第2話:壊れた檻の中の二人
境界道の夜は、町の夜よりずっと静かだった。
静かすぎる、と言った方がいいかもしれない。
街道の片側には、人間の領地へ続く細い道。もう片側には、魔物領へ続く黒い森。木々の枝が月明かりを細かく裂いて、地面にまだらな影を落としている。
ぼくは革のエプロンの胸元を押さえ、工具箱を肩にかけ直した。
持ってきたものは多くない。予備の魔石片が三つ。銅線が少し。刻印針。小さなヤスリ。簡易の補修札。どれもきちんとした工房で使うなら心もとない道具ばかりだ。
けれど、手ぶらよりはいい。
少なくとも、壊れたものを見つけた時に、何もできずに立ち尽くすよりはずっといい。
「……ここか」
道端に、見覚えのある金具が落ちていた。
さっき拾ったものと同じ、ボルドの盾についていた留め具だ。片方だけじゃない。少し先にも、曲がった金具が転がっている。無理に盾を構えた時、まとめて外れたのだろう。
ぼくはしゃがみ込んで、草の倒れ方を見る。
重いものが一度、横から押し込まれている。たぶん盾だ。そこで受け止めきれずに、後ろへ倒れた。土に残った踵の跡が深い。
「留め具が外れたんだ……」
ちゃんと締め直しておけば、受けられたかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。
少し先には、焦げた草が円を描くように散っていた。ミナの爆発魔法だ。けれど、焦げ跡が広すぎる。狙って撃ったというより、驚いて杖を振ったのだろう。爆風は強いが、中心がずれている。
さらに奥の木の幹には、浅い斬り跡が二本。
ロイの剣だ。力任せに振った跡なのに、食い込みが甘い。刃こぼれのせいで、途中で引っかかったに違いない。
戦いの跡というより、ひどく雑に使われて傷んだ道具たちの悲鳴を見ている気がした。
「だから、研ぎ直した方がいいって……」
言っても、もう遅い。
追放された腹立たしさより、その遅さの方が痛かった。
『シュウ。近くに人の気配があります』
頭の中に、マーサの声が響く。いつもの調子より少しだけ固い。
『それと、かなり嫌な気配も。これは、ええと、女神的に言うなら、とても天罰向きの気配です』
「天罰は後で。まず場所を」
『あちらです。道から少し外れた場所に灯りがあります』
ぼくはうなずき、森の中へ入った。
足元に注意しながら進む。枯れ枝を踏まないように、土の柔らかいところを選ぶ。冒険者としては鈍いぼくでも、工房で床に落ちた小さな部品を探すことは慣れている。
目立つものより、小さな違和感を見る。
草の折れ方。土の盛り上がり。木の幹に結ばれた細い糸。
ぼくは足を止めた。
「鳴子罠か」
目の高さより少し下に、黒く塗った細い糸が張られている。夜の森ではまず見えない。糸の先は、木の裏に吊るされた小さな鉄片につながっていた。
あれを鳴らせば、見張りに気づかれる。
その手前には、土に半分埋められた魔法杭。踏めば足元に絡みつく仕掛けだろう。さらに奥には、乾いた袋が枝に引っかけられている。たぶん眠り粉だ。
「冒険者を捕まえるための罠だね」
『人を商品にする者の発想です。やはり天罰では?』
「だから後で」
ぼくは工具箱を開き、小さな魔石片と銅線を取り出した。
きちんと作るなら、魔石を磨いて、銅線の癖を取り、刻印台で回路を刻む。けれど、今はそんな時間はない。
小石に銅線を巻きつけ、刻印針の先で簡単な魔力の通り道を削る。指先に少しだけ魔力を流すと、銅線がちり、と震えた。
「数回使ったら壊れるな」
『よいのですか?』
「今夜だけ動けばいい」
ぼくは即席の探知具を地面に近づけた。
魔力の流れがある場所で、銅線がかすかに震える。魔法杭の位置がわかる。ぼくはその周りを避けて、罠の隙間を抜けた。
次に、古い釘と魔石片を組み合わせる。
釘の頭に小さな回路を刻み、銅線で魔石片を縛る。これも出来は悪い。店に並べるどころか、人に見せるのも恥ずかしいくらいだ。
でも、音くらいは鳴る。
ぼくはそれを反対側の茂みに投げ込んだ。
少し遅れて、かこん、と乾いた音が鳴る。
「なんだ?」
男の声がした。
見張りの一人が、馬車のそばから離れる。
その隙に、ぼくは荷馬車の陰へ滑り込んだ。
馬車は二台あった。
一台は荷物用。もう一台は檻を積んだものだ。鉄格子のついた檻が三つ、粗い布で隠されている。けれど、中から人の息遣いが聞こえた。
最初に見えたのは、ロイだった。
手足を縛られ、猿ぐつわを噛まされている。顔には土がつき、いつもの生意気な目つきは消えていた。ぼくを見つけた瞬間、目だけが大きく開く。
声を出そうとして、出せない。
その目は、ぼくを足手まといと笑った昼間の傲慢さではなく、ただの怯えた子供のものだった。
ボルドは隣で転がされていた。盾はない。あれだけ自慢していた大盾がなければ、彼はただ大柄な若者だ。ミナは魔力封じの縄で両手を縛られ、杖も取り上げられている。リリィは震えながら、他の三人を見ていた。
生きていた。
そのことに、まず息が抜けた。
見返してやろうとか、謝らせようとか、そんな気持ちは浮かばなかった。ただ、生きていてよかったと思った。
「おや。今の音は何でしょうね」
柔らかい声がした。
荷馬車の向こう側から、細身の男が現れる。年は四十前後だろうか。整えた髪に、汚れのない上着。こんな森の中には似合わないほど身なりがいい。
奴隷商人だ。
たぶん、あれがダリオ・ガルドン。
「グレッグ。見てきなさい。商品に傷をつける者なら、手足だけ折っておけば結構です」
「へいへい。人使いが荒いねえ」
返事をしたのは、太い首の男だった。肩幅が広く、腰の剣も大きい。護衛というより、荒事専門の用心棒だ。
グレッグ。
あれとまともに戦えば、ぼくでは一呼吸も持たない。
「若い冒険者は売り先が多い。魔法使いと回復役は特に高くつきます。境界道で消えた者は、探す側も人間領と魔物領で押しつけ合う。実に都合がよい」
ダリオが、商品目録でも読むように言った。
胸の奥が冷たくなる。
人間も魔物も、この人にとっては壊れた道具以下なのだろう。道具なら、まだ手入れすれば長く使えると考える。けれどこの男は、使い捨てることしか考えていない。
「ただし、奥の二人は別です。あれは普通の市場に出す品ではない。特級品ですからね」
その時、奥の檻から小さな声が聞こえた。
「大丈夫です。息はできていますから。だから、そんなに暴れないでくださいね」
やわらかい声だった。
こんな場所に似合わない、湯気の立つお茶みたいな声。
ぼくは檻の奥を見た。
そこに、二人の少女がいた。
一人は、白金色の髪をした女性だった。服は汚れ、頬にも土がついている。それでも、背筋の伸ばし方や指先の置き方に、粗末な檻では隠せない品があった。
首には、鉄の首枷。
けれど、ただの首枷ではない。内側に細い回路が見える。魔力を奪うだけじゃない。外から入る魔力まで遮っている。
もう一人は、小柄な黒髪の少女だった。
赤い瞳で、檻の外をにらんでいる。怖がっていないわけじゃない。手が少し震えている。それでも、顎を上げて、隣の女性を守るように前に出ていた。
両手首には、拘束用の腕輪と鎖。
鎖は太い。けれど、変だ。拘束具としては重すぎるのに、内側の魔力回路は妙に精密だった。魔力を封じるためだけなら、こんな作りにはしない。
これは、ただ縛るための道具じゃない。
何かを閉じ込めている。
「はっ。こんな鎖、あたしが本気を出せばすぐに千切れるし。……今は、ちょっと調子が悪いだけ」
黒髪の少女が強がるように言った。
「はい。そうですね。ですから、今は少しだけ休みましょう」
「休んでないし。作戦を考えてるだけだし」
二人のやり取りに、場違いにも少しだけ息が緩みそうになる。
その瞬間、黒髪の少女の赤い目がこちらを向いた。
「誰」
低い声。
ぼくは檻の影から、そっと片手を上げた。
「騒がないで。助けに来た」
「おじさん一人で?」
即答だった。
「無理に決まってるじゃん。見ればわかるでしょ。剣も持ってないし、腰も引けてるし」
「うん。正しい」
「認めるんだ」
黒髪の少女が少しだけ目を丸くする。
白金色の女性は、ぼくの方を心配そうに見た。
「あなたも、捕まってしまったのですか?」
「いや。まだ捕まってはいない。できれば、そのまま捕まらずに帰りたい」
「では、逃げてください。わたしたちのことは」
「それはできない」
ぼくは檻の錠前に指をかけた。
古い型だが、外側に魔力封じが追加されている。無理に壊せば大きな音が鳴る。錠前そのものを外すには時間が足りない。
「助けられる、とはまだ言えない。ただ、直せそうなところはある」
「檻を直してどうすんのよ」
「壊し方がわかる」
黒髪の少女が黙った。
ぼくは工具箱から刻印針を取り出し、まず白金色の女性の首枷を見た。
「触っても?」
「え……はい」
「変な意味じゃない。道具を見るだけだから」
「そこは疑っていません」
柔らかく微笑まれて、少しだけ顔が熱くなる。
「おじさん、今照れた?」
「照れてない。作業中だから黙って」
黒髪の少女が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ぼくは首枷の内側に刻まれた回路をなぞる。
ひどい作りだ。
いや、道具としては精巧だ。だからこそ、ひどい。魔力を奪い、外からの魔力を遮り、本人の中にある何かを眠らせるように組まれている。
人を縛るために、ここまで丁寧に作られた道具。
そのことが、ひどく腹立たしかった。
「これは、壊すより流れを変えた方が早い」
『シュウ。その首枷、普通ではありません』
マーサの声が低くなる。
『とても古い封印の気配があります。気をつけてください』
「わかった」
ぼくは小さな銅線を切り、首枷の継ぎ目に巻きつけた。魔石片を爪ほどに削り、刻印針で細い線を入れる。
雑な仕事だ。
普段なら絶対に人に渡さない。
けれど、この首枷は魔力を奪う形に偏りすぎている。そこに、ほんの少しだけ外の魔力を集める道を作る。奪うだけの輪を、集めて巡らせる輪に変える。
かちり、と小さな音がした。
白金色の女性が息を吸う。
「あ……」
彼女の指先から、淡い光がこぼれた。
檻の隅で膝をすりむいていたリリィの傷が、少しだけ塞がる。
「今の、わたしが……?」
女性は自分の手を見つめ、それからリリィを見た。
「痛みは、少し楽になりましたか?」
自分の力より先に、相手の痛みを気にする。
その反応だけで、この人がどういう人なのか少しわかった気がした。
「名前は?」
「セラフィナ、です。セラと呼んでください」
「セラさん。今はその首枷を外せない。けど、少しは息がしやすくなるはずだ」
「はい。ありがとうございます」
セラは両手で首元を押さえた。
まだ奴隷の首枷だ。それなのに、彼女はまるで大切なものに触れるように、そっと指を添えた。
「次、そっち」
ぼくは黒髪の少女の腕輪を見る。
「名前は?」
「……ヴェル」
「ヴェル。腕を見せて」
「命令しないで。あたし、奴隷じゃないし」
「うん。だからお願いしてる」
ヴェルは一瞬だけ言葉に詰まったあと、むっとした顔で腕を差し出した。
腕輪の内側を見て、ぼくは眉をひそめる。
これも、ただの拘束具じゃない。鎖に魔力を通す回路がある。けれど、今はその流れを逆向きにされている。動かすための鎖を、縛るために使っている。
「もったいないな」
「は?」
「いや。この鎖、悪い道具じゃない。使い方がひどいだけだ」
「……鎖を褒める人、初めて見た」
ぼくは銅線を短く切り、腕輪と鎖の継ぎ目に巻いた。
ヴェルの魔力は細い。封じられているせいだろう。けれど、奥にあるものは強い。少し触れただけで、指先がぴりっと痺れる。
「痛かったら言って」
「痛くないし。こんなの、全然」
顔は少し青い。
ぼくはできるだけゆっくり回路を組み替えた。
閉じ込める輪を、外へ伸びる輪にする。鎖が持つ重さを、ただの重さではなく、動くための芯に変える。
じゃら、と鎖が小さく鳴った。
ヴェルの赤い目が見開かれる。
鎖の先が、影のように一瞬だけ伸びた。
檻の外に吊られていた鍵束が、かすかに揺れる。
「今の……」
「君が動かした」
「ふ、ふん。当然だし。あたしが本気を出せば、これくらい」
声は震えていた。
けれど、その目に少しだけ光が戻っている。
その時、茂みの向こうで、かこん、ともう一度音がした。
ぼくの囮具が、最後の音を立てて壊れたのだ。
「おい」
太い声が近づいてくる。
グレッグだ。
「さっきから妙な音がしてると思ったら……誰かいるな?」
檻の中の空気が凍る。
ロイが目を見開き、ぼくを見る。助けを求めたいのに、猿ぐつわで声が出せない。その顔には、昼間の余裕はもうなかった。
ダリオの声もした。
「奥の商品に触れないように。特に白い髪の女と、黒髪の魔物は高値がつきます。あれは特級品です」
ヴェルの肩がぴくりと震えた。
「魔物じゃない」
小さな声だった。
強がりきれない、傷ついた声。
ぼくは工具箱の底から、小さな石を取り出した。さっき罠を抜ける前に、雑に削っておいた魔石片だ。そこに銅線を巻き、閃光用の回路を刻む。
怖い。
グレッグがこちらへ来る足音が近づくたび、指先が少し震える。
それでも、手は止めない。止めたら、この二人も、ロイたちも、ただの商品として運ばれてしまう。
「それ、ただ光るだけ?」
ヴェルが小声で言った。
「そのつもりだけど」
「魔物相手には甘い。光だけじゃなくて、魔力の流れをぐちゃっと揺らして。目だけじゃなくて、感覚も一瞬ずらすの」
「できるの?」
「知らない。でも、たぶんそういうのが嫌」
感覚で言っている。
けれど、悪くない。
ぼくは刻印針で回路を一本足した。光を広げる線ではなく、魔力を短く散らす線。人間の目にも、魔物の感覚にも、一瞬だけ刺さるように。
品質はひどい。
たぶん一度光れば砕ける。
それでも、今ここで必要なだけの働きはする。
「セラさん、ヴェル。目を閉じて。合図したら、ぼくの後ろじゃなくて、横に来て」
「横、ですか?」
「守られるだけじゃないってこと。たぶん、二人の力も必要になる」
セラが、不安そうにしながらも静かにうなずいた。
ヴェルは鎖の巻きついた細い腕を持ち上げる。
「ふん。おじさんのくせに、ちょっとだけ格好つけるじゃん」
檻の前で、グレッグが剣を抜いた。
刃が月明かりを鈍く返す。大きい。重い。まともに受ければ、ぼくの工具箱ごと胴まで割られるだろう。
だから、まともに受けるつもりなんてない。
「何をしてやがる」
ぼくは息を吸い、手の中の石に魔力を流した。
壊れかけの道具でも、使いどころを間違えなければ、人を助けることはできる。
そう信じて、ぼくは閃光玉を投げた。




