第23話:同じ屋根の下にいるだけで
同じ小屋に入れただけで、こんなに難しい。
そう思ったのは、ミミルさんを暖炉のそばへ連れていこうとした時だった。
彼女は怪我をしている。
右足首をひねっていて、すねにも擦り傷がある。森を走ってきたせいで服は泥だらけで、肩も震えていた。
暖炉の近くで温めた方がいい。
それは、道具を見る時と同じくらいはっきりしている。
濡れて冷えたものをそのままにすれば、あとで別のところが悪くなる。
けれど、暖炉のそばには老人が座っている。
その近くには、薬売りの女性がいる。
入口側には護衛役の男が立ち、荷運びの若者は水桶を抱えたまま、どう動けばいいか分からずにいる。
そしてミミルさんは、人間客の視線を受けるたびに、ヴェルの後ろへ隠れようとする。
小屋が狭い。
いや、狭いだけではない。
距離の置き方が、誰にも分かっていない。
ぼくは床を見る。
荷物。
寝床。
暖炉。
入口。
修理台。
それぞれの位置は見える。
でも、人と人の間に必要な隙間は、板や釘のようには測れない。
「シュウ様」
セラさんが、水の器を持ってこちらを見る。
「まず、お水を」
「お願いします」
セラさんは器をいくつか並べた。
ミミルさんの前にも、一つ置く。
ミミルさんはそれを見たが、手を伸ばさなかった。
人間客の前で何かを取るのが怖いのだろう。
ヴェルが眉を寄せる。
「飲みなさいよ。喉、からからでしょ」
ミミルさんは、小さくうなずくだけだ。
その時、護衛役の男が低く言った。
「先にそっちか」
ヴェルの耳がぴくりと動く。
「怪我して走ってきた子が先でしょ」
「爺さんも足を痛めてる」
薬売りの女性が、護衛役をたしなめるように言った。
「そうだよ。爺さんにも水はいる」
「だからって、ミミルを後回しにする理由にはならないでしょ」
「ヴェル」
ぼくは静かに呼んだ。
ヴェルはまだ言い返したそうだったが、口を閉じる。
ぼくは器の数を見た。
足りる。
けれど、問題は水の量ではなく、順番だ。
「順番は、種族じゃなくて、今いちばん困っている人からにします」
小屋の中が静かになる。
ぼくはミミルさんを見る。
「まず、怪我をして森から走ってきたミミルさん」
次に、老人を見る。
「その次に、足を痛めているそちらの方」
荷運びの若者へ目を向ける。
「それから、荷車を押してきてくれた方。最後に、まだ動ける人」
「俺は最後か」
護衛役の男が言う。
「立っていられますよね」
「……立ってるな」
「では、最後です」
薬売りの女性が、ふっと息を漏らした。
笑ったのか、呆れたのかは分からない。
ヴェルが、少しだけ得意げな顔をする。
「ほら。飲みなさいって」
ミミルさんは、ようやく器に手を伸ばした。
両手で包むように持って、小さく飲む。
それだけのことなのに、小屋の中の空気が少し動いた。
次は、暖炉だった。
セラさんが布を濡らしてミミルさんの足を冷やし、別の乾いた布を肩にかける。
ミミルさんは寒そうに震えていた。
暖炉に近づけたい。
だが、老人は暖炉のそばから動けない。
薬売りの女性も、その隣に荷を置いている。
ミミルさんが一歩近づくと、護衛役の男の肩が硬くなる。
ミミルさんも、それを見て止まる。
また、動けなくなる。
「近づきすぎると怖い」
ぼくは、思わず口にしていた。
ヴェルがこちらを見る。
「何?」
「いや。近づきすぎると怖い。でも、離れすぎると温まらない」
「当たり前じゃない」
「だから、熱だけ届けばいい」
ぼくは床に置いてあった板を二枚動かした。
荷物を少し寄せ、布を畳んで低い仕切り代わりにする。
暖炉の正面は老人。
斜め横の熱が届く場所に、ミミルさん。
間に荷物と布を置けば、互いに真正面から見なくて済む。
完全な壁ではない。
でも、視線が少し切れる。
『葉を、少し使いますか?』
柱の根元から、フィオさんの声がした。
「無理のない範囲でお願いします」
『無理はしません。少しだけです』
床板の隙間から、細い蔓が伸びた。
そこに小さな葉がつく。
暖炉の熱を遮らないように、しかし真正面の視線だけを柔らかくずらすように、薄い緑の仕切りができた。
『見えすぎると怖いです。見えなさすぎても怖いです』
フィオさんが、のんびりと言った。
妙に核心を突いていた。
「壁じゃなくて、仕切りでいいのか」
ぼくは小さくつぶやく。
完全に分けると、かえって怖い。
でも、全部見えると落ち着かない。
道具の調整に似ている。
締めすぎてもだめ。
緩すぎてもだめ。
使う人が息をできるくらいの余裕がいる。
ミミルさんは、蔓の仕切り越しに老人を見た。
老人も、薄い葉の向こうからミミルさんを見た。
「兎か」
老人が言った。
ミミルさんがびくっとする。
老人は少し目を細めた。
「昔、山で兎を追いかけたことがある。逃げ足が速くて、こっちは転んだ」
「……わたし、そんなに速くない」
ミミルさんが小さく言った。
「足を痛めておるからのう」
老人の声には、からかいはあったが、敵意はなかった。
ミミルさんの肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
次は食事だった。
セラさんが鍋をかき混ぜる。
水と保存食に、フィオさんの畑から摘んだ若葉を少し入れた薄い汁物だ。
具は少ない。
味も濃くない。
でも、温かい。
「ミミルさんは、これを食べられますか?」
セラさんが聞く。
ミミルさんは鍋を見て、それから人間客を見た。
「……毒」
消えそうな声だった。
薬売りの女性が眉を上げる。
「毒なんて入れないよ」
その言い方は、怒っているというより、傷ついたようにも聞こえた。
けれど、ミミルさんはさらに身を縮める。
ヴェルが鍋のそばへ行き、木の匙で汁をすくった。
「ほら」
そのまま一口飲む。
「毒なんて入ってない。味は薄いけど」
「ヴェル」
「薄いものは薄い」
セラさんが苦笑する。
「誰でも食べやすいように、薄めにしたんです」
「つまり薄い」
「はい。薄いです」
セラさんがあっさり認めたので、ヴェルは少しだけ拍子抜けした顔になった。
薬売りの女性が、今度は小さく笑った。
「薄いなら、薬草を少し足せるよ。苦くならないやつなら」
「助かります」
セラさんが礼を言う。
ミミルさんは、まだ迷っていた。
ぼくは鍋を見る。
全員が一番好きな味にはできない。
人間客が食べ慣れた味。
ミミルさんが警戒しない味。
ヴェルが文句を言いながら食べる味。
老人の胃に重くない味。
全部を満たすのは難しい。
なら、今は全員が食べられる味でいい。
「今日は、これでお願いします」
ぼくは言った。
「おいしいものは、また今度考えます。今夜は、温かくて、誰でも食べられるものを優先します」
「宿屋っぽいこと言うじゃない」
ヴェルがにやりとする。
「だから宿屋では」
「はいはい」
途中で流された。
食事が行き渡ると、小屋の空気は少しだけ落ち着いた。
ほんの少しだ。
人間客とミミルさんが笑い合うようなことはない。
護衛役の男は器を持っていても、入口側から動かない。
ミミルさんも、ヴェルのそばを離れない。
それでも、同じ鍋の汁物を口にしている。
それだけでも、さっきよりはましだった。
問題は、寝床だった。
「さて」
薬売りの女性が器を置く。
「この人数、どう寝るんだい」
全員の視線が、ぼくに集まった。
集まらないでほしい。
ぼくは床を見る。
寝床と呼べるものは、三つ。
老人には暖炉近くが必要だ。
ミミルさんは、人間客から離したい。
護衛役の男は入口近くがいいと言うだろう。
セラさんとヴェルをどこにするか。
ぼくは。
ぼくはどこで寝るんだろう。
「まず、怪我と年齢を優先します」
考えながら言う。
「暖炉近くは、老人とミミルさん。ただし、仕切りを挟みます。入口近くは護衛の方。荷車側に荷運びの方。薬売りの方はセラさんの近くで」
「ミミルはあたしの近く」
ヴェルが言った。
「はい。お願いします」
素直に頼むと、ヴェルは少しだけ目をそらした。
「……まあ、仕方ないから」
セラさんが、人間客の方へ丁寧に説明してくれる。
「不安な方は、距離を取っていただいて構いません。ただ、どなたかを外へ出すことはしません」
ヴェルはミミルさんの方を向く。
「ここでは、おじさんの言うことを守りなさい」
「ヴェルがそれを言うんですね」
ぼくは思わず言ってしまった。
ヴェルがこちらを睨む。
「なによ。悪い?」
「いえ。助かります」
「ならいいけど」
ミミルさんは、ヴェルの袖をつかんだまま小さくうなずいた。
少し懐いている。
ヴェルはそれに気づいて、耳まで赤くした。
「懐くな。近い」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいけど」
どっちなんだろう。
でも、ヴェルがミミルさんのそばにいてくれるだけで、魔物側の不安は少し下がっている。
セラさんが人間客へ話してくれるだけで、人間側の緊張も少し下がっている。
ぼく一人では、とても足りない。
それがよく分かった。
最後に残ったのは、武器だった。
護衛役の男は、剣を腰に下げたままだ。
ミミルさんは、その剣を見るたびに耳を伏せる。
ヴェルも、男の手が柄に近づくたびに目つきが険しくなる。
男の方も、ヴェルの腕輪から伸びる黒い鎖をちらちら見ていた。
あれも武器だ。
ぼくにとっては、ヴェルを守る大事な道具だ。
でも、知らない人間から見れば、いつでも伸びる得体の知れない鎖に見える。
「剣を持ったままなら安心できる」
護衛役の男が言った。
ミミルさんの肩が震える。
ヴェルがすぐに言い返した。
「こっちは、その剣があると安心できないんだけど」
「俺は護衛だ」
「あたしだって、この子を守ってる」
また空気が硬くなる。
ぼくは、入口灯の淡い光と、蔓の仕切りと、床に置かれた荷物を見た。
足りないものが多すぎる。
でも、今ここで一つだけ決めなければいけない。
「この小屋では、客同士を傷つけない」
声に出すと、自分でも少し驚くほどはっきり響いた。
「まず、それだけは決めます」
護衛役の男がこちらを見る。
ヴェルも、ミミルさんも、セラさんも。
「怖いなら離れてください。でも、怖いから相手を脅していいわけではありません」
「魔物相手でもか」
「客なら、です」
ぼくは言った。
「人間でも、魔物でも。ここに入れた以上、今夜は客です」
護衛役の男は、すぐには答えなかった。
やがて、剣を鞘ごと外す。
完全に手放すのではなく、入口側の壁に立てかけた。
「これ以上は譲れない」
「今夜はそれで」
ぼくはうなずく。
ヴェルも黒い鎖を腕輪へ戻した。
「あたしも、これでいいでしょ」
「助かります」
「おじさんが言うからだからね」
はい、と言いかけて、やめた。
今はそれで十分だ。
とりあえず全員の位置は決まった。
水も配った。
食事も出した。
仕切りも作った。
ルールも一つできた。
けれど、護衛役の剣は入口の壁に立てかけただけ。
ヴェルの魔鎖は腕輪に戻っただけ。
荷物の中には、薬草を刻む小刀や、荷運び用の刃物もある。
ミミルさんは剣を見るたびに震える。
護衛役の男はヴェルの腕輪を見るたびに身構える。
これは、置き場所が悪い。
人の心をすぐ直すことはできない。
でも、道具の置き場所なら変えられる。
「明日」
ぼくは小さく言った。
セラさんがこちらを見る。
「武器を置く箱を作ります」
「箱、ですか」
「はい。誰のものか分かって、勝手に取り出せなくて、でも必要な時には返せる箱」
薬売りの女性が感心したように眉を上げた。
ヴェルは腕輪を押さえながら、少し不満そうにしている。
護衛役の男も、まだ納得はしていない。
それでも、ぼくにはそれくらいしか思いつかなかった。
人間と魔物の距離は、まだ直らない。
けれど、剣の置き場所なら、明日には直せる。




