第22話:森から来た魔物側の客
「まだ抜かないでください」
ぼくは、護衛役の男に向けて言った。
男の手は、剣の柄にかかったままだ。
抜いてはいない。
けれど、指に力が入っている。
小屋の中にいた人間客たちも、息をひそめていた。薬売りの女性は、暖炉のそばに座った老人の前へ半歩出ている。荷運びの若者は、水桶を持ったまま固まっていた。
ヴェルは入口へ向かっている。
背中は小さいのに、空気だけは妙に鋭い。
セラさんは老人の前に立ちながら、ぼくを見る。
その目は、どうしますか、と聞いていた。
『近いです』
柱の根元から、フィオさんの声がした。
床板の下で、細い根がかすかに震えている。
『怖がっています。とても急いでいます』
ぼくは入口灯へ目を向けた。
淡い光が、いつもより少し不安定に揺れている。
敵意のあるものを遠ざける。
この小屋には、そういう性質がある。
入口灯も、それを少し助けるように調整していた。
けれど、今近づいている相手が敵なのか、怖がっているだけなのかは、まだ分からない。
森の奥で、枝が折れる音がした。
ヴェルが小さく舌打ちする。
「遅い。こっち」
彼女が入口の外へ出ようとした瞬間、茂みが大きく揺れた。
飛び出してきたのは、怪物ではなかった。
小柄な少女だった。
年は、見た目だけなら十代の前半くらいだろうか。
頭の上に、長い兎の耳がある。片方はぴんと立っているが、もう片方は力なく垂れていた。髪は薄い茶色で、頬も服も泥だらけだ。
腕には、小さな籠を抱えている。
籠の縁は割れ、結んであった紐も切れかけていた。
少女は入口灯の光の手前で立ち止まった。
いや、止められたのかもしれない。
足が震えている。
右足のすねに擦り傷があり、血が乾きかけていた。
「魔物だ」
護衛役の男が低く言った。
その声に、少女の肩が跳ねた。
彼女は小屋の中を見た。
人間客たち。
剣に手をかけた護衛。
暖炉のそばの老人。
そして、入口に立つヴェル。
少女の耳が、ぺたりと伏せる。
「ひっ……」
逃げようとして、足がもつれた。
籠を抱えたまま、その場に膝をつく。
ヴェルが前に出た。
「ちょっと。剣、抜かないでよ」
「近づくな」
護衛役の男が言う。
ヴェルの目が、すっと細くなった。
「この子、戦える状態じゃないでしょ」
「魔物は魔物だ」
「人間は人間だから全部同じって言われたら、あんた怒るでしょ」
護衛役の男が言葉に詰まる。
ヴェルは少女の前にしゃがみ込んだ。
いつものような生意気な笑みはない。
「こっち来なさい。そこ、光が痛いんでしょ」
少女はヴェルを見上げた。
人間客を見るよりは、少しだけ怯えが弱い。
けれど、すぐに近づくほど安心しているわけでもない。
ヴェルは舌打ちしそうな顔をしたが、しなかった。
代わりに、ぼくの方を振り返る。
「おじさん。入口の灯り、なんか変」
「分かっています」
ぼくは工具箱を持って入口へ向かった。
「動かないでください。全員、少しそのままで」
「何をする気だ」
護衛役の男が聞く。
「灯りを見ます」
「今それか」
「今だからです」
ぼくは入口灯の台座を外した。
魔石は熱を持っていない。
ただ、光が硬い。
人を照らす灯りではなく、拒むための光になっている。
昨日までは、それでよかった。
夜の獣や、敵意のあるものを遠ざけるには、少し硬いくらいがいい。
でも、今ここにいるのは、敵意を持って襲いかかってくる相手ではない。
怖がって、逃げてきて、入口の前で動けなくなっている子だ。
「敵意と、怖がっているだけの相手は、同じじゃない」
自分に言い聞かせるように、ぼくはつぶやいた。
魔力回路の外側を細い針で軽く削る。
結界の芯は残す。
ただし、光の当たり方を少し丸くする。
攻撃しようとする力には引っかかる。
でも、助けを求めて近づく相手には、少しだけ通り道を作る。
そんな都合のいいものを、完璧に作れるわけではない。
今夜だけ。
この入口だけ。
この子が小屋へ入れる程度でいい。
「セラさん、水と布をお願いします」
「はい」
セラさんがすぐに動いた。
薬売りの女性が、少し迷ったあと、老人の前から半歩下がる。
「布なら、こっちにもある」
「ありがとうございます」
セラさんは、女性から布を受け取った。
そのやり取りを見て、護衛役の男が顔をしかめる。
怖いのだろう。
それは分かる。
境界道で生きているなら、魔物を見て身構えるのは自然だ。ぼくだって、何も知らずに夜の森でこの子と出会ったら、驚いたと思う。
だから、怖がるなとは言えない。
でも、怖いから追い出す、では、この小屋は何も始まらない。
入口灯の光が、ふっと柔らかくなった。
少女の肩の震えが、少しだけ弱まる。
「ヴェル」
「分かってる」
ヴェルは少女へ手を伸ばした。
「ほら。立てる?」
少女はおそるおそる、その手を見た。
すぐには取らない。
代わりに、小さくうなずく。
ヴェルは無理に引っ張らず、立ち上がるまで待った。
その待ち方が、不器用に優しかった。
少女は足を引きずりながら、一歩、入口灯の光を越える。
護衛役の男が息を呑んだ。
薬売りの女性も、荷運びの若者も、何も言わない。
ただ見ている。
少女は小屋の入口のところで止まり、また人間客を見て固まった。
セラさんが、すぐ近づこうとはせず、少し離れた場所に水と布を置いた。
「怖いのは分かります」
セラさんは、少女ではなく、人間客の方を見て言った。
「けれど、あの子は怪我をしています」
薬売りの女性が、少女の足を見る。
血と泥で汚れたすね。
膝の擦り傷。
垂れた耳の先にも、小さな切り傷があった。
「……確かに、あれじゃ走れないね」
女性の声はまだ硬い。
でも、さっきよりは人の声になっていた。
護衛役の男だけが、まだ納得していない。
「中に入れるのか」
「入れます」
ぼくは答えた。
「外に置いておく理由がありません」
「俺たちがいる」
「はい」
「爺さんもいる。薬も荷もある。魔物を入れて、何かあったらどうする」
それは、当然の心配だ。
ぼくは少女を見る。
彼女は籠を抱きしめ、息を殺すようにして立っている。
ヴェルが一歩、彼女の前に出た。
「外に置けって言うの?」
「そうは言ってない」
「言ってるのと同じ」
ヴェルの声が低くなる。
空気がまた張りつめた。
このままだと、ヴェルが怒る。
護衛役の男も引かない。
ぼくは二人の間に入った。
「まず、決めます」
自分でも、少し硬い声だった。
「この小屋では、怪我人を先に手当てします」
護衛役の男が口を開きかける。
ぼくは続けた。
「それから、小屋の中では誰も傷つけない。人間も、魔物も。怖いなら距離を取ってください。でも、追い出す理由にはしません」
誰もすぐには返事をしなかった。
言い切ってから、少しだけ手が震えているのに気づく。
ぼくは戦える人間ではない。
護衛役の男が本気で剣を抜いたら、止められる自信はない。
ヴェルが怒って飛び出したら、きっと追いつけない。
それでも、ここで何も決めなかったら、この小屋の中では声の大きい方が勝つことになる。
それは嫌だった。
「……分かった」
先に口を開いたのは、薬売りの女性だった。
「あたしは、その子の手当てに反対しない」
荷運びの若者も、小さくうなずく。
「俺も。怪我してるなら、まあ」
老人が暖炉のそばから、しわがれた声を出した。
「若いの。剣は抜くな。疲れる」
護衛役の男が、苦い顔をした。
「……分かってる」
剣から手が離れる。
完全に納得したわけではない。
それでも、今はそれで十分だった。
ぼくは少女へ向き直る。
「入ってください。手当てします」
少女は、小さく首を振った。
まだ怖いのだろう。
ヴェルが腰に手を当てる。
「あんた、名前は?」
少女は何度か口を動かした。
声が出ない。
セラさんが水の器を少しだけ近づける。
「大丈夫です。言えるところだけで」
少女は器を見て、それからセラさんを見た。
おそるおそる水を飲む。
喉が動く。
ようやく、小さな声が出た。
「……ミミル」
「ミミルさんですね」
セラさんが微笑む。
「わたしはセラです。こちらはシュウ様。あちらはヴェル」
「様はいりません」
ぼくは小声で言った。
セラさんは聞こえなかったふりをした。
ヴェルがふんと鼻を鳴らす。
「ミミル。足、見せなさい」
言い方がぶっきらぼうだ。
けれど、ミミルは少しだけ安心したように、ヴェルの近くへ寄った。
ぼくは工具箱を脇に置き、床に膝をつく。
怪我を見る。
すねの擦り傷は広いが、深くはない。
耳の切り傷も浅い。
問題は、右足首だ。
少し腫れている。
走っている途中で捻ったのだろう。
「骨は大丈夫そうです。ただ、これ以上歩かせるのはよくない」
「走ってきたのかい」
薬売りの女性が聞いた。
ミミルは籠を抱えたまま、こくこくとうなずく。
「誰に追われた?」
護衛役の男の声に、ミミルの耳が伏せた。
ヴェルが男を睨む。
「聞き方」
「必要なことだ」
「怯えさせて聞くことじゃないでしょ」
ミミルは震えながら、短く答えた。
「森で……大きいの。斧、持ってた」
斧。
ぼくはフィオさんを見る。
柱の根元の若葉が、かすかに縮んでいた。
『近くには、今はいません』
フィオさんの声がする。
『でも、森が少し嫌がっています』
素材狩りの残りか。
それとも、別の連中か。
今すぐには分からない。
ただ、ミミルが嘘をついているようには見えなかった。
「セラさん、足首を冷やせますか」
「はい。布を濡らします」
「ヴェル、ミミルさんが倒れないように支えてください」
「言われなくても」
ぼくは壊れた籠を見る。
縁が割れて、取っ手の片方が外れている。抱えて逃げる途中でぶつけたのだろう。
「これも直します」
ミミルが、はっとして籠を抱きしめた。
「取らないよ」
ぼくは手を止める。
「中身を見ません。籠だけ。持てないと困るでしょう」
ミミルは少し迷ってから、籠を床に置いた。
ぼくは割れた縁に細い木片を当て、銅線で軽く留める。完全に直すには材料が足りないが、今夜持ち運ぶくらいなら十分だ。
取っ手の紐は切れかけていたので、余り布を裂いて編み直す。
ついでに、ミミルの足首に巻く支えも作った。
布だけだと緩む。
細い板を二枚、足首の両側に添える。
強く固定しすぎると痛むから、少し余裕を残す。
「これで、歩くならゆっくりです。走らないでください」
ミミルが、こくりとうなずく。
「……ありがとう」
小さな声だった。
ヴェルが顔をそむける。
「別に。おじさんが勝手にやっただけだし」
「ヴェルも支えてくれました」
「余計なこと言わないで」
セラさんがくすりと笑った。
その笑いに、小屋の中の空気が少しだけ緩む。
ほんの少しだけだ。
護衛役の男は、まだ入口の近くにいる。
薬売りの女性も、ミミルを見る目に警戒が残っている。
ミミルも、人間客の方を見るたびに肩を縮める。
同じ小屋に入れただけ。
それだけで、仲良くなったわけではない。
「ミミルさん」
ぼくは言った。
「今夜だけでも、ここで休んでいってください」
ミミルは人間客たちを見た。
そして、ヴェルの袖を小さくつかむ。
「……いいの?」
「いいの」
ヴェルが即答した。
護衛役の男が何か言いかけたが、薬売りの女性が先に口を開いた。
「足があれじゃ、外に出す方が危ない。あたしは反対しないよ」
「俺も」
荷運びの若者が言った。
老人は暖炉の前で、目を細めている。
「狭いのう」
それはたぶん、同意だった。
ぼくは小屋の中を見回した。
人間客が四人。
魔物側の客が一人。
セラさん。
ヴェル。
ぼく。
フィオさんの根。
そして、足りない寝床。
足りない食器。
足りない空間。
問題は山ほどある。
ミミルを暖炉に近づけようとすると、護衛役の男がわずかに身構えた。
ミミルも、それに気づいて足を止める。
ヴェルが男を睨み、セラさんが静かに二人の間へ立つ。
ぼくは思わず、入口灯を見た。
柔らかくしたはずの光は、まだ少し揺れている。
同じ屋根の下に入れた。
ただ、それだけだ。
それだけなのに、こんなに難しい。
ぼくは工具箱の取っ手を握り直した。
壊れた道具なら、どこが割れているかを見ればいい。
けれど、人と人の距離は、目に見える割れ目ばかりではないらしい。




