミミルさんのそばに布を置いた。
「包帯を替える時は、これを使いな。さっきの葉は、潰して内側に挟む。冷やしすぎると痛むから、夜だけでいい」
「……ありがとう」
「礼はいいよ。次に会った時、逃げずに挨拶してくれれば十分」
ミミルさんは少し迷って、それから小さく頷いた。
小屋の入口灯は、昼の光の中ではほとんど目立たない。
呼び鈴の金属片も、今は静かにぶら下がっている。
昨夜は、あの小さな音に全員が身構えた。
今は、誰も武器を抜いていない。
それだけでも、昨夜よりはましだ。
人間客たちが、小屋の外へ出る。
境界道へ続く細い道には、朝の光が落ちていた。
セラさんは入口の脇に立ち、丁寧に頭を下げる。
「お気をつけて」
「世話になったね」
薬売りの女性が、荷を背負い直す。
「次に来る時は、食器を持ってきた方がよさそうだ」
「助かります。というか、本当に助かります」
「そこまで切実に言われると、持ってこないわけにいかないね」
荷運びの若者が笑い、老人が杖を鳴らした。
「南の浅い坂を使うのじゃぞ。東の分岐は、昼でも足元が悪い」
「はい。覚えておきます」
護衛役の男は最後に振り返った。
「噂には気をつけろ」
「はい」
「便利な場所ほど、都合よく使おうとするやつが寄ってくる」
その言葉だけを置いて、男は境界道へ歩いていった。
人間客の背中が、木々の間へ小さくなっていく。
ミミルさんは、入口の影からそれを見ていた。
見送った、というより、確かめていたのかもしれない。
彼らが、本当に剣を抜かずに去っていくことを。
やがて姿が見えなくなると、ミミルさんは籠を胸元に寄せて、ほっと小さく息をついた。
「ミミルさん」
「……はい」
「足が痛むなら、昼まで休んでいってください。無理に今出なくても大丈夫です」
「でも、払うもの」
「さっきの葉の印で、もう宿帳には残っています」
「葉っぱだけ」
「それに、昨日の紐と、葉洗いと、今の話もあります」
「今の話?」
「高い寝床が怖いとか、重い扉が怖いとか。そういうことを教えてもらえると、次に直す時に助かります」
ミミルさんは、少し目を瞬かせた。
ヴェルが横から言う。
「歩けないなら休みなさいよ。途中で転んだら、また面倒でしょ」
「……面倒」
「おじさんが心配するのが面倒なの」
「ヴェル」
「何よ。本当のことでしょ」
否定しづらい。
たぶん、途中で倒れたと聞いたら、ぼくはまた工具箱を持って出ていく。
ミミルさんは少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、少しだけ」
「はい。少しだけ」
客を送り出した後の小屋は、急に広く見えた。
人が減ったから広くなったはずなのに、同時に荒れて見える。
器は洗い場のそばで乾かしてあるが、数が足りない。
床の端には、呼び鈴の紐がまだ這っている。
うっかり足を引っかけそうだ。
武器箱は入口に置かれたまま。
役には立った。
けれど、板の合わせは粗く、鍵も仮のものだ。
蔓の仕切りは一晩で少し曲がり、下の方に隙間ができている。
寝床は、へたっている。
保存食の袋は軽くなり、浄水壺の水位も低い。
小屋は、昨夜よりずっと宿屋らしくなった。
そして、宿屋らしくなったからこそ、足りないところがはっきり見えた。
「おじさん」
ヴェルが、入口に寄りかかりながら言う。
「この小屋、泊まれはするけど宿屋じゃないわ」
「はい。反論できません」
「武器箱はもっと入口に固定した方がいい。あれ、二人がかりなら持っていける。あと、逃げ道が一つしかないのも嫌」
「逃げ道」
「寝る場所と入口が近すぎる。夜に外から押し込まれたら、弱いやつから潰れる」
言い方は荒い。
でも、内容は的確だ。
ヴェルは、弱い側がどう追い詰められるかを知っている。
セラさんは、宿帳を抱えながら小屋の中を見回した。
「食器と寝具、それから洗い場も必要です。今のままでは、食事のたびに作業台が使えなくなります」
「作業台は困りますね」
「保存箱も必要です。薬草と食料を同じ場所に置くと、匂いが移ります」
「それも困ります」
「宿帳を濡らさない置き場所も必要です」
「かなり困ります」
困ることばかりだ。
フィオさんの声が、足元の根からふわりと届いた。
『風よけも、少し欲しいです』
入口近くの床板の隙間から、小さな葉が顔を出している。
フィオさん本人の姿はない。
けれど、声は小屋の中に届くようになっていた。
『夜の風が、寝床の足元に入りました。根っこで少し塞ぎましたが、もっとちゃんとした方が、あたたかいです』
「ありがとうございます。畑の方はどうですか」
『水の道を、もう少しきれいにしたいです。人が増えるなら、葉っぱも、薬草も、もっと要ります』
ミミルさんが、小さく手を挙げた。
「あの」
「はい」
「高い寝るところ、少し怖い。足が痛いと、降りる時、転ぶ」
「低い寝床ですね」
「あと、重い扉も、怖い。開ける音、大きい」
「なるほど」
ぼくは宿帳の端に書き足す。
低い寝床。
軽い扉。
音の小さい留め具。
書きながら、少し苦笑した。
昨日まで、寝床は足りるかどうかしか見ていなかった。
でも、誰が使うかで必要な形は変わる。
大人の荷運びの若者が寝る場所。
老人が腰を下ろす場所。
怪我をしたミミルさんが上り下りする場所。
セラさんが食事を配る場所。
ヴェルが入口を見張る場所。
フィオさんの根が伸びる場所。
全部、同じ板と毛布で済むわけがない。
道具を見る時と同じだ。
どこに力がかかったか。
どこが濡れたか。
どこが擦れたか。
どこが怖がられたか。
一晩使うと、弱いところが見える。
今回の小屋は、壊れたというより、初めて使われて、傷みやすい場所が見えたのだ。
「失敗ですか?」
セラさんが、少し心配そうに聞いた。
「いえ」
ぼくは首を振る。
「次に直す場所が分かったので、失敗ではありません」
「ですが、このまま次のお客様が来たら」
「もちませんね」
正直に言うしかなかった。
ヴェルが、ふんと鼻を鳴らす。
「珍しく分かってるじゃない」
「珍しく」
「だっておじさん、自分のことになると全然分かってないし」
セラさんが、すぐに頷いた。
「まず、シュウ様の休む場所が最優先です」
「いや、客用の寝床が先では」
「倒れた主人は、客用の寝床も直せません」
「それは、そうですが」
「おじさんが倒れたら面倒だし」
「面倒で済みますか」
「済まないから言ってるの」
ヴェルの声が、少しだけ尖る。
怒っているようで、心配している声だった。
セラさんも、こちらをじっと見ている。
ミミルさんまで、籠の陰からこくこく頷いていた。
『では、根っこで包みます?』
フィオさんの声が、のんびり入ってくる。
床板の隙間から、細い根がするすると伸びた。
それは、ぼくの足元を一周し、腰のあたりまで上がろうとする。
「フィオさん、待ってください」
『柔らかめです』
「柔らかさの問題ではなく」
根が腰に触れた。
ひんやりして、少しくすぐったい。
「ちょ、ちょっと、くすぐったいです」
「フィオさん」
セラさんの声が、少し強くなる。
「シュウ様を休ませるのは賛成ですが、包みすぎは困ります」
「そうよ。おじさんを根っこで独り占めしないでよ」
「ヴェル、そこですか」
「そこよ」
『独り占めではなく、仮眠場所です』
「仮眠場所にされる本人の確認を取ってください」
ぼくが言うと、三人の視線が一斉にこちらを向いた。
しまった。
確認を取る流れになった。
「シュウ様」
「おじさん」
『包まれます?』
「今は、まだ大丈夫です」
「まだ、ですか」
セラさんが、そこを聞き逃さない。
「ええと」
「では、あとで休んでいただきます」
「いや、まずは片付けを」
「片付けは手分けできます」
「木札も」
「それも手分けできます」
「作業台の」
「シュウ様」
セラさんが、やわらかく微笑む。
逃げ道のない笑顔だった。
「休む場所も、宿屋の設備です」
反論できなかった。
ヴェルがにやにやしている。
「ほら、宿屋の設備だって」
「人を設備扱いしないでください」
「倒れたら困る道具?」
「それも違います」
小屋の中に、少し笑いが戻る。
こういう笑いがあるうちは、まだ大丈夫なのかもしれない。
ぼくは宿帳の不足一覧を見た。
全部を一度には直せない。
道具でも、壊れたところを全部一気に触ると、かえってどこが悪くなったのか分からなくなる。
順番を決める必要がある。
「まずは、寝る場所です」
ぼくは言った。
セラさんが頷く。
「はい」
「ただし、客用と、怪我人用と、ぼくの休む場所を分けて考えます」
「シュウ様の休む場所も入っていますね」
「入れました」
「よろしいです」
なぜ採点されているのだろう。
「次に、食べる場所。作業台を食事で使うと、修理が止まります。食器と、簡単な配膳台が要ります」
「それは私が見ます」
セラさんが言う。
「どの器が使いやすいか、どこに置けば手が届くか、見ておきます」
「お願いします」
「次は入口」
ヴェルが割り込む。
「武器箱を固定する。逃げ道も考える。見張りの位置も決める」
「はい。お願いします」
「あたしに任せなさい」
胸を張るヴェルの横で、ミミルさんが小さく言った。
「低い寝床も」
「もちろんです」
「軽い扉も」
「はい」
フィオさんの葉が、ぴょこんと揺れる。
『畑と風よけと、水の道も』
「それもお願いします。フィオさんの力を借りたいです」
『はい。根っこ、控えめにします』
「そこもお願いします」
優先順位が、少しずつ形になる。
寝る場所。
食べる場所。
水と保存。
入口と見張り。
主人の休む場所。
いや、主人の休む場所は、寝る場所に含めた。
含めたので、たぶん大丈夫だ。
「おじさん」
「はい」
「今、こっそり自分の休む場所を後ろに回そうとしたでしょ」
「していません」
「した顔だった」
「顔で判断しないでください」
「顔に出るのよ、おじさんは」
セラさんも静かに頷いている。
どうやら、ぼくは思ったより顔に出るらしい。
気をつけよう。
たぶん無理だけれど。
ミミルさんは昼まで休むことになった。
人間客が去り、緊張が解けたのか、蔓の仕切りのそばで籠を抱えたまま、うとうとしている。
ヴェルは入口の位置を見ながら、武器箱をどこへ固定するか考えている。
セラさんは宿帳を濡れない場所へ移し、食器を種類ごとに並べ始めた。
フィオさんの根は、床下で風の通り道を探っているらしく、時々、小さな葉が床板の隙間から顔を出す。
ぼくは作業台の前に立ち、宿帳の不足一覧を見直した。
宿屋。
その言葉は、まだ少し大きい。
寝床は足りない。
食器は足りない。
水も、保存箱も、仕切りも、入口も、見張りも足りない。
客同士の距離も、まだ近すぎたり、遠すぎたりする。
でも、何を直せばいいかは見えた。
一晩を越えたから、見えた。
昨日まで、ここはただの小屋だった。
今も、宿屋と呼ぶには足りない。
それでも、泊まった人がいた。
食べた人がいた。
名前を書けない代わりに、葉の印を残した子がいた。
剣を抜かずに帰った人がいた。
それは、たぶん小さな前進だ。
「シュウ様」
セラさんが、こちらを見る。
「どこから直しましょうか」
ヴェルも、入口から振り返った。
「あたしは武器箱からでもいいけど」
『寝床も、ふかふかにできます』
フィオさんの声が、足元から弾む。
ぼくは宿帳を閉じた。
全部は無理だ。
だから、最初の一つを決める。
「まずは、寝る場所と食べる場所を直しましょう」
そう言うと、セラさんが嬉しそうに頷いた。
ヴェルは「やっと分かったじゃない」と笑った。
フィオさんの葉が、床の隙間で小さく揺れた。
外では、境界道へ続く道が、朝の光の中に伸びている。
また誰かが来るかもしれない。
その時、今日より少しだけましに迎えられるように。
まだ宿屋とは呼べない。
けれど、直す場所は見えていた。




