第15話:御神木のドライアード
『……お願い……切らないで……』
大樹の奥から聞こえた声は、風よりも細かった。
ぼくは幹に触れたまま、慌てて首を振る。
「切りません。ぼくたちは、あなたを切りに来たわけじゃありません」
声が止まった。
幹の奥で、弱い魔力が震えている。
怯えている。
そう感じた。
「傷んでいるところを見に来ただけです。小屋の近くの葉が枯れていたので、原因を調べていて」
「誰があんたをこんなにしたの」
ヴェルの声は低かった。
怒っている。
けれど、その怒りは大樹に向けたものではない。
セラさんは両手を胸の前で合わせ、幹に向かってそっと語りかけた。
「大丈夫です。怖がらせたいわけではありません。わたしたちは、あなたを助けたいんです」
木肌に、淡い光が浮かんだ。
最初は、樹皮の隙間に朝日が差し込んだだけかと思った。
けれど光は少しずつ集まり、幹の前で人の形を取り始める。
緑と淡い金が混ざった長い髪。
木漏れ日のような瞳。
肌はほんのり透けていて、肩や腕には葉と蔓の意匠が浮かんでいる。胸元から腰にかけては、柔らかな若葉を重ねたような衣が揺れていた。
おっとりした雰囲気の女性だった。
ただ、その輪郭は薄い。
足元は幹から離れきれず、今にも光へ戻ってしまいそうに揺れている。
「……切らない、のですか?」
彼女が、ゆっくり瞬きをした。
「はい」
「根元からも?」
「切りません」
「枝も?」
「切りません」
「少しだけ、薪にしたりも?」
「しません」
ぼくが答えるたびに、彼女の表情が少しずつほぐれていく。
最後には、ほう、と息をつくように笑った。
「それは、よかったです。では……少し寝てもよろしいでしょうか」
「寝るな。説明しなさい」
ヴェルが即座に突っ込んだ。
ぼくも少し驚いた。
さっきまで切られそうで怯えていた相手とは思えないほど、声がのんびりしている。
「あら。そうですね。寝てしまうと、たぶん夕方まで起きませんものね」
「夕方で済むの?」
「もしかすると、雨の日まで」
「幅が広すぎる」
ヴェルが額を押さえる。
セラさんは心配そうに一歩前へ出た。
「お体は大丈夫ですか?」
「体……ええと、この姿のことでしょうか。それとも、本体のことでしょうか」
「両方です」
「どちらも、あまり大丈夫ではありません」
彼女は穏やかに言った。
まるで、朝食の量が少し足りなかった、くらいの口調で。
「わたしはフィオレーネです。森のみんなからは、フィオと呼ばれています」
「フィオレーネさん」
「はい。あなたは、やさしい水の匂いがします」
フィオさんはセラさんを見て、ふわりと微笑んだ。
セラさんが少し驚いた顔をする。
「水、ですか?」
「はい。乾いた根に染みる、やさしい水です」
それからフィオさんは、ヴェルへ視線を移した。
「あなたは……夜の根っこのような匂いがします」
「それ、褒めてるの?」
「落ち着く匂いです」
「なら、まあ……いいけど」
ヴェルは微妙な顔で腕を組んだ。
最後に、フィオさんの視線がぼくへ向く。
「あなたは、土に刺さった古い釘を抜いてくれる人の匂いがします」
「それは、褒め言葉ですかね」
「とても」
分かるような、分からないような。
けれど悪意がないことだけは伝わってくる。
「フィオさん。この大樹が、あなたの本体なんですか」
「はい」
フィオさんは幹に手を添えた。
「この木は、わたしです。わたしは、この森の長……と呼ばれることもあります。でも、偉いわけではありません。森のみんなが迷子にならないように、根っこで手をつないでいるだけです」
森の長。
御神木の精霊。
ガルスさんが言っていた境界の森の異変は、この木に関わっていたのだ。
「根は、土と水と魔力の流れを整えています。森の子たちが乾きすぎないように。小さな獣が道を失わないように。境界の道が、少しでも崩れにくいように」
「境界道まで?」
「はい。あの道は、人間の方も、魔物の方も、通りますから」
フィオさんは微笑んだ。
「どちらの道でもありません。だから、どちらの足も沈みすぎないようにしていました」
ぼくは大樹を見上げた。
ただ大きな木ではない。
この木は、境界の土地を支える柱のようなものだ。
倒れれば、森だけでなく、小屋の周りにも影響が出る。
小屋の扉や柱が落ち着かなかった理由も、たぶんそこにある。
「それで、誰がこんなことを?」
ヴェルが幹の杭跡を睨む。
フィオさんは困ったように首をかしげた。
「黒い杭を持った方たちです。森のみんなは、怖がっていました。わたしの根に杭を打って、魔力を抜いて、枝を選んでいました」
「選んで?」
「はい。よく乾いたところは薬に。魔力が多いところは杖に。幹は、軍の道具に使えると話していました」
ヴェルの顔が険しくなる。
「やっぱり素材狩りじゃない」
「皆さんにも事情がありますから」
フィオさんが、のんびり言った。
ヴェルが目を剥く。
「そういう話じゃないでしょ。あんた、切られかけてるのよ」
「はい。とても困っています」
「困ってる顔じゃない」
「顔に出すのが、少し遅いのかもしれません」
フィオさんは真面目に答えた。
セラさんが思わず小さく笑いかけ、すぐに心配そうな顔に戻る。
たしかに、のんびりしている。
けれど、弱っているのも本当だ。
姿の輪郭は薄く、話しているだけで、幹の光が少しずつ弱まっている。
「フィオさん。少し見せてもらってもいいですか」
「はい。切らないのでしたら」
「切りません」
ぼくは大樹の周囲を歩いた。
根元に残る杭跡。
黒く変色した幹。
魔力が抜けて乾いた土。
傷は深い。けれど、一気に切り倒すための傷ではない。先に魔力を抜いて、木としての力を弱めている。そこへ刃物を入れれば、普通に切るよりずっと楽に倒せる。
ひどいやり方だ。
ただ壊すのではなく、壊れやすくしてから持っていく。
「どうですか、シュウ様」
セラさんが不安そうに聞く。
「すぐ完全に直すのは無理です」
フィオさんの瞳が少し伏せられる。
ぼくは続けた。
「でも、持たせることはできるかもしれません」
「持たせる?」
「魔力が漏れているところを抑える。根元を支える。杭跡を塞ぐ。入口灯に使った仕組みを応用すれば、近づいてくる異物に反応する簡単な灯りも作れると思います」
ぼくは幹に手を当てた。
「倒すか守るか、ではなくて。傷んだところを直して、もう少し踏ん張れるようにする」
フィオさんが、ぼくをじっと見つめた。
「わたしを、木材ではなく、木として見てくださるのですね」
「木というか、生きている相手ですよね」
自然にそう答えていた。
フィオさんは、少しだけ目を見開く。
それから、とてもゆっくり微笑んだ。
「はい。わたしは、生きています」
幹から細い蔓が伸びた。
それはぼくの手首にそっと触れる。
弱々しい蔓だった。
指で払えば切れてしまいそうなくらい細い。けれど、どこか温かい。
「戻ってきてくださいますか」
「戻ります」
ぼくはすぐに答えた。
「小屋に材料を取りに行きます。銅線、低級魔石、布、板材、支柱にできる木材、水。あと、入口灯の余り部品も持ってきます」
「おじさん、本当に木を修理するつもりなのね」
ヴェルが呆れたように言う。
「できるかは分からない。でも、何もしないよりはいい」
「そういうところ、ほんと……」
ヴェルは言いかけて、口を閉じた。
その代わり、フィオさんの蔓をじろりと見る。
「あと、木のくせに距離近すぎ」
「ヴェル」
「本当のことでしょ」
セラさんも、なぜか少しそわそわしていた。
「フィオさんは、弱っていらっしゃいますから」
「セラ、それかばってるようで、ちょっと違わない?」
「えっ」
フィオさんは二人のやりとりを不思議そうに見ている。
「距離が近いと、いけないのでしょうか。森では、根はよく絡まりますが」
「絡まるとか言わない」
ヴェルが即座に言った。
ぼくは少し顔が熱くなるのを感じて、慌てて咳払いした。
「と、とにかく、まずは材料を取りに戻ります」
その時だった。
森の外側から、枝を踏む音がした。
ひとつではない。
金具が触れ合う音も混じっている。
ヴェルがすぐに振り向き、腕輪の鎖に手をかけた。
「来る」
セラさんがフィオさんの前に立つ。
大樹の光が、弱く震えた。
遠くから、粗い声が聞こえる。
「今日こそ根元まで抜くぞ。御神木材は高く売れる」
「軍の連中が欲しがってるんだ。枝一本でも残すなよ」
フィオさんの輪郭が薄くなる。
蔓が、ぼくの手首にすがるように触れた。
ぼくは工具箱の取っ手を握り直す。
怖い。
相手は複数いる。武器も持っている。ぼくは戦える人間ではない。
奴隷商人の馬車の陰で、護衛の剣を見上げた時と同じだ。
足はすくむし、喉は乾く。
けれど、この木を見てしまった。
ここに生きている相手がいると、知ってしまった。
戦いに来たんじゃない。
直すための時間を、これ以上壊されないようにするために来た。
「まずは、切らせないところからだ」
ぼくはそう言って、大樹の前に立った。




