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境界の修理屋-外れスキル《魔法道具作成》で宿屋を直していたら、世界の対立まで直すことになりました-  作者: 山賀 秀明
第1章:第3部

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第22話:森から来た魔物側の客

「まだ抜かないでください」


 ぼくは、護衛役の男に向けて言った。


 男の手は、剣の柄にかかったままだ。


 抜いてはいない。


 けれど、指に力が入っている。


 小屋の中にいた人間客たちも、息をひそめていた。薬売りの女性は、暖炉のそばに座った老人の前へ半歩出ている。荷運びの若者は、水桶を持ったまま固まっていた。


 ヴェルは入口へ向かっている。


 背中は小さいのに、空気だけは妙に鋭い。


 セラさんは老人の前に立ちながら、ぼくを見る。


 その目は、どうしますか、と聞いていた。


『近いです』


 柱の根元から、フィオさんの声がした。


 床板の下で、細い根がかすかに震えている。


『怖がっています。とても急いでいます』


 ぼくは入口灯へ目を向けた。


 淡い光が、いつもより少し不安定に揺れている。


 敵意のあるものを遠ざける。


 この小屋には、そういう性質がある。


 入口灯も、それを少し助けるように調整していた。


 けれど、今近づいている相手が敵なのか、怖がっているだけなのかは、まだ分からない。


 森の奥で、枝が折れる音がした。


 ヴェルが小さく舌打ちする。


「遅い。こっち」


 彼女が入口の外へ出ようとした瞬間、茂みが大きく揺れた。


 飛び出してきたのは、怪物ではなかった。


 小柄な少女だった。


 年は、見た目だけなら十代の前半くらいだろうか。


 頭の上に、長い兎の耳がある。片方はぴんと立っているが、もう片方は力なく垂れていた。髪は薄い茶色で、頬も服も泥だらけだ。


 腕には、小さな籠を抱えている。


 籠の縁は割れ、結んであった紐も切れかけていた。


 少女は入口灯の光の手前で立ち止まった。


 いや、止められたのかもしれない。


 足が震えている。


 右足のすねに擦り傷があり、血が乾きかけていた。


「魔物だ」


 護衛役の男が低く言った。


 その声に、少女の肩が跳ねた。


 彼女は小屋の中を見た。


 人間客たち。


 剣に手をかけた護衛。


 暖炉のそばの老人。


 そして、入口に立つヴェル。


 少女の耳が、ぺたりと伏せる。


「ひっ……」


 逃げようとして、足がもつれた。


 籠を抱えたまま、その場に膝をつく。


 ヴェルが前に出た。


「ちょっと。剣、抜かないでよ」


「近づくな」


 護衛役の男が言う。


 ヴェルの目が、すっと細くなった。


「この子、戦える状態じゃないでしょ」


「魔物は魔物だ」


「人間は人間だから全部同じって言われたら、あんた怒るでしょ」


 護衛役の男が言葉に詰まる。


 ヴェルは少女の前にしゃがみ込んだ。


 いつものような生意気な笑みはない。


「こっち来なさい。そこ、光が痛いんでしょ」


 少女はヴェルを見上げた。


 人間客を見るよりは、少しだけ怯えが弱い。


 けれど、すぐに近づくほど安心しているわけでもない。


 ヴェルは舌打ちしそうな顔をしたが、しなかった。


 代わりに、ぼくの方を振り返る。


「おじさん。入口の灯り、なんか変」


「分かっています」


 ぼくは工具箱を持って入口へ向かった。


「動かないでください。全員、少しそのままで」


「何をする気だ」


 護衛役の男が聞く。


「灯りを見ます」


「今それか」


「今だからです」


 ぼくは入口灯の台座を外した。


 魔石は熱を持っていない。


 ただ、光が硬い。


 人を照らす灯りではなく、拒むための光になっている。


 昨日までは、それでよかった。


 夜の獣や、敵意のあるものを遠ざけるには、少し硬いくらいがいい。


 でも、今ここにいるのは、敵意を持って襲いかかってくる相手ではない。


 怖がって、逃げてきて、入口の前で動けなくなっている子だ。


「敵意と、怖がっているだけの相手は、同じじゃない」


 自分に言い聞かせるように、ぼくはつぶやいた。


 魔力回路の外側を細い針で軽く削る。


 結界の芯は残す。


 ただし、光の当たり方を少し丸くする。


 攻撃しようとする力には引っかかる。


 でも、助けを求めて近づく相手には、少しだけ通り道を作る。


 そんな都合のいいものを、完璧に作れるわけではない。


 今夜だけ。


 この入口だけ。


 この子が小屋へ入れる程度でいい。


「セラさん、水と布をお願いします」


「はい」


 セラさんがすぐに動いた。


 薬売りの女性が、少し迷ったあと、老人の前から半歩下がる。


「布なら、こっちにもある」


「ありがとうございます」


 セラさんは、女性から布を受け取った。


 そのやり取りを見て、護衛役の男が顔をしかめる。


 怖いのだろう。


 それは分かる。


 境界道で生きているなら、魔物を見て身構えるのは自然だ。ぼくだって、何も知らずに夜の森でこの子と出会ったら、驚いたと思う。


 だから、怖がるなとは言えない。


 でも、怖いから追い出す、では、この小屋は何も始まらない。


 入口灯の光が、ふっと柔らかくなった。


 少女の肩の震えが、少しだけ弱まる。


「ヴェル」


「分かってる」


 ヴェルは少女へ手を伸ばした。


「ほら。立てる?」


 少女はおそるおそる、その手を見た。


 すぐには取らない。


 代わりに、小さくうなずく。


 ヴェルは無理に引っ張らず、立ち上がるまで待った。


 その待ち方が、不器用に優しかった。


 少女は足を引きずりながら、一歩、入口灯の光を越える。


 護衛役の男が息を呑んだ。


 薬売りの女性も、荷運びの若者も、何も言わない。


 ただ見ている。


 少女は小屋の入口のところで止まり、また人間客を見て固まった。


 セラさんが、すぐ近づこうとはせず、少し離れた場所に水と布を置いた。


「怖いのは分かります」


 セラさんは、少女ではなく、人間客の方を見て言った。


「けれど、あの子は怪我をしています」


 薬売りの女性が、少女の足を見る。


 血と泥で汚れたすね。


 膝の擦り傷。


 垂れた耳の先にも、小さな切り傷があった。


「……確かに、あれじゃ走れないね」


 女性の声はまだ硬い。


 でも、さっきよりは人の声になっていた。


 護衛役の男だけが、まだ納得していない。


「中に入れるのか」


「入れます」


 ぼくは答えた。


「外に置いておく理由がありません」


「俺たちがいる」


「はい」


「爺さんもいる。薬も荷もある。魔物を入れて、何かあったらどうする」


 それは、当然の心配だ。


 ぼくは少女を見る。


 彼女は籠を抱きしめ、息を殺すようにして立っている。


 ヴェルが一歩、彼女の前に出た。


「外に置けって言うの?」


「そうは言ってない」


「言ってるのと同じ」


 ヴェルの声が低くなる。


 空気がまた張りつめた。


 このままだと、ヴェルが怒る。


 護衛役の男も引かない。


 ぼくは二人の間に入った。


「まず、決めます」


 自分でも、少し硬い声だった。


「この小屋では、怪我人を先に手当てします」


 護衛役の男が口を開きかける。


 ぼくは続けた。


「それから、小屋の中では誰も傷つけない。人間も、魔物も。怖いなら距離を取ってください。でも、追い出す理由にはしません」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 言い切ってから、少しだけ手が震えているのに気づく。


 ぼくは戦える人間ではない。


 護衛役の男が本気で剣を抜いたら、止められる自信はない。


 ヴェルが怒って飛び出したら、きっと追いつけない。


 それでも、ここで何も決めなかったら、この小屋の中では声の大きい方が勝つことになる。


 それは嫌だった。


「……分かった」


 先に口を開いたのは、薬売りの女性だった。


「あたしは、その子の手当てに反対しない」


 荷運びの若者も、小さくうなずく。


「俺も。怪我してるなら、まあ」


 老人が暖炉のそばから、しわがれた声を出した。


「若いの。剣は抜くな。疲れる」


 護衛役の男が、苦い顔をした。


「……分かってる」


 剣から手が離れる。


 完全に納得したわけではない。


 それでも、今はそれで十分だった。


 ぼくは少女へ向き直る。


「入ってください。手当てします」


 少女は、小さく首を振った。


 まだ怖いのだろう。


 ヴェルが腰に手を当てる。


「あんた、名前は?」


 少女は何度か口を動かした。


 声が出ない。


 セラさんが水の器を少しだけ近づける。


「大丈夫です。言えるところだけで」


 少女は器を見て、それからセラさんを見た。


 おそるおそる水を飲む。


 喉が動く。


 ようやく、小さな声が出た。


「……ミミル」


「ミミルさんですね」


 セラさんが微笑む。


「わたしはセラです。こちらはシュウ様。あちらはヴェル」


「様はいりません」


 ぼくは小声で言った。


 セラさんは聞こえなかったふりをした。


 ヴェルがふんと鼻を鳴らす。


「ミミル。足、見せなさい」


 言い方がぶっきらぼうだ。


 けれど、ミミルは少しだけ安心したように、ヴェルの近くへ寄った。


 ぼくは工具箱を脇に置き、床に膝をつく。


 怪我を見る。


 すねの擦り傷は広いが、深くはない。


 耳の切り傷も浅い。


 問題は、右足首だ。


 少し腫れている。


 走っている途中で捻ったのだろう。


「骨は大丈夫そうです。ただ、これ以上歩かせるのはよくない」


「走ってきたのかい」


 薬売りの女性が聞いた。


 ミミルは籠を抱えたまま、こくこくとうなずく。


「誰に追われた?」


 護衛役の男の声に、ミミルの耳が伏せた。


 ヴェルが男を睨む。


「聞き方」


「必要なことだ」


「怯えさせて聞くことじゃないでしょ」


 ミミルは震えながら、短く答えた。


「森で……大きいの。斧、持ってた」


 斧。


 ぼくはフィオさんを見る。


 柱の根元の若葉が、かすかに縮んでいた。


『近くには、今はいません』


 フィオさんの声がする。


『でも、森が少し嫌がっています』


 素材狩りの残りか。


 それとも、別の連中か。


 今すぐには分からない。


 ただ、ミミルが嘘をついているようには見えなかった。


「セラさん、足首を冷やせますか」


「はい。布を濡らします」


「ヴェル、ミミルさんが倒れないように支えてください」


「言われなくても」


 ぼくは壊れた籠を見る。


 縁が割れて、取っ手の片方が外れている。抱えて逃げる途中でぶつけたのだろう。


「これも直します」


 ミミルが、はっとして籠を抱きしめた。


「取らないよ」


 ぼくは手を止める。


「中身を見ません。籠だけ。持てないと困るでしょう」


 ミミルは少し迷ってから、籠を床に置いた。


 ぼくは割れた縁に細い木片を当て、銅線で軽く留める。完全に直すには材料が足りないが、今夜持ち運ぶくらいなら十分だ。


 取っ手の紐は切れかけていたので、余り布を裂いて編み直す。


 ついでに、ミミルの足首に巻く支えも作った。


 布だけだと緩む。


 細い板を二枚、足首の両側に添える。


 強く固定しすぎると痛むから、少し余裕を残す。


「これで、歩くならゆっくりです。走らないでください」


 ミミルが、こくりとうなずく。


「……ありがとう」


 小さな声だった。


 ヴェルが顔をそむける。


「別に。おじさんが勝手にやっただけだし」


「ヴェルも支えてくれました」


「余計なこと言わないで」


 セラさんがくすりと笑った。


 その笑いに、小屋の中の空気が少しだけ緩む。


 ほんの少しだけだ。


 護衛役の男は、まだ入口の近くにいる。


 薬売りの女性も、ミミルを見る目に警戒が残っている。


 ミミルも、人間客の方を見るたびに肩を縮める。


 同じ小屋に入れただけ。


 それだけで、仲良くなったわけではない。


「ミミルさん」


 ぼくは言った。


「今夜だけでも、ここで休んでいってください」


 ミミルは人間客たちを見た。


 そして、ヴェルの袖を小さくつかむ。


「……いいの?」


「いいの」


 ヴェルが即答した。


 護衛役の男が何か言いかけたが、薬売りの女性が先に口を開いた。


「足があれじゃ、外に出す方が危ない。あたしは反対しないよ」


「俺も」


 荷運びの若者が言った。


 老人は暖炉の前で、目を細めている。


「狭いのう」


 それはたぶん、同意だった。


 ぼくは小屋の中を見回した。


 人間客が四人。


 魔物側の客が一人。


 セラさん。


 ヴェル。


 ぼく。


 フィオさんの根。


 そして、足りない寝床。


 足りない食器。


 足りない空間。


 問題は山ほどある。


 ミミルを暖炉に近づけようとすると、護衛役の男がわずかに身構えた。


 ミミルも、それに気づいて足を止める。


 ヴェルが男を睨み、セラさんが静かに二人の間へ立つ。


 ぼくは思わず、入口灯を見た。


 柔らかくしたはずの光は、まだ少し揺れている。


 同じ屋根の下に入れた。


 ただ、それだけだ。


 それだけなのに、こんなに難しい。


 ぼくは工具箱の取っ手を握り直した。


 壊れた道具なら、どこが割れているかを見ればいい。


 けれど、人と人の距離は、目に見える割れ目ばかりではないらしい。



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