第1話:ただの修理屋だったはずなのに
おじさんのスローライフをお楽しみください。
工房の作業台の上で、銀色の小さな魔石がちかちかと瞬いていた。
ぼくは片目を細めて、魔石の周りに刻まれた細い魔力回路を覗き込む。昨夜、広場の酔っ払いがひっかけて倒した照明用の結界灯だ。
鏡を見るたびに思うが、ぼくはもう若い勇者という年ではない。痩せた頬に、少し白いものが混じった髪。革の作業エプロンと工具ベルトの方が、剣やマントよりずっと似合う四十男だ。
「うん。芯は折れてない。回路が少し歪んだだけだね。これなら昼までには直るよ」
「シュウ様、無理はしないでくださいね。朝食も、まだ半分しか召し上がっていませんし」
右隣から、やわらかい声がした。セラは湯気の立つカップを作業台に置き、当然の権利のようにぼくの右腕を抱き込んだ。
豊かな胸が、腕にむにゅっと押し当たる。
本人は純粋に心配しているだけなのが、余計に困る。ぼくは女性に慣れていない。四十にもなって情けないが、慣れていないものは慣れていない。
かちん、と工具の先が魔石の縁に当たった。
「あら。シュウ様、お顔が赤いですよ?」
「え、いや、これはその、結界灯の反射で」
「ふーん。結界灯って、おじさんの耳まで赤くするんだ?」
左から、ヴェルがにやにやと覗き込んでくる。
「ち、違う。これは魔力回路の熱で」
自分でも苦しい言い訳だと思う。だが、目の前には修理中の結界灯がある。魔力回路は髪の毛より細い。少し手元が狂えば、また最初から刻み直しだ。
「熱いですから、ゆっくり飲んでくださいね」
「セラ、ちょ、ちょっと離れて。魔力回路が、その、曲がる」
「まあ。支えているつもりだったのですが」
「……別に、あたしは構ってほしいわけじゃないし」
左隣から、急にぶっきらぼうな声が割り込んできた。
ヴェルがぷいと横を向いたかと思えば、次の瞬間、ぼくの左腕がぎゅっと抱え込まれる。細い腕に巻いた黒い鎖の腕輪が、こつんと工具に当たった。
セラほどの圧はない。ないのだが、ヴェルはヴェルで、顔を真っ赤にしながらこれ見よがしに身体を寄せていた。
勘弁してくれ。おじさんは、左右から女の子に腕を抱えられながら精密作業をする訓練なんて受けていない。
「ほんと、修理ばっかり。……あたしが暇そうにしてるからって、変な勘違いしないでよね」
「してない。してないから、両腕を封じるのをやめて。何も直せない。おじさん、困っちゃうよ。ほんとに」
「近くありません。わたしは支えているだけです」と、セラがさらに腕の圧を強める。
「あたしだって、左腕が寂しそうだから埋めてあげただけだし!」
どうして修理中のぼくを挟んで張り合うのか。そこは何度考えてもよくわからない。
その時、工房の扉が勝手にきい、と開いた。
外から顔を出したのは、畑担当のアルラウネのフィオ、竜族のガルバ、それに大きな身体を縮めるようにして入ってきた巨人族のタタモだった。三人とも、それぞれ壊れた鍬、歪んだ大盾、ひびの入った巨大な木桶を抱えている。
「シュウさん、畑の魔導鍬がまた硬い根っこに負けました」
「おじさん、この盾の魔力装甲の調整を頼む。人間街側の商人たちとの商談が、今日の昼にあるんだ。舐められたくない」
「シュウ、ごめん……水汲み用の大きな桶、また底にひびが入っちゃった」
「ちょっと、みんなして一気に押し寄せないでよ。おじさん今、手が離せないんだから」
ヴェルがむっとした瞬間、棚の上の木箱がことんと揺れた。
工房の奥、壁際の柱の陰に、白く透けた少女の輪郭が一瞬だけ見える。小屋の精だ。怒っているのか、恥ずかしがっているのか、彼女はすぐに壁の中へ隠れてしまった。
『……シュウ。これは、その、女神であるわれの見解ですが』
頭の中に、妙に威厳を作った声が響いた。
『女性に囲まれすぎではありませんか? いえ、わたしは別に嫉妬などしていませんけれど。女神として、職場環境の偏りを心配しているだけです』
「マーサ、心配するところはそこじゃないと思う」
ぼくはため息をつきながら、窓の外を見た。
石畳の道を、人間の商人と角の生えた魔物の子どもが並んで歩いている。向こうでは、元冒険者の男が魔族の職人に荷車の車輪を見せていた。
この窓から見える景色が、今のぼくの日常だ。
ぼくは、ただの修理屋だったはずなんだけどな。
壊れた道具を直して、困っている人に渡す。それくらいのことしか、できないと思っていた。
まさか、人間と魔物の境界に街を作ることになるなんて。
始まりは、あの日の追放だった。
あの日のぼくは、まだ境界の森に古い小屋があることも、白い髪の女性と黒髪の魔物娘に両側から腕を取られる未来が来ることも知らなかった。
知っていたのは、目の前の剣の刃こぼれと、盾の留め具の緩みと、そろそろ替え時になっている野営結界具の魔石の色くらいだった。
「シュウ。おまえ、今日でこのパーティを抜けろ」
依頼帰りのギルド前で、ロイがそう言った。
若くて顔立ちの整った剣士だ。腰の剣はよく磨かれているが、右側の刃に細かい欠けがある。昨日の森狼との戦闘で、岩にぶつけたところだろう。研ぎ直しておかないと、次に斬った時に変な引っかかり方をする。
「抜けろって、急に?」
「急じゃねえよ。前から思ってたんだよ。戦えないおっさんはいらねえってな」
ロイの後ろで、魔法使いのミナが腕を組んで鼻で笑った。
「魔法道具なんて金がかかるだけでしょ。修理だ調整だって、いちいち時間も取るし。あなたがいつも『回路の調整が終わるまで待って』なんて言うから、依頼の回転が落ちるのよ」
ミナが苛立ったように杖を鳴らした。
「私の爆発魔法があれば、結界具なんてなくても敵に近づかれる前に一撃よ。火力が足りていれば、罠だって魔物だって問題ないでしょ。私たち、もっと上を目指すことにしたの」
「荷物持ちなら町で修理屋でもやってろよ」
大柄な盾役のボルドが、どん、と自分の盾を地面に置いた。留め具が鈍い音を立てる。やっぱり緩んでいる。あれは早めに直した方がいい。
回復役のリリィだけは、気まずそうに視線を落としていた。けれど、何も言わない。
「待って。ロイ、その剣、刃が欠けてる。ボルドの盾も留め具が甘い。野営結界具も魔石の色が薄くなってるから、今夜使うなら予備に替えた方が」
「ほら、それだよ」
ロイが大げさに肩をすくめた。
「そういうとこが地味なんだよ。俺たちはもっと派手に稼ぐ。もっと強い敵を倒す。なのにおまえは、刃こぼれだの留め具だの、結界具だのって」
ロイは腰の剣を軽く叩いた。
「罠なんて見つけたら斬ればいい。魔物が出たら倒せばいい。いちいち道具の点検で足を止めてるから、俺たちは上に行けねえんだ」
「いや、でもそこを放っておくと、いざという時に」
「いざという時に必要なのは火力と腕っぷしだ。おまえの細工じゃねえ」
「結界具? そんなもんに頼るより、俺たちが強くなればいいだろ」
周囲の冒険者たちがちらちらとこちらを見る。ギルドの入口でこんな話をしていれば、目立つに決まっている。
ぼくは怒鳴り返せなかった。腹が立たなかったわけじゃない。胸の奥が、工具でこじられたみたいに軋んでいた。
けれど、どうしても先に出てくるのは心配の方だった。
怒ればいいのに、ぼくはまず、彼らの剣の手入れと、盾の留め具と、夜の森の冷え込みを考えてしまった。
「せめて、今日の分の回復薬は確認して。残り二本しかないはずだ」
「うるせえな」
ボルドが舌打ちする。
「おっさんは最後までおっさんだな。心配性の母ちゃんかよ」
『聞き捨てなりませんね』
頭の中で、凛とした声が響いた。
『われの加護を受けた者を愚弄するとは。これは女神として、天罰の一つや二つを検討すべき案件ではありませんか。いえ、わたし、地上に直接手は出せないのですけれど』
マーサだ。
ぼくをこの世界へ転移させ、魔法道具作成の力をくれた女神。黙っていれば神々しいのに、だいたい大事なところで抜けている。
「マーサ、今は火に油を注がないで」
『油ではありません。女神の怒りです。似たようなものですが』
似たようなものなら、やめてほしい。
ぼくは小さく息を吐き、ロイたちに向き直った。
「わかった。抜けるよ」
「最初からそう言えばいいんだよ」
ロイが笑った。
「俺たちは銀鹿の牙だ。これからもっと上に行く。おっさんの面倒を見る余裕はねえ」
ぼくはパーティ共有の荷物から、自分の工具箱だけを取り出した。使い込んだ革の持ち手。角が擦れた木箱。中には、小さなヤスリ、刻印針、魔力を通しやすい銅線、予備の魔石片が入っている。
他の野営道具や、修理済みの小型結界具は置いていく。共有品だからだ。
「最後に一つだけ。今夜、森を抜けるなら結界具は使わない方がいい。魔石が弱ってる。あと、ボルドの盾は本当に」
「しつこい!」
ロイが手を払った。
「もうおまえは関係ねえだろ。町で修理屋でもやってろ」
ぼくはそれ以上言わなかった。
ギルド前の石畳を歩き出す。背中の方で、ミナの笑い声が聞こえた。ボルドの大きな声も。リリィの声だけは、最後まで聞こえなかった。
「まあ、修理屋でもやるかな」
自分に言い聞かせるように呟いた。
『シュウ、本当にそれでよいのですか? もっとこう、女神の加護を受けし者として、堂々と反論しても』
「反論しても、刃こぼれは直らないから」
『そういうところです。そういうところが、わたしはよいと思いますけれど』
慰めてくれているのだろう。たぶん。
その夜、ぼくはギルド裏の古い作業場を借りた。
冒険者向けの安い宿に泊まるほどの気分でもなかったし、工具箱を開いている方が落ち着いた。作業台に小さな布を広げ、道具を一本ずつ並べる。ヤスリの目、刻印針の先、銅線の巻き癖。見慣れたものを確かめていると、胸のざわつきが少しだけ静かになる。
怒りより先に、手が道具を並べていた。
追放された。
言葉にすると、思ったより重かった。
ぼくは戦闘で派手に活躍できるわけじゃない。剣も魔法も、若い冒険者たちには及ばない。だからロイたちが言ったことにも、まったく理がないわけではないのだろう。
それでも。
剣が折れないように。盾が外れないように。夜の森で結界が消えないように。そういう小さなところを整えるのも、パーティには必要だと思っていた。
『シュウ。元気を出してください。あなたには、わたしが授けた素晴らしい技能があります。魔法道具を作れるのです。つまり、最悪の場合、国を一つ滅ぼすような兵器を作ってあの者たちを見返すことも』
「マーサ」
『はい』
「励ましの方向が物騒すぎる」
『……では、あたたかいお茶を作る道具などはどうでしょう』
「それならいい」
ぼくは苦笑して、手元の小さな銅線を丸めた。
その時、作業場の外が少し騒がしくなった。
「銀鹿の牙、戻ってねえのか?」
「夕方には帰るって言ってたよな」
「境界道の方で、怪しい馬車を見たって商人が言ってたぞ。檻を積んでたとか」
手が止まる。
銀鹿の牙が戻っていない。境界道。檻を積んだ馬車。
バラバラだった情報が、噛み合いの悪い歯車みたいに、嫌な形で頭の中に組み上がっていく。
ぼくは椅子を蹴るように立ち上がり、作業場の扉を勢いよく開けた。
表では、ギルド職員の青年と、顔見知りの荷運び商人が深刻な顔で話し込んでいた。
「すみません! 銀鹿の牙が戻ってないって、本当ですか!?」
「うお、びっくりした……ああ、シュウさん。あんた、もう抜けたんだろ? 気にしなくても」
「いいから教えてください。どこで見たんですか、その馬車を」
商人が眉をひそめた。
「境界道の古い分岐だよ。奴隷商人くさい連中だった。あそこは罠も多いし、野営結界もまともに張れないと危ない」
野営結界。
ぼくはロイたちの結界具の、あの薄く濁った魔石の色を思い出した。
(――だから言ったんだ。今夜使うなら替えた方がいいって、あれほど!)
心臓の鼓動が、急にドクドクと速くなる。
ボルドの盾の留め具だってそうだ。あのガタつきじゃ、まともな奇襲を受けたら一撃でバラバラになる。火力が足りていれば問題ないなんて、そんなわけがあるか。どうして最後まで、無理にでも替えさせなかったんだ。
あの子たちは、まだ自分が死ぬほどの失敗をしたことがない。失敗した時に、道具も、人も、二度と戻らないことがあると知らない。
追放された相手だ。放っておけばいい。そう考えるのが普通だし、頭では分かっている。
だけど、あの欠陥だらけの装備で、最悪のタイミングで最悪の敵に鉢合わせている彼らの姿が想像できてしまって、じっとしていられなかった。
道具でも、人でも。
『シュウ。本当に行くのですか?』
頭の中のマーサの声が、いつもより鋭い。
「行くよ。……間に合ってくれ」
ぼくは工具箱を引ったくるように閉じ、肩にかけた。予備の魔石片、銅線、刻印針、簡易の補修札。持てるものは多くない。
「見捨てたら――あとで直したくても、直せなくなる気がするんだ」
『……あなたは、本当に修理屋ですね』
「それくらいしか、取り柄がないから」
夜の街道へ出ると、冷たい風が革のエプロンを揺らした。
境界道へ続く分岐の先に、かすかな灯りが見える。馬車のものだ。道端には、見覚えのある盾の留め具が落ちていた。ボルドの盾についていた部品だ。
ぼくはそれを拾い上げ、工具箱の中へ入れた。
この時のぼくは、まだ知らなかった。
壊れた檻の奥に、ぼくの人生を変える二人がいることを。
ひとつは、白い髪の女性を縛る首枷。
もうひとつは、黒髪の魔物娘を縛る腕輪だった。
読んでくださりありがとうざいます。毎日投稿予定です。




