第18話:木の精霊、畑を作る
大樹の応急処置を終えて、小屋へ戻る頃には、ぼくの手は泥と樹液でべたべたになっていた。
ヴェルは何度も森の奥を振り返っている。
素材狩りたちが戻ってくる気配は、今のところない。
でも、完全に安心できるわけではない。あの連中は「次は道具を増やして来る」と言っていた。大樹もまだ応急処置をしただけだ。
それでも、小屋が見えた時、少しだけ息が抜けた。
古い扉。
淡い入口灯。
修理したばかりの荷車の跡。
昨日より少しだけ、人が戻れる場所に見える。
『こちらまで、根を伸ばしますね』
耳ではなく、足元の土から聞こえるような声がした。
フィオさんだ。
彼女は大樹から完全には離れられない。けれど、細い根と淡い光だけは、小屋の近くまで届くらしい。
「フィオさん。無理はしないでください」
『無理ではありません。根っこは歩くのが得意です』
「根っこは歩かない」
ヴェルが即座に突っ込んだ。
『では、土の中をゆっくりお散歩します』
「それもどうなの」
セラさんが小さく笑った。
その瞬間、小屋の裏手の地面が、かすかに揺れた。
大きな揺れではない。
硬く固まっていた土が、内側から少しずつほぐれていくような揺れだ。乾いた表面に細いひびが入り、その隙間から湿り気のある土の色が見える。
ぼくはしゃがみ込み、土を指でつまんだ。
「昨日と違う」
「何が?」
ヴェルが横から覗く。
「固すぎた土が、少しほぐれています。水が通る隙間ができている。これなら根が伸びやすい」
指の腹でこすると、固い塊のまま割れるのではなく、細かくほぐれて指の隙間から落ちた。乾きすぎてもいない。握ればまとまり、離せば崩れるくらいの湿り気がある。
『この辺りの土は、ずっと踏まれて固くなっていましたから』
フィオさんの声が、のんびり響く。
『少しだけ、息をしやすくしました』
小屋の床が、こつん、と鳴った。
まるで、くすぐったいと言っているようだった。
「小屋も反応してますね」
セラさんが微笑む。
「くすぐったいのかもしれません」
「小屋がくすぐったいって何よ」
ヴェルはそう言いながら、床の鳴ったあたりをちらりと見た。
フィオさんの根は、小屋の裏手から横へ、ゆっくり広がっていく。
ただ土を掘り返すわけではない。
水の通り道を作り、固いところをほぐし、石が多すぎる場所を避けている。力任せではなく、土に聞きながら整えているように見えた。
『森のみんなから、少しずつ分けてもらいました』
「分けてもらった?」
『落ちた種。余っている種。鳥さんが落としていった実。根っこが覚えている薬草の眠り場所』
フィオさんの声は穏やかだった。
『森を削るのではなく、森が余らせているものを少しだけ』
ぼくはほっとした。
助けたお礼だからといって、森を無理に削っているわけではないらしい。
フィオさんは、本当に森の世話役なのだ。
小屋の横の土から、小さな芽が出た。
ひとつ。
ふたつ。
それから、少し離れたところにも。
丸い葉の芽。細い葉の芽。赤みのある茎。小さな薬草らしい若葉。
さらに小屋の裏手では、低木のようなものが二本、ゆっくりと顔を出した。
「すごい……」
セラさんが両手を合わせる。
「これで、温かいものに少し青いものを入れられますね」
最初に出る感想が、食事のことなのがセラさんらしい。
でも、ぼくも同じことを考えていた。
保存食だけで作る汁物は、体は温まるが味気ない。青い葉が少しあるだけで、ずっと食事らしくなる。
「薬草もありますか?」
『はい。強い薬ではありませんが、すり傷や疲れた根っこには効きます』
「根っこ以外にも効きますかね」
『たぶん』
「たぶん」
ぼくとヴェルの声が重なった。
フィオさんは楽しそうに笑った。
その間にも、芽は増えていく。
小屋の横だけではない。
裏手まで、列のように土が柔らかくなり、ところどころに小さな芽が並んでいく。
ぼくは立ち上がり、全体を見渡した。
これは。
「さすがに、これは家庭菜園ではないと思います」
『小さめです』
「木の基準で小さめって言うな」
ヴェルが言った。
確かに、森全体から見れば小さめなのだろう。
けれど小屋の裏手から横まで広がったこの範囲は、ぼくたち三人が世話するには十分に大きい。畑と呼ぶにはまだ荒いが、家庭菜園と呼ぶには広すぎる。
「通路を作らないと、水をやる時に踏みますね。あと、獣よけも必要です。柵もいる。薬草と食用の葉は分けた方がいい。根菜みたいなものがあるなら、掘る場所も決めないと」
「おじさん、顔が真剣」
ヴェルが呆れたように言う。
「管理しないと、すぐ荒れます」
「さっきまで木を直してたのに、今度は畑?」
「ぼくもそう思っています」
やることが増えた。
寝床。入口灯。浄水壺。修理台。大樹の補修。そして畑。
なのに、不思議と嫌ではなかった。
直したものが、次の暮らしにつながっている。
それが目に見える。
「木のくせに、やりすぎ」
ヴェルが腕を組んで、芽の列を睨む。
『根っこは広がるものですから』
「小屋の周りまで勝手に広がらないでよ」
『控えめにしました』
「これで?」
ヴェルの声には、少しだけ拗ねた響きがあった。
フィオさんが小屋の周辺に自然に入り込んでいることが、気に入らないのかもしれない。
ぼくはヴェルの方を見た。
「ヴェルが入口を守ってくれたから、ここまでできた」
「……別に、畑のために守ったわけじゃないし」
「うん。でも、助かった」
ヴェルはそっぽを向いた。
耳まで少し赤い。
「おじさん、そういうこと急に言うのやめて」
「え、すみません」
「謝るところでもないし」
セラさんが微笑ましそうに見ていた。
そのセラさんへ、フィオさんの声が向く。
『セラさんの水があると、この子たちは喜びます』
「わたしの水、ですか?」
『はい。やさしく染みる水です』
セラさんは少し照れたように、手に持っていた小瓶を見た。
「それなら、毎日少しずつお水をあげます」
『ありがとうございます。無理のない分だけで』
「はい。無理のない分だけ」
セラさんの声が、いつもより明るい。
自分にできることがある。
そう感じているのだと思う。
その明るさを見て、ぼくも少し安心した。
だが、すぐにフィオさんの光が薄くなった。
芽の動きも止まる。
輪郭が透けて、向こう側の大樹の樹皮まで見える。声はのんびりしているのに、姿は今にも木漏れ日に溶けそうだった。
「フィオさん」
『少し、張り切りました』
声は変わらずのんびりしている。
でも、明らかに弱っている。
「今日はここまでです」
『もう少しだけなら』
「だめです」
ぼくが言う前に、セラさんがきっぱり言った。
ヴェルもうなずく。
「そうよ。倒れたら、あたしたちがまた怒られるんだから」
『怒られるのは、困りますね』
「怒るのはこっち」
フィオさんの声が、柔らかく笑った。
『では、今日はここまでにします』
土の下の気配が、ゆっくり落ち着いていく。
小屋の柱の近くまで伸びていた細い根も、そこで止まった。
柱が、こつん、と小さく鳴る。
『ときどき、お顔を出してもよろしいでしょうか』
「もちろんです」
セラさんがすぐに答えた。
ヴェルは腕を組んだまま、少し目を細める。
「小屋に根を張りすぎないでよ」
『では、控えめに絡まります』
「絡まるな」
ヴェルの突っ込みに、セラさんが今度こそ笑った。
ぼくもつられて笑いかけ、すぐに畑の方を見た。
まだ芽が出ただけだ。
収穫には時間がかかる。
柵もない。通路もない。水やりの仕組みもない。獣よけも必要だ。
でも、小屋の周りには、もうただの固い土だけではない。
泊まれる場所。
直せる場所。
そして、少しずつ食べ物を育てられる場所。
境界の小屋は、またひとつ、できることが増えた。




