第20話:泊まれる、直せる、食べられる
境界道から聞こえてきた車輪の音は、だんだん近づいてきた。
がたん、がたん。
石に当たる音は荒いが、前に聞いた時ほどひどくはない。
やがて木々の間から見えたのは、見覚えのある荷車だった。
「よう、シュウさん」
御者台で手を上げたのは、ガルスさんだ。
荷車の後ろには、疲れた顔の旅人が一人座っている。若い男で、片手に杖を持ち、足元には小さな荷物を抱えていた。
「ガルスさん。戻るには早くないですか」
「言ったろ。客は来るって」
ガルスさんは楽しそうに笑った。
「境界道で足を痛めた旅人を拾った。杖の先も割れてる。水も切れかけ。で、俺は思ったわけだ」
「思ったわけ?」
「あそこなら、水があって、道具を見られて、床に横になれる」
その言葉に、ぼくは少しだけ困った。
たしかに水はある。
道具も見られる。
床に横にもなれる。
ただ、それを宿や店と呼んでいいのかは、まだ分からない。
「おじさんが困ってる人を放っておけない場所、ってことでしょ」
ヴェルが横から雑に言った。
「雑だけど、だいたい合ってるな」
ガルスさんがうなずく。
「合ってるんですか」
「合ってるだろ」
若い旅人は、荷車から降りるなり小屋を見回した。
入口灯。
戸口のそばに置かれた浄水壺。
壁際の修理台。
奥にある簡易寝床。
そして小屋の横に並んだ畑の芽。
「ここは……宿、なんですか? 修理屋? 畑?」
「ぼくにもよく分かりません」
本音だった。
ヴェルがため息をつく。
「そこは自信持ちなさいよ」
「自信を持って言えるほど、どれも完成してないから」
「完成してないのに客が来てるのよ」
それはそうだった。
セラさんが、旅人へ水の入った器を差し出す。
「まずは、少しお休みください。お水です」
「あ、ありがとうございます」
旅人は器を受け取り、慎重に飲んだ。
それから目を丸くする。
「うまい……」
「ただの水ですよ」
「境界道で、ただの水が飲めるのは贅沢なんです」
ガルスさんが言った。
旅人は何度もうなずいた。
セラさんは少し嬉しそうに微笑み、火のそばへ戻る。
汁物の鍋には、昨日フィオさんが出してくれた食用葉が少しだけ入っていた。まだ量は少ない。香りづけ程度だ。
けれど、湯気に青い匂いが混じっている。
「フィオさん、少し使わせてもらいました」
『はい。葉も喜んでいます』
小屋の柱の陰から、フィオさんの声がした。
旅人がぎょっとして柱を見る。
淡い緑の輪郭が、柱のそばにふわりと浮かんでいた。
「木が……しゃべった?」
「変な木だけど役には立つ」
ヴェルが言った。
『変な木、役に立ちます』
「受け入れないでってば」
フィオさんはのんびり笑った。
旅人は混乱しているようだったが、湯気の立つ器を受け取ると、驚きより空腹が勝ったらしい。ゆっくり汁物を飲み、ほっと息を吐いた。
「温かいものまで……」
「まだ保存食をのばしただけですけど」
「それでも、助かります」
その言葉に、セラさんの表情がやわらぐ。
泊まれる。
まず、その一つが形になっていた。
「杖を見せてもらえますか」
ぼくは旅人の杖を受け取った。
先端の木が割れ、金具も少し曲がっている。これでは体重をかけるたびに割れ目が広がる。
「完全には直せませんが、町まで持つようにはできます」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「使い方次第です」
ぼくは修理台へ向かった。
割れた先端を布で押さえ、薄い金具を曲げ直す。余っていた銅線で締め、低級魔石の欠片を少しだけ噛ませる。
強化というほどではない。
ただ、体重をかけた時に割れ目が一気に広がらないよう、力の逃げ道を作る。
旅人が不安そうに見ている。
ガルスさんは逆に、にやにやしていた。
「見ただろ。境界道でこれがどれだけ値打ちがあるか」
「ただの応急修理です」
「境界道じゃ、応急が命をつなぐ」
その言い方は少し大げさに聞こえた。
でも、杖を受け取った旅人が、実際に立ち上がって何度か体重をかけると、顔つきが変わった。
「歩けます」
「無理はしないでください。先端に負担をかけすぎると、また割れます」
「はい。ありがとうございます」
直せる。
これも、少しだけ形になっていた。
「で、支払いの話だ」
ガルスさんが言った。
「いえ、足を痛めている人からは」
「それをやるから、次の客が困ると言っただろ」
止められた。
ガルスさんは旅人の荷物を見て、現金ではなく交換にしろと言った。
「持ってる針金か、布切れか、保存食の欠片。なければ水汲み一回でもいい。払った形を作れ」
旅人は慌てて荷物を探し、細い革紐と小さな釘を差し出した。
「これで足りますか」
「十分です」
ぼくが受け取ると、ガルスさんが満足そうにうなずく。
「そうやって続けられる形にするんだよ。善意だけじゃ、場所はもたない」
続けられる形。
それも、修理と同じなのかもしれない。
その場で直して終わりではなく、次に壊れにくい形へ変える。
場所も、きっと同じだ。
旅人は少し休み、杖をついて境界道へ戻ることになった。
ガルスさんは荷車の横で腕を組み、小屋を見回している。
「入口に灯りがある」
「はい」
「水が飲める」
「はい」
「硬いが寝床がある」
「前よりは柔らかくしたつもりです」
「修理台がある」
「あります」
「飯に葉っぱが入る」
「少しだけです」
「畑まである」
「芽が出ただけです」
ガルスさんは笑った。
「境界道に、泊まれて、直せて、飯が出る変な小屋がある」
「変な小屋ですか」
「変なのは強みだ」
ぼくは小屋を振り返った。
古い扉。
直した棚。
浄水壺。
入口灯。
修理台。
簡易寝床。
畑の芽。
セラさんが器を片づけ、ヴェルが入口を見張り、フィオさんの根が柱の近くで静かに休んでいる。
数日前、ここはただの古い小屋だった。
雨漏りをして、床が軋み、暖炉もまともに使えなかった。
今も立派とは言えない。
それでも、誰かが足を止める理由がある。
「噂になるぞ」
ガルスさんが言った。
「人間側には、魔物を連れた修理屋の小屋。魔物側には、人間がいるが、弱い魔物も森の精霊も守る小屋」
「それ、いい噂なんですか」
「いい噂にも悪い噂にもなる」
ガルスさんの顔が、少しだけ真面目になった。
「だが、境界道で噂になるってことは、人が来るってことだ。困ってるやつも、商売になると思うやつも、面倒を持ち込むやつもな」
面倒。
その言葉に、ヴェルが鼻を鳴らす。
「もう十分来てるけど」
「まだ序の口だろうな」
ガルスさんは荷車へ戻った。
「次に来る時は、寝床用の詰め物と、柵に使える材を持ってくる。代わりに、その変な畑の葉っぱを少し売れるか考えとけ」
「売るほどありません」
「今はな」
ガルスさんは笑い、荷車を動かした。
旅人も杖をつきながら、何度も礼を言って境界道へ戻っていく。
その背中を見送りながら、ぼくは小さく息を吐いた。
泊まれる。
直せる。
食べられる。
まだ全部、応急処置みたいなものだ。
でも、応急処置でも、人は助かる。
なら、ここからちゃんと直していけばいい。
その日の夕方。
境界道の向こう、人間の町の門近くで、一人の守備兵が噂を聞いた。
「魔物を泊める小屋だと?」
同じ頃、森のさらに奥では、素材狩りの一人が別の魔物に報告していた。
「御神木を守った人間の小屋がある。変な修理屋だ」
境界の小屋は、まだ小さな場所だ。
けれど、その名前のない小屋をめぐる噂は、人間側にも、魔物側にも、少しずつ流れ始めていた。




