第19話:おっとり木精と二人のヤキモチ
翌朝、小屋の裏手へ出ると、昨日出たばかりの芽が少しだけ背を伸ばしていた。
収穫できるほどではない。
けれど、昨日より葉が立っている。土も落ち着いていた。指で押すと、固く跳ね返すのではなく、柔らかく沈んでからゆっくり戻る。
「通路を作らないと、踏みますね」
ぼくは小さくつぶやいた。
畑の端から端まで、今のままでは歩く場所がない。水を運ぶにも、薬草を摘むにも、芽の間をまたぐことになる。
柵もいる。
獣よけもいる。
薬草と食用の葉は分けた方がいい。
水の通り道も、ちゃんと見ておかないと。
「また難しい顔してる」
背後からヴェルの声がした。
「難しいというか、やることが増えたなと思って」
「昨日まで宿屋っぽいことしてたのに、今日は畑?」
「ぼくも不思議です」
「不思議で済ませるんだ」
ヴェルは呆れたように言いながらも、畑の端を踏まないように気をつけて立っている。
その時、小屋の柱の近くで、葉擦れのような音がした。
『おはようございます』
声が、土の下からふわりと上がる。
柱の陰に、淡い緑の光が集まった。
フィオさんの姿が、半透明の輪郭で現れる。昨日よりは少し濃いが、まだ向こう側の柱がうっすら透けて見えた。
『根っこでお邪魔しております』
「お邪魔の仕方がおかしい」
ヴェルがすぐに突っ込んだ。
フィオさんは不思議そうに首をかしげる。
『玄関から入った方がよかったでしょうか』
「根っこで玄関を使うな」
「ヴェル、朝から元気ですね」
セラさんが湯気の立つカップを持って、小屋の中から出てきた。
「元気じゃない。変な木に突っ込まされてるだけ」
『変な木』
フィオさんは少し考えた。
『変わった木、という意味なら、そうかもしれません』
「受け入れないでよ」
朝から会話が混線している。
ぼくは畑の土を見ようとして、フィオさんに声をかけられた。
『シュウさん。こちらの根の湿り気も、見ていただけますか』
「湿り気ですか」
『はい。昨日より息はしやすいのですが、こちら側が少し硬い気がします』
フィオさんの細い蔓が、ぼくの手首にそっと触れた。
そのまま、畑の端へ案内するように引く。
力は弱い。
でも、柔らかい蔓が手首に巻く感触に、ぼくの指先が止まった。
蔓は冷たくない。
木のものなのに、ほんのり温かい。人の手とは違うのに、ただの植物とも違う。その中途半端さが、妙に意識に残る。
相手は木の精霊だ。
根の調子を見るためだ。
分かっている。
分かっているのだが、女性の姿をした人に手首を取られることに、ぼくはまだ慣れていない。
『シュウさん?』
「あ、はい。見ます。見ますから」
『お顔が朝焼けみたいです』
「それは、たぶん畑の反射で」
『畑は顔を赤くしません』
正論だった。
横からヴェルがにやりと笑う。
「おじさん、木にも照れるの?」
「木というか、フィオさんは女性の姿をしているので」
『女性の姿だと、顔が赤くなるのですか』
「その話は土の確認が終わってからにしましょう」
ぼくは逃げるようにしゃがみ込んだ。
土を見る。
土は大事だ。
土は赤くならない。
そう思っていたら、背中のすぐ近くにセラさんが来た。
「シュウ様、朝食が冷めてしまいます」
声はいつも通りやわらかい。
けれど、カップを差し出す距離が近い。
肩に、ほんの少しセラさんの袖が触れた。
「あ、ありがとうございます」
「フィオさんも、まだ無理はなさらないでくださいね」
『はい。セラさんの水はやさしいので、つい根を伸ばしたくなります』
「そう言っていただけると、嬉しいです」
セラさんは微笑んだ。
微笑んでいる。
でも、なぜかカップを持つ手は、ぼくのすぐ横から離れない。
ヴェルが腕を組んだ。
「木のくせに距離近すぎ」
『根は近い方が安心します』
「根の話じゃない」
『では、蔓の話でしょうか』
「もっと違う」
ぼくは土を指でつまんだ。
「ここの通路を少し固めましょう」
「逃げた」
「逃げましたね」
ヴェルとセラさんの声が重なった。
「畑の管理の話です」
ぼくは真面目に言った。
真面目に言ったつもりだった。
けれど、二人には見抜かれているらしい。
フィオさんだけが、きょとんとしていた。
『通路は大切ですね。根っこも、人も、通る場所があると安心します』
「ほら、フィオさんもそう言っています」
「木に助け船を出されてる」
ヴェルがぼそっと言う。
朝食は、昨日までより少しだけ色があった。
保存食をのばした汁物に、フィオさんが示してくれた食用葉をほんの少し刻んで入れたのだ。
たったそれだけなのに、湯気の匂いが違う。
青い葉の香りが、薄い塩気の中に混じっている。
「おいしいです」
セラさんが、ほっとしたように言った。
「葉が少し入るだけで、こんなに違うんですね」
「保存食だけより、ずっと食事らしいです」
ぼくも一口飲んで、そう思った。
ヴェルは器を見下ろし、少しだけ眉を寄せる。
「まあ……悪くない」
「それは褒めてます?」
「かなり褒めてる」
『ありがとうございます』
フィオさんの声が嬉しそうに揺れた。
『薬草も少しあります。強い薬ではありませんが、すり傷や疲れた根っこに』
「根っこ以外にも効きますか」
『たぶん』
「たぶんなんですね」
セラさんが苦笑する。
フィオさんは、悪びれずに続けた。
『落ち枝も、少しずつ集められます。切らなくても、森には落ちた枝がありますから。柵や支柱に使える子もいると思います』
「落ち枝だけで足りますか?」
『すぐには足りません。でも、急がない柵なら作れます。風よけにする低い木も、ゆっくりなら育てられます』
「ゆっくりなら」
『はい。森は、ゆっくり得意です』
その言い方は、妙に頼もしかった。
すぐに完成する便利な魔法ではない。
でも、続けていけば小屋の周りが変わっていく。そう思わせる力がある。
「助かります。柵、防風、獣よけ、薬草の区画、通路……」
ぼくは頭の中で順番を並べる。
やることが増える。
でも、必要な仕事だ。
「また仕事増えてる」
ヴェルが呆れる。
「でも、必要な仕事です」
「そういう顔してる」
「どんな顔ですか」
「面倒くさいのに、ちょっと楽しそうな顔」
否定できなかった。
フィオさんが柱のそばで少し揺れた。
光が薄くなる。
セラさんがすぐに気づいた。
「フィオさん、今日はここまでにしましょう」
『まだ、柵の相談が』
「相談はできます。でも、根を伸ばすのはお休みです」
『では、今日は絡まりすぎないようにします』
「だから絡まるな」
ヴェルが突っ込む。
フィオさんは真面目にうなずいた。
『控えめに絡まります』
「言い直してもだめ」
セラさんが笑い、ぼくも少し笑った。
その時、境界道の方から、かすかな車輪の音が聞こえた。
がたん、がたん。
石に車輪が当たる音。
人の声も混じっている。
ヴェルが顔を上げる。
「誰か来る」
セラさんが器を置いた。
フィオさんの姿が、柱の陰で少し薄くなる。
ぼくは小屋の入口を見た。
入口灯。
浄水壺。
簡易寝床。
修理台。
そして、小屋の横に出たばかりの畑の芽。
まだ宿でも店でもない。
そう思う。
思うのだけれど。
「でもまた誰か来たみたいよ」
ヴェルが言った。
ぼくは息を吐き、作業エプロンの汚れを払った。
「まずは、困っているかどうか見てみよう」
そう言って、小屋の入口へ向かった。




