第17話:壊れかけた木を直す
大樹の根元に指を近づけると、冷たい風のようなものが細く流れていた。
風ではない。
魔力が漏れている。
黒い杭を抜かれた跡から、幹の奥に残っている力が少しずつ外へ逃げていた。そこだけではない。根元の土は乾き、細い根のいくつかは、支えを失ったように浮いている。
問題は三つ。
杭跡から魔力が漏れている。
根元の土が乾いて、木を支える力が落ちている。
そして、次に素材狩りが強引に来たら、幹を切られる前に根元が崩れるかもしれない。
「塞ぐだけじゃだめだ」
ぼくはつぶやいた。
「シュウ様?」
「完全に塞ぐと、悪い流れまで中に閉じ込めるかもしれません。漏れすぎないようにして、逃がすところは逃がす。あと、根元を支えないと」
壊れた水路の仮止めに近い。
全部をふさげばいいわけではない。水の逃げ道を残さないと、別の場所が破れる。
木でも、たぶん同じだ。
ぼくは工具箱の中を見た。
銅線。布。低級魔石。入口灯の魔石片。釘。小型ナイフ。水。
足りない。
けれど、何もできないほどではない。
「フィオさん。落ちている枝で、使っても大丈夫なものはありますか」
「はい……」
フィオさんの薄い輪郭が、大樹のそばで揺れる。
彼女は弱々しく手を上げた。細い蔓が地面を這い、倒れている枝を二本、そっと示す。
「その子たちは、もう本体から離れています。使っても、痛くありません」
「ありがとうございます」
「木にお礼を言う人は、珍しいですね」
フィオさんは、こんな状況なのに少し嬉しそうだった。
ぼくは枝を拾い、長さを見た。
支柱にするには細い。
でも、石と組み合わせれば根元を押さえる支えにはなる。
「セラさん。水は少しずつお願いします。たくさん入れると土が崩れます」
「はい。少しずつ、ですね」
「ヴェル。敵が戻ったら、斧じゃなくて柄を狙ってください。刃を止めるより、振らせない」
「注文が細かい!」
「すみません」
「謝らないで。やるから」
ヴェルは鎖を構えたまま、森の奥を睨んでいた。
怒っている。
でも、飛び出してはいない。
ぼくの「切らせない」という方針に合わせてくれている。
ありがたかった。
ぼくは杭跡の周囲に布を当てた。強く巻きすぎると樹皮を傷める。だから布を細く折り、銅線で緩く押さえる。
低級魔石は、漏れる魔力を全部受け止めるためではなく、流れを逃がすために置く。
悪いものを閉じ込めない。
抜けすぎない。
持たせる。
ただそれだけを考える。
「戻ってきた」
ヴェルの声が低くなった。
素材狩りたちが、再び森の奥から姿を見せる。
今度は黒い杭を前に出していない。
先に斧と鋸を構えている。
防衛線を壊してから、杭を打つつもりだ。
「今度は小細工ごと叩き割る」
先頭の魔族が斧を構えた。
「まだ?」
ヴェルが聞く。
「あと少し」
「そのあと少しが長いのよ、おじさんは」
そう言いながら、ヴェルは前に出た。
斧が振り下ろされる。
ヴェルは刃を受けない。鎖を斧の柄に巻きつけ、横へ引く。
刃が根元の横を削り、土を跳ね上げた。
「邪魔だ!」
「邪魔してるのよ」
ヴェルが言い返す。
別の素材狩りが鋸を持って回り込もうとする。
ぼくが張った銅線に足が触れ、入口灯の魔石片がぱちりと光った。
強い光ではない。
けれど、足元を見ていなかった相手の動きが一瞬だけ止まる。
その一瞬で、ヴェルの鎖が鋸の柄を絡め取った。
「倒さないのか、魔物娘!」
「守る方が先なのよ。文句はおじさんに言いなさい!」
「ぼくですか」
思わず言ってしまった。
ヴェルが振り返らずに怒鳴る。
「そうよ! 陰湿な作戦を考えたのはおじさんでしょ!」
「陰湿ではなく、応急処置です」
「今そこ大事じゃない!」
少しだけ、セラさんが笑ったように見えた。
けれど、すぐに表情を引き締め、水を根元へ少しずつ注ぐ。
大量に流さない。
乾いた土が水を吸い、少しだけ重さを取り戻す。
フィオさんの光が、ほんのわずかに濃くなった。
「息が……少し、しやすいです」
「よかった」
セラさんの声も震えていた。
怖いはずだ。
それでも、水を注ぐ手は乱れない。
ぼくは二つ目の杭跡に布を当てた。
銅線が足りない。
代わりに、落ちていた乾いた蔓を使う。フィオさんが示してくれた蔓だ。強く締めず、布を押さえるだけにする。
その時、素材狩りの一人がヴェルの鎖を避け、横から大樹へ迫った。
斧が振り上がる。
ヴェルの鎖は別の斧を押さえている。
間に合わない。
フィオさんが、苦しそうに目を開けた。
「少しだけなら……根っこも、働きたいのです」
「フィオさん、無理しないでください!」
セラさんが叫ぶ。
細い蔓が、地面から伸びた。
敵の足を止めるほどの力はない。
ただ、足首に触れて、歩幅を半分だけずらす。
それだけだった。
けれど、斧の刃筋が変わる。
ぼくはとっさに、さっき組んだ支柱を足で押し込んだ。
落ち枝と石で作った、粗い支柱。
斧は幹ではなく、その支柱に当たった。
ばきん、と枝が折れる。
支柱は壊れた。
でも、幹は無事だった。
「壊れたぞ!」
素材狩りが笑う。
「壊れていいものを先に置いたんです」
ぼくは折れた支柱を見ながら言った。
声は震えていた。
でも、言えた。
ヴェルがこちらをちらりと見る。
「おじさん、それを自分にもやろうとしてないでしょうね」
「やりません」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんじゃだめ!」
ヴェルの鎖が、怒ったように黒く伸びた。
敵の杭袋を絡め取り、森の奥ではなく、こちらから遠い茂みへ放り投げる。
黒い杭が草の上に散らばった。
小柄な魔物が慌てて拾いに行こうとするが、入口灯の魔石片に触れてまた光が走る。
「またそれか!」
「光るだけです」
「それが腹立つんだよ!」
先頭の魔族が歯を剥いた。
だが、焦っている。
彼らは強い。
斧も鋸も、まともに受ければこちらが負ける。
けれど、彼らの目的は戦うことではない。杭を打ち、魔力を抜き、大樹を切ることだ。
そこを邪魔され続けると、手順が崩れる。
ぼくたちは勝っているわけではない。
ただ、相手の仕事を止めている。
ぼくは最後の杭跡に布を当て、低級魔石を噛ませた。
銅線の端をねじる。
指先が痛い。
でも、締めすぎない。
魔力の流れが、少しずつ落ち着いていく。
冷たい風のような漏れが、細く、弱くなる。
大樹の幹に、淡い光が戻った。
フィオさんの輪郭が、少しだけ濃くなる。
森の奥で、鳥が一声鳴いた。
たったそれだけの音なのに、空気が変わった気がした。
「……抜けにくくなってる」
小柄な魔物が、黒い杭を持ったままつぶやいた。
「さっきの穴が使えねえ」
「新しく打て」
「打つ前にあの鎖が来る!」
素材狩りたちの足並みが乱れる。
先頭の魔族は、ぼくと大樹を交互に見た。
「今日は引く」
「逃げるの?」
ヴェルが挑発する。
男は鼻で笑った。
「木は逃げねえ。人間の小屋もな。次は道具を増やして来る」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
小屋。
彼らは、そこにも目を向けた。
ヴェルが追おうと一歩踏み出す。
「待って」
ぼくは止めた。
「今は追わない」
「でも」
「大樹を持たせる方が先」
ヴェルは歯を食いしばった。
それでも、踏み出した足を戻す。
素材狩りたちは、散らばった杭をいくつか拾い、森の奥へ退いていった。
音が遠ざかる。
完全に消えるまで、誰も動かなかった。
やがて、セラさんが小さく息を吐いた。
「……助かった、のでしょうか」
「一時的には」
ぼくは大樹の根元を見た。
杭跡の漏れは弱まっている。
根元の土も、少しだけ落ち着いている。
でも、これは応急処置だ。
ちゃんと直ったわけではない。
「切られなかっただけではありません」
フィオさんの声がした。
彼女は幹に手を添え、ゆっくりとぼくを見る。
「直して、くださったのですね」
「まだ応急処置です。ちゃんと直すには、時間が必要です」
「はい。でも、今は息ができます」
フィオさんは、静かに微笑んだ。
「木材ではなく、生きているものとして見てくださった」
ぼくは何も言えなかった。
ただ、工具箱を閉じる。
手は泥と樹液と汗で汚れていた。
でも、少しだけ、いい汚れ方だと思った。
「お礼を、したいです」
フィオさんが言った。
「今は無理しないでください」
「無理ではありません。お礼です」
その言い方が、あまりにも穏やかだったので、ヴェルが目を細めた。
「その違い、ちゃんと分かってる?」
「たぶん」
「たぶんって言った」
フィオさんは小さく笑い、幹に手を当てた。
大きな力ではない。
ただ、細い根が土の下でゆっくり動く気配がした。
小屋の方角へ、ほんの少しだけ。
「土を、少しやわらかくできます。水の通り道も、少しだけ」
「フィオさん」
「泊まる場所には、水と土が必要ですから」
小屋の方角の地面が、かすかに息をしたように柔らかくなった。
ぼくは森の向こうを見た。
あの古い小屋の周りに、いつか畑ができるかもしれない。
そんなことを思って、すぐに首を振る。
まずは目の前の木を、ちゃんと直すところからだ。




