第14話:森の木が泣いている
枯れ葉を作業台の上に置くと、朝の光の中でも、その黒ずみははっきり見えた。
葉の端が乾いているだけなら、まだ分かる。
けれど、これは違う。
葉脈の細い筋だけが、内側から焦げたように黒くなっている。葉そのものは乾ききっていないのに、魔力を通していた細い道だけが途中で切れている。
ぼくは指先で葉を押さえ、片目を細めた。
「自然に枯れた感じじゃないな」
「どう見えるの?」
ヴェルが作業台に肘をつき、横から覗き込んでくる。
「道具で言うなら、線が焼き切れたというより、途中から中身を抜かれた感じかな。先に力が通らなくなって、それから弱ったところが乾いている」
「木の葉っぱなのに?」
「木の葉っぱでも、魔力が通る道はあるみたいだ」
「シュウ様」
セラさんが、そっと葉に手を伸ばした。
白い指先が葉に触れた瞬間、セラさんが小さく息をのむ。
「セラさん?」
「痛い、というより……息がしづらそうです」
「無理に触らないでください」
「はい。でも、放っておく方が苦しい気がします」
セラさんは自分の言葉に戸惑っているようだった。
なぜ分かるのか、自分でも分からない。そんな顔だ。
ぼくは葉を布の上に移した。
セラさんに負担をかけたくはない。けれど、彼女が感じ取ったものは、たぶん大事な手がかりだ。
「ただの枯れ葉じゃないなら、小屋の周りを見ておいた方がいいですね」
「行くの?」
ヴェルが眉をひそめる。
「まずは周りだけ。昨日、ガルスさんにも言われたし」
「おじさんの『周りだけ』って、信用できないのよね」
「……気をつけるよ」
「そう言う人ほど奥まで行くの」
その指摘は少し痛い。
でも、見ないままでは分からない。
ぼくは工具箱を開け、必要なものだけを選んだ。細い銅線、釘、小型ナイフ、布、低級魔石、水を入れた小瓶。昨日作った入口灯から外せる小さな魔石片も一つ。
「おじさん、森に修理に行くつもり?」
「見ないと、どこが傷んでいるか分からないから」
「本当に何でも直す目で見るのね」
「直せるかどうかは、まだ分からないよ」
工具箱を閉めると、小屋の扉が、きい、と小さく鳴った。
風はない。
棚も少しだけ震えている。
小屋そのものが落ち着かないようだった。
「小屋も、気にしているのでしょうか」
セラさんが扉を見つめる。
「かもしれません」
ぼくは入口灯を見た。
昼間なのに、灯りの芯が一度だけ淡くまたたいた。
小屋の外へ出る。
朝の森は静かだった。
静かすぎた。
鳥の声が少ない。昨日までなら、木の上で小さな影が動いたり、枝葉の間から羽音がしたりした。けれど今は、森全体が息を潜めているように感じる。
小屋の裏手には、枯れ葉が一枚だけではなかった。
昨日は青かったはずの葉が、数枚、草の上に落ちている。どれも同じように、葉脈の一部が黒く傷んでいた。
「増えてる」
ヴェルが低く言う。
「小屋に近づいてるのかもしれない」
ぼくは近くの木の根元にしゃがみ込んだ。
土が白っぽく乾いている。
雨が降っていないわけではない。小屋の近くには朝露も残っている。なのに、この木の根元だけ、水分が抜けたように軽い。
樹皮に指を当てる。
表面はまだ生きている。けれど内側の弾力が弱い。木材として乾いたのではなく、生きたまま中を薄くされたような感触だ。
「斧で切られたわけじゃないな」
「分かるの?」
「切られた木は、傷口の周りに力が集まる。これは、先に力を抜かれて、それから弱いところが傷んでる」
ぼくは自分で言ってから、妙な気分になった。
木を相手に、道具と同じような見方をしている。
けれど、まったく同じではない。
壊れた道具は痛がらない。
この森は、痛がっている気がする。
「こっち」
ヴェルが森の奥を睨んだ。
「匂いが残ってる。薬みたいな、鉄みたいな……嫌な匂い」
「嫌な匂い?」
「うん。ただの獣じゃない。森から奪うためだけに作った道具の匂い」
ヴェルの表情が険しくなる。
「魔物だからって、森を好きに削っていいわけじゃない」
「ヴェル」
「なによ。あたし、変なこと言った?」
「いや。助かる」
「……ふん」
ヴェルは照れ隠しのように顔をそむけ、そのまま森の中へ歩き出した。
ぼくとセラさんも後に続く。
小屋から少し離れるだけで、空気が変わった。
落ち葉の量が季節に合わない。枝先が乾き、樹皮の薄い部分がめくれている。小さな獣が一匹、ぼくたちを見るなり草むらへ逃げ込んだ。
「怖がっています」
セラさんが胸元に手を当てた。
「ぼくたちを?」
「いいえ。もっと奥の何かを、だと思います」
その言葉に、ヴェルもうなずいた。
「見られてる。でも敵意じゃない。怯えてる感じ」
森の中に、誰かがいる。
人間でも、普通の魔物でもない。
小さな視線が、木の陰や草の奥からこちらを見ているようだった。
ぼくは足元に気をつけながら進み、一本の若い木の前で立ち止まった。
幹の根元に、小さな穴がある。
釘穴より少し大きい。けれど、ただ刺しただけではない。周囲に薬剤のような染みが広がり、樹皮が薄く変色している。
「杭の跡かな」
「杭?」
「何かを打ち込んで、抜いた跡です。木を支えるためじゃない。中の魔力を吸い出すためのものかもしれない」
ぼくは穴の周りを布で軽く拭った。
黒い粉が少しだけつく。
焦げではない。
魔力を吸う道具に残る、乾いた魔石粉に近い。
「こっちにもある」
ヴェルが少し離れた根元を指さした。
同じ穴が、二つ。
それも、木の急所を狙うような位置に打たれている。
「雑だけど、やり方を知ってる」
ぼくは思わずつぶやいた。
「偶然じゃありませんか」
セラさんの声が不安げに揺れる。
「偶然で、同じ位置に三つは打てません」
それに、紐のこすれた跡もある。
何かの道具を固定し、魔力を抜き、抜いたあとに片づけた。
人間の材木仕事とも違う。
「このやり方、嫌い」
ヴェルが低く言った。
「木を使うためじゃない。生きてるものから、使えるところだけ奪うためのやり方よ」
「ヴェル、大丈夫ですか」
「あたしは大丈夫。腹が立ってるだけ」
ヴェルはそう言って、拳を握った。
ぼくは若い木の根元にしゃがみ直す。
完全に治すことはできない。
でも、漏れているものを少し支えることならできるかもしれない。
細い銅線を取り出し、低級魔石を小さく削る。布を細く裂き、穴の周りを締めすぎないよう巻く。銅線で魔石片を留め、木の中に残った魔力が一気に外へ逃げないよう流れを緩める。
木を縛るのではなく、添え木をする感覚に近い。
「セラさん。水を少しだけ」
「はい」
セラさんが小瓶の水を注ぐ。
水が根元に染み込む。
一枚だけ、枝先の葉がゆっくりと色を戻した。
「……戻った」
ヴェルが目を丸くする。
「完全に直せるわけじゃない。でも、倒れるまでの時間を延ばすことはできるかもしれない」
「木にも応急処置ってあるんですね」
「たぶん。ぼくも今、初めてやっています」
「えっ」
セラさんが固まった。
「大丈夫です。無理に力を流し込んだわけじゃありません。漏れを少し押さえただけですから」
「それなら、よかったです」
安心したように言うセラさんの横で、ヴェルが呆れた目を向けてくる。
「おじさん、やっぱり何でも修理する気じゃない」
「できる範囲だけだよ」
「できる範囲が変なの」
そのとき、森の奥から風が吹いた。
強い風ではない。
葉が鳴る程度の、細い風だ。
けれど、その葉擦れが、どこか声のように聞こえた。
セラさんが、ふらりと一歩前へ出る。
「こっち……」
「セラさん」
ぼくは慌てて声をかけた。
セラさんははっとして足を止める。
「すみません。今、呼ばれたような気がして」
「あたしにも分かる」
ヴェルが森の奥を睨んだ。
「大きい木がある。すごく強いはずなのに、弱ってる」
ぼくは工具箱を持ち直した。
奥へ行くべきか、戻るべきか。
ガルスさんには深入りするなと言われた。
ヴェルにも、ぼくの「周りだけ」は信用できないと言われている。
でも、ここで戻っても、たぶん今夜は眠れない。
「少しだけ進みます。危ないと思ったら、すぐ戻る」
「それ、信用できないやつ」
「今度は本当に」
「……あたしが止めるから」
ヴェルはそう言って、ぼくの前に出た。
セラさんは水の小瓶を胸元に抱え、静かについてくる。
森の奥へ進むほど、空気は重くなった。
乾いた葉が増える。
根元の土が白くなる。
ところどころに、杭を抜いた跡がある。
そして、森が急に開けた。
そこに、大樹があった。
見上げるほどの幹。
広い枝。
本来なら、周囲の木々を包むように立っていたのだろう。御神木と呼ばれてもおかしくない存在感がある。
けれど今、その幹の一部は黒く傷み、根元には魔力を吸う杭の跡がいくつも残っていた。
周囲の草は倒れ、土は乾き、枝先の葉はまばらにしおれている。
空気そのものが、泣いているようだった。
「ひどい……」
セラさんが口元を押さえる。
ヴェルは無言で歯を食いしばっていた。
ぼくは大樹へ近づき、幹に手を当てた。
木肌は冷たい。
でも、奥に弱い鼓動のようなものがある。
壊れかけた家の梁に似ている、とふと思った。
倒れてはいない。
でも、支えを失えば、一気に崩れる。
「中に、何かいる」
ヴェルが言った。
セラさんが幹に近づくと、木肌の奥で淡い光がにじんだ。
ぼくの手の下で、弱い魔力が震える。
葉擦れの音がした。
風ではない。
幹の奥から、ぎし、と嫌な感触が指先へ伝わってきた。
古い梁が限界まで重さを受けて、割れる寸前に上げるような音。
そこに混じって、形にならない感情が流れ込んでくる。
怖い。
切られたくない。
まだ、倒れたくない。
ぼくは息をのんだ。
この木は、ただの木ではない。
誰かが、ここで助けを求めている。




