第21話:噂を聞いた人間客
客が帰ったあとの小屋は、妙に広く感じる。
いや、実際には広くなっていない。
床はまだ軋むし、壁板の隙間からは朝の冷たい空気が入ってくる。寝床と呼んでいる場所も、板の上に布と干し草を重ねただけだ。
それでも、昨日まではここに人が泊まっていた。
ガルスさんが座っていた場所。
旅人が杖を立てかけていた壁。
セラさんが汁物を配っていた暖炉の前。
そういう痕跡が残っていると、ただの小屋が少しだけ別のものに見えてしまう。
「……ここ、ほんとに宿屋みたいになってきたわね」
入口のそばで、ヴェルが腕を組んでいた。
生意気そうな顔をしているが、目は外の森と街道を交互に見ている。口では文句を言いながら、ちゃんと見張ってくれているのがヴェルらしい。
「宿屋というほどじゃないよ。屋根と水と、硬い寝床があるだけだ」
「それを宿屋って言うんじゃないの?」
「宿屋に失礼だと思う」
ぼくは入口灯の台座を外し、魔石の曇りを布で拭いた。
昨夜は長く灯していたから、魔力の流れが少し偏っている。明かりはつくが、結界の薄いところができていた。
こういうものは、壊れてから直すより、壊れる前に触っておいた方がいい。
人間でも道具でも、手遅れになる前が一番大事だ。
「シュウ様、お水の壺はまだ使えそうです」
セラさんが浄水壺の中を覗き込んで言った。
白い指先が壺の縁をなぞる。壺の底に沈めた小さな魔石が、淡く光っていた。
「昨日より濁りが少ない気がします。フィオさんの根が近くにあるからでしょうか」
『少しだけ、土の水を落ち着かせました』
柱の根元から、のんびりした声がした。
フィオさんの細い根が、床板の隙間から顔を出している。本人の姿は出ていないが、窓辺の若葉がゆっくり揺れた。
「無理はしないでくださいね」
『はい。無理はしません。ほんの少し、根っこでお手伝いです』
「根っこでお手伝いって、普通に聞くと怖いんだけど」
ヴェルがぼそっと言う。
フィオさんは気にした様子もなく、窓辺の葉をもう一度揺らした。
小屋の横の畑では、昨日より少しだけ緑が増えている。
畑というにはまだ頼りない。食料庫と呼ぶには、ずっと足りない。けれど、芽が出ているというだけで、寒々しかった小屋の周りが少し違って見えた。
ぼくは入口灯を元の位置へ戻しながら、寝床の数を数える。
一つ。
二つ。
無理をすれば三つ。
昨夜の旅人一人ならどうにかなった。
けれど、二人、三人と来たらすぐ足りなくなる。
「まずいな」
「何がですか?」
セラさんが顔を上げた。
「寝床が足りません。あと布も足りない。食器も足りないし、鍋も一つしかない」
「急に宿屋っぽい悩みになってきましたね」
「だから宿屋じゃないんです」
「でも、シュウ様。困っている方が来たら、泊めてしまいますよね」
セラさんが、やわらかく笑った。
返事に困る。
たぶん、顔にも出た。
ヴェルがにやっと笑う。
「おじさん、自分のこと分かってる? 困ってるやつが来たら、絶対に放っておけない顔してる」
「そんな顔をしてるかな」
「してる。ものすごくしてる」
否定したかったが、あまり自信はなかった。
壊れた道具を見たら、直せるかどうかを考える。
困っている人を見たら、何が足りないのかを考える。
それはもう、癖みたいなものだ。
『シュウさん』
フィオさんの声が、少しだけ低くなった。
『街道の方から、車輪の音がします。三つ……いえ、四つ。足音もいくつか』
「客?」
ヴェルが入口へ顔を向ける。
ぼくも外へ出た。
境界道の方から、小さな荷車が一台、ゆっくりと森の入口へ近づいてくる。車輪の片方が少し傾いていて、軸が痛んでいるのが遠目にも分かった。
荷車を引いているのは、日に焼けた若い荷運びの男。
その横に、薬草の束を背負った中年の女性。
後ろには、足を引きずる巡礼者らしい老人。
そして、少し離れた位置に、剣を下げた護衛役の男がいた。
四人とも、旅慣れてはいる。
けれど、疲れていた。
特に老人の足取りが重い。
荷車が小屋の前で止まる。
薬草を背負った女性が、警戒するようにこちらを見た。
「ここに、泊まれて道具も直せる小屋があるって聞いたんだが」
「……小屋はここです。ただ、宿屋というほどではありません」
ぼくが答えると、女性は小屋を見上げた。
入口灯。
浄水壺。
修理台。
横の畑の芽。
彼女の視線が、一つずつ動く。
「ガルスって商人が言ってたんだ。境界道に、変な修理屋の小屋があるって」
「ガルスさん……」
やっぱり、あの人か。
「泊まれる。水が飲める。道具が直せる。飯も出る。あと、魔物を連れた変な修理屋だって」
「最後の部分は、できれば忘れてください」
ぼくが言うと、荷運びの若者が少しだけ笑った。
だが、護衛役の男は笑わなかった。
彼の視線は、ぼくの後ろに向いている。
ヴェルだ。
黒い髪。
小柄な体。
けれど、人間とは違う気配。
隠す気のない角と、背中の奥にある魔力の色。
護衛役の男の手が、反射的に剣の柄へ伸びた。
ヴェルの目が細くなる。
「何? 抜くの?」
「魔物だぞ」
男の声には、恐怖と警戒が混ざっていた。
ぼくは一歩、二人の間に入った。
「ここでは抜かないでください」
「だが」
「ヴェルです」
ぼくは、できるだけ静かに言った。
「ここでは、ぼくの大事な仲間です」
男の眉が動く。
ヴェルも、少しだけ目を見開いた。
言ったあとで、ぼくの方が少し恥ずかしくなる。だが、ここで言い直すと余計におかしい。
セラさんが、すっと前へ出た。
「怖いと思うのは当然です」
やわらかい声だった。
責める声ではない。
「境界道を通る方なら、魔物を警戒するのは当たり前です。でも、ここでは誰も傷つけさせません。人間の方も、魔物の方も」
護衛役の男は、まだ手を剣から離さない。
けれど、抜きはしなかった。
ヴェルが鼻を鳴らす。
「あたしだって、いきなり剣を抜く人間なんて信用してないし」
「ヴェル」
「分かってる。抜いてないから噛みつかない」
「噛みつく前提で話さないでほしい」
薬草の女性が、少しだけ肩の力を抜いた。
「……あんた、本当に変な修理屋なんだね」
「それは、あまり褒め言葉に聞こえません」
「褒めてるよ。たぶん」
たぶん、が気になる。
けれど、少なくとも剣が抜かれるよりはいい。
ぼくは荷車の車輪へ目を向けた。
「それより、車輪の軸が痛んでいますね」
荷運びの若者が、ぱっと顔を上げる。
「分かるのか?」
「傾き方が少し変です。あと、荷の重さが右に寄ってます。今のままだと、暗くなる前に外れるかもしれません」
「やっぱりか……」
若者が肩を落とした。
「町までは持たせたいんですか。それとも、今夜ここで動かなければいいですか」
「できれば、明日の朝に町まで行きたい」
「なら、完全に直すより、町まで持つように補強します」
ぼくは工具箱を取ってきた。
車輪を持ち上げるため、ヴェルに目を向ける。
「ヴェル、少しだけ支えてもらえますか」
「人間の荷車を?」
「困っているなら、人間でも魔物でも同じです」
ヴェルは口を尖らせた。
けれど、魔鎖の腕輪から黒い鎖を伸ばし、荷車の軸を下から支えてくれる。
「今回だけだから」
「ありがとう」
「……ふん」
護衛役の男が、その鎖を見てまた身構えた。
だが、今度は剣へ手を伸ばさなかった。
ぼくは車軸の下に膝をつき、割れかけた留め具を外す。
木が乾きすぎている。
金具も歪んでいた。
ここを無理に締め直すと、町へ着く前に割れる。
だから、力を逃がす場所を作った方がいい。
「セラさん、細い布を一枚。あと、水を少しお願いします」
「はい」
セラさんがすぐに動く。
ぼくは古い蝶番を薄く曲げ、割れ目を押さえる形に合わせた。そこへ湿らせた布を挟み、銅線で巻く。
強く締めすぎない。
弱すぎてもだめだ。
使う人と、行きたい場所を考える。
この荷車は、あと一日だけ走ればいい。
それなら、今必要なのは立派な修理じゃない。
明日の町まで壊れないことだ。
「よし」
ぼくは車輪を軽く回した。
まだ音はする。
でも、さっきよりずっとましだ。
「これで町までは持つと思います。ただし、重い荷は右に寄せないでください。あと、坂道では押してください。引くだけだと、また軸に負担がかかります」
荷運びの若者が、目を丸くした。
「……助かった。ほんとに助かった」
「まだ応急です。町に着いたら、ちゃんと車大工に見せてください」
「ああ」
薬草の女性が、今度は薬箱を差し出した。
「こっちも見てもらえるかい。留め金が外れて、薬瓶が割れそうなんだ」
「見ます」
ぼくが手を伸ばすと、ヴェルが小さくため息をついた。
「おじさん、また便利に使われてる」
「そうかな」
「そう」
セラさんがくすりと笑う。
「でも、助かったお顔をされています」
「……まあ、それならいいけど」
ヴェルはそっぽを向いた。
薬箱の留め金は、片方の爪が欠けていただけだった。針金で仮の爪を作り、木片を削って当たりを調整する。
箱を閉じると、かちりと音がした。
「強く振らなければ大丈夫です」
「器用なもんだね」
「直すものがある方が落ち着くので」
「変な人だ」
「今日はそれをよく言われます」
気づけば、日がかなり傾いていた。
森の影が、小屋の前まで伸びている。
巡礼者の老人が、疲れた顔で杖に体重を預けていた。
薬草の女性が、少し言いにくそうに口を開く。
「それで、だ。もし迷惑でなければ、一晩だけ泊めてもらえないかい。爺さんの足が思ったより悪い。夜の境界道で野営するよりは、ここで休ませたい」
ぼくは小屋の中を振り返った。
寝床は足りない。
食器も足りない。
食べ物も、余裕があるとは言えない。
宿屋ではない。
何度もそう思う。
でも、老人の足を見る。
荷車の軸を見る。
護衛役の男の疲れた目を見る。
この人たちを追い返したら、夜の境界道で何かあった時、ぼくはきっと後悔する。
「一晩だけなら」
ぼくが言うと、セラさんが静かに頷いた。
「どうにかできます。水と温かいものを用意しますね」
「人間ばっかり泊めるの?」
ヴェルが不満げに言った。
ぼくは少し考えてから、答えた。
「困っているなら、人間でも魔物でも同じです」
ヴェルは口を開きかけて、閉じた。
「……それ、おじさんらしいけどさ」
「嫌ですか」
「嫌じゃない。ちょっと腹立つだけ」
「腹立つんだ」
「人間にいい顔してるみたいで、むかつく」
ヴェルはそう言ってから、ちらりと老人を見た。
「でも、足が悪いやつを追い返すのは、もっとむかつく」
それだけ言って、入口の方へ歩いていく。
護衛役の男が、少しだけ戸惑った顔をした。
ぼくは客たちへ向き直る。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「寝床は選べません。食事も簡単なものだけです。支払いは、金貨でなくても構いません。食料、薬草、修理材料、境界道の情報。払える形でお願いします」
薬草の女性が頷く。
「それでいい」
「それと」
ぼくは護衛役の男を見る。
「小屋の中では、武器を抜かないでください」
男の表情が固くなる。
「魔物がいるのにか」
「ヴェルも抜きません。あなたも抜かない。それができないなら、泊められません」
自分で言っていて、少し驚いた。
ぼくは宿屋の主人ではない。
強い戦士でもない。
でも、ここで誰かが武器を抜いたら、この小屋は安心して眠れる場所ではなくなる。
それだけは、嫌だった。
護衛役の男はしばらく黙った。
やがて、ゆっくり頷く。
「……分かった。抜かない。そっちが先に手を出さない限りは」
「出させません」
ぼくが言うと、ヴェルが入口から顔だけ向けた。
「おじさんが言うならね」
セラさんが、小さく息をついた。
張りつめていた空気が、少しだけ緩む。
客たちを小屋へ入れる。
やはり、狭い。
荷物を置くだけで、床が半分埋まる。老人を暖炉の近くに座らせ、荷運びの若者には水を運んでもらう。薬草の女性は、支払い代わりに使えそうな薬草をいくつか出してくれた。
護衛役の男だけは、入口に近い壁際に立ったままだ。
ヴェルとは、できるだけ距離を取っている。
ヴェルもヴェルで、わざと気にしていない顔をしているが、耳と尻尾の動きが落ち着かない。
セラさんが二人の間に水を配る。
誰にも偏らないように。
人間にも、ヴェルにも、同じように。
ぼくは寝床の数をもう一度数えた。
一つ。
二つ。
無理をすれば三つ。
客は四人。
ぼくたちは三人と、柱のあたりに根を伸ばしているフィオさん。
足りない。
まったく足りない。
これは、本当に宿屋の真似事をしている場合じゃないのかもしれない。
『シュウさん』
柱の根元から、フィオさんの声がした。
いつもより少しだけ、葉の音が硬い。
『森の方から、誰か来ています』
ぼくは顔を上げた。
ヴェルも、すぐに入口へ目を向ける。
「人間?」
『違うと思います』
フィオさんの根が、床板の下でかすかに震えた。
『怖がっています。急いでいます。人間ではない方です』
小屋の中の空気が、一瞬で変わった。
護衛役の男の手が、また剣の柄へ伸びる。
ヴェルの目が細くなる。
セラさんが老人の前にそっと立った。
ぼくは入口灯を見た。
さっき調整したばかりの魔石が、淡く揺れている。
まだ宿屋ではない。
そう思っていた。
けれど、どうやら境界道は、こちらの都合を待ってくれないらしい。




