第13話:初めての宿泊客と硬い床
日が落ちると、森の暗さは急に濃くなる。
町の中なら、夜でもどこかに明かりがあった。酒場の灯り、鍛冶場の火、見張り台の松明。けれど境界の森では、夕暮れが過ぎた途端に、木々の影が一斉にこちらへ寄ってくる。
その暗さの中で、小屋の入口に吊るした灯りが、ぽっと淡く光っていた。
昼間、壊れた結界灯から作り直したばかりの入口灯だ。
「へえ」
荷車のそばで、ガルスさんが足を止めた。
「こいつはいいな。境界道で、この灯りはありがたい」
「まだ試しに作っただけです。ちゃんとした結界灯とは言えませんよ」
「ちゃんとしてなくても、暗闇の中じゃ値がつく。扉の位置が分かる。それだけで、人間はほっとするんだ」
そう言われて、ぼくも入口を見た。
少し歪んだ扉。修理したばかりの蝶番。そこに、淡い灯りが揺れている。
昨日までより、小屋らしい。
いや、人を入れる場所らしくなった。
「シュウ様、お湯が沸きました」
中からセラさんの声がした。
保存食を細かく崩し、浄水壺で整えた水でのばしただけの簡単な汁物だ。具も少ないし、味つけも薄い。
それでも湯気が立っている。
境界の森の夜に、その湯気は思ったより贅沢に見えた。
「すみません、セラさん。手伝わせてしまって」
「わたしも、できることがある方が嬉しいですから」
セラさんはそう言って、少しだけ微笑んだ。
その横で、ヴェルは入口近くの壁にもたれ、腕を組んでいる。黒い鎖の腕輪が、袖口から少しだけ覗いていた。
「で? そこの道具商人、本当に泊めるの?」
「そこの道具商人で悪かったな、嬢ちゃん」
「悪いとは言ってないでしょ。怪しいって言ってるの」
「今言ったな」
ガルスさんが肩をすくめる。
ヴェルはふんと鼻を鳴らした。
「別に、あたしは客のために見張ってるわけじゃないし。変なのが近づいたら面倒なだけ」
「助かってるよ、ヴェル」
「……ふん」
顔はそむける。
でも、入口からは離れない。
強い言葉を使うけれど、あの子はよく見ている。怖がっているものにも、困っているものにも、気づくのが早い。
「さて」
ぼくは小屋の奥に置いた簡易寝床を見た。
板材を並べ、防水布を敷き、上に毛布を重ねただけのものだ。昼間、急いで作ったにしては形になっている。だが、寝心地については自信がない。
「ガルスさん。寝床は、これで申し訳ないんですが」
「どれ」
ガルスさんは寝床へ腰を下ろした。
ぎし、と板が鳴る。
眉が、ほんの少しだけ動いた。
「硬いですね」
「硬いな」
「すみません」
「謝るな。野宿より百倍ましだ」
ガルスさんは寝床の端を手で叩いた。
「地面じゃない。布がある。屋根もある。扉も閉まる。境界道じゃ、これだけで上等だ」
「でも、これだと腰にきますよね。足元も冷えるし、板の隙間から風が入る。布をもう一枚、下に入れた方が」
「商人としてはありがたいが、今夜の客としては先に座らせてくれ」
「あ、はい」
いけない。
寝床を見た途端、直すところばかり目に入ってしまった。
布の厚み。板のたわみ。足元の冷え。壁際の隙間。客を横にするなら、荷物置きの位置も考えないといけない。
泊めるというのは、ただ屋根の下に入れることではないらしい。
眠れるようにしないといけない。
「あんた、面白いな」
ガルスさんが可笑しそうに笑った。
「宿屋の主人でもないのに、もう寝床の出来を気にしてる」
「泊まるなら、少しでも楽な方がいいでしょう」
「それだよ。屋根がある。扉が閉まる。火がある。水が飲める。怪我人を横にできる床がある。壊れた荷車や道具を見てもらえる。境界道じゃ、それだけで金を取れる」
「そんな大げさな」
「商売の価値はな、足りない場所にあるんだよ」
足りない場所。
その言葉が、妙に耳に残った。
ここには、何もないと思っていた。
町から追い出され、人間側にも魔物側にも居場所がなく、古い小屋に転がり込んだだけだ。
けれど、何もない場所だからこそ、灯りがあるだけで価値になる。
水が飲めるだけで価値になる。
壊れたものを見られるだけで、誰かが足を止める理由になる。
「宿代はいりませんよ」
ぼくは言った。
「助けただけですし、寝床もこんな状態ですから」
「それじゃ次の客が困る」
「次の客?」
「払う方にも、払ったって形が必要なんだ。タダで泊めたら、次に来たやつが図々しくなる。逆に、あんたも断りづらくなる」
ガルスさんは、セラさんから器を受け取った。
「だから今夜の分は、情報で払う」
「情報、ですか」
「境界道では、銀貨より先に知っておくべきことがある」
ガルスさんは汁物を一口すすり、目を細めた。
「……温かいな。この道で温かいものを飲めるだけで、客は黙る。嬢ちゃん、こいつはいい」
「よかったです」
セラさんの顔が、ふわりと明るくなる。
「セラさんのおかげです」
「いえ。シュウ様が場所を作ってくださったからです」
「場所ってほど、立派なものじゃありませんよ」
「でも、ここに座って、温かいものを飲めています」
セラさんは、小屋の中を見回した。
古い壁。直したばかりの棚。浄水壺。入口灯。簡易寝床。まだ道具だらけで、荷物の置き場も決まっていない。
それでも、昨日よりは確かにましだ。
小屋の奥で、棚が小さく鳴った。
まるで、少し誇らしげに。
「で、情報だったな」
ガルスさんが声を落とした。
「まず人間側だ。町では、奴隷商人の馬車の件と、魔物娘を連れた修理屋の話が広がり始めてる」
「……そうですか」
「守備隊長は、町の秩序を優先するだろうな。あんたらをすぐ呼び戻す空気じゃない」
それは、分かっていた。
バルク隊長の判断は冷たかったが、町を守る人間としては筋が通っている。魔物を町に入れられない。そう言われれば、今のぼくに押し返す力はない。
「ただな、あんたに助けられた冒険者どもが、黙っていられないらしい」
「ロイたちが?」
「ああ。あんたに命を拾われたって話を少しずつしてる。見栄っ張りの若いのが、自分の失敗を言うんだ。まあ、よほどこたえたんだろ」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
追放されたことを忘れたわけではない。言われた言葉が消えたわけでもない。
けれど、無事でいるなら、それでいい。
あの子たちが生きて、自分の失敗を少しでも見ているなら、それで十分だ。
「そうですか。無事なら、よかったです」
「あんた、それで済ませるのか」
「怪我が残っていないなら、その方がいいです」
「損な性分だな」
「よく言われます」
「言われるだろうな」
ヴェルが入口の方からぼそっと言った。
「おじさん、追い出したやつらの心配までするし」
「心配くらいはするよ」
「甘い」
「そうかもしれない」
そう返すと、ヴェルは不満そうに口を尖らせた。
けれど、それ以上は言わなかった。
ガルスさんは次に、森の方へ目を向けた。
「もう一つ。こっちは魔物側だ。境界の森の奥で、素材狩りが出てる」
「素材狩り?」
「魔力の通った木、薬草、精霊の宿る枝、そういうものをまとめて持っていく連中だ。人間の材木商じゃない。たぶん魔物側の軍需筋か、その周りで小銭を稼ぐ連中だな」
「……魔物側の連中が、森を荒らしてるってこと?」
ヴェルの声が低くなる。
「そう聞いてる」
「最低」
短い言葉だった。
けれど、そこには怒りがあった。
ヴェルは魔物だ。だからといって、魔物側のすることを何でも許すわけではない。
「人間でも、魔物でも、傷つけられる側は同じですね」
セラさんが、静かに言った。
「……そうだね」
ぼくは頷いた。
境界というのは、人間と魔物を分ける線だと思っていた。
けれど実際には、もう少し違うのかもしれない。
踏みにじる側と、踏みにじられる側。
壊す側と、壊される側。
その線は、人間と魔物の間だけにあるわけではない。
「今夜すぐ襲ってくるって話じゃない」
ガルスさんは、重くなりかけた空気を払うように汁物をすすった。
「ただ、この森は最近少し変だ。鳥の声が減った。葉の落ち方が早い。商人の勘だが、良い変化じゃない」
「明日の朝、小屋の周りを見てみます」
「深入りはするなよ」
「見るだけです」
「その言い方も信用できんな」
ガルスさんが笑う。
それを聞いて、小屋の床が、こつんと小さく鳴った。
まるで同意しているみたいだった。
「料金の話に戻すぞ」
「まだ続くんですか」
「大事な話だ。今後、客を泊めるなら基準を作れ。銀貨で取れとは言わん。最初は交換でいい。一晩泊まる代わりに薪。水を使う代わりに食料。修理を頼む代わりに素材。情報でも支払い可。そういう目安だ」
「店にするつもりは、まだ」
「店にするつもりがなくても、客は来る」
ガルスさんは入口灯を指さした。
「灯りがあるからな」
その言葉に合わせたように、入口灯が淡くまたたいた。
ヴェルがすぐに顔を上げる。
「何かいる?」
「強い反応じゃないと思う」
ぼくは灯りの揺れ方を見た。
敵意を受けたときの鋭い震えではない。風に近い。けれど、ただの風より少し重い。
「気づくための灯り、か」
「止める灯りじゃなくて、気づく灯り。境界道の小屋なら、それだけでも値がつく」
「値の話ばかりですね」
「商人だからな」
ガルスさんは悪びれない。
善意だけで持ち上げられるより、商売になると言われた方が、妙に現実味がある。
その夜、ガルスさんは簡易寝床に横になった。
やはり硬そうだった。
「……腰にきますか」
「くる。だが、眠れる」
ガルスさんは毛布を肩まで引き上げた。
「火がある。水がある。扉が閉まる。外で寝るより、ずっといい」
セラさんがそっと毛布を一枚足そうとする。
「セラさん、それはぼくたちの分が」
「わたしは大丈夫です」
「大丈夫じゃありません」
「そうよ。甘やかしすぎ」
ヴェルが呆れたように言った。
そう言いながら、入口近くに置いた寝床を少し内側へずらしている。入口は冷える。ガルスさんの足が冷えない位置へ動かしているのだ。
「ヴェル、それ」
「邪魔だっただけ」
「ありがとう」
「礼を言うところじゃないし」
ヴェルはぷいと横を向いた。
ガルスさんが、毛布の中で肩を震わせる。
「黒髪の嬢ちゃん、気が利くな」
「うるさい。寝れば」
火のそばにセラさんが座り、入口の近くにヴェルが座る。
ぼくは修理台の横に腰を下ろした。
入口灯。浄水壺。簡易寝床。修理台。
どれも、まだ粗い。ちゃんとした宿屋なら笑われる出来だ。
でも、昨日より水がある。
昨日より灯りがある。
昨日より眠る場所がある。
それだけで、ここに人をいられるようになった。
「少し、家のようになりましたね」
セラさんが小さく言った。
「小屋でしょ」
ヴェルがすぐに言う。
「はい。小屋です」
セラさんは微笑んだ。
「でも、昨日よりずっと、あたたかいです」
ヴェルは何も言わなかった。
ただ、入口灯の下で、黒い鎖の巻きついた腕を抱え直した。
夜が深くなる。
火が小さく鳴り、ガルスさんの寝息が聞こえ始めた。
ぼくも少し目を閉じかけた、そのときだった。
入口灯が、一度だけ淡くまたたいた。
森の奥で、乾いた枝が折れるような音がした。
大きな音ではない。
獣が走った音でもない。
ただ、何かが弱って、支えきれずに折れたような音だった。
「……今の」
ヴェルが低くつぶやく。
「敵意ではないと思う」
ぼくは入口灯を見た。
強く警戒しているわけではない。何かが近づいたというより、森の奥で起きたことに反応したようだった。
ガルスさんも目を覚ましていた。
「やっぱり、この森、最近少し変だな」
「明日の朝、見てみます」
「深入りするなと言ったばかりだぞ」
「小屋の周りだけです」
「その言い方も信用できんな」
ガルスさんはそう言って、また毛布をかぶった。
翌朝。
ガルスさんは寝床から起き上がるなり、腰を押さえた。
「寝床は直せ」
「やっぱり、痛いですか」
「客は腰で評価する」
「そこまで大事ですか」
「大事だ。腹と腰を雑に扱う宿は、二度目がない」
宿。
その言葉に、少しだけ引っかかる。
ここはまだ宿ではない。
そう思っていたのに、ガルスさんはもう当たり前のようにそう呼んでいる。
「次に来るときは、詰め物に使えるものを持ってくる。あと、食器もいるな。器が足りん」
「そこまでしてもらうわけには」
「先行投資だ。何度も言わせるな」
ガルスさんは荷車の具合を確かめながら言った。
「それと、森の話をもう少し集めてくる。素材狩りがどの辺りをうろついてるか、分かれば伝える」
「助かります」
「礼を言うなら、寝床を直せ。俺の腰のために」
「はい」
ぼくは思わず笑ってしまった。
ガルスさんを見送るため、三人で外へ出る。
朝の森は、昨夜の不穏が嘘のように静かだった。入口灯はもう消してある。けれど、戸口の周りには、まだ少しだけ温かさが残っているように見えた。
「シュウさん」
ガルスさんが荷車に乗り込む前に振り返った。
「この小屋の使い方、考えておけ。ついでに、ここで何を受け取るかもな」
「考えるだけなら」
「そう言うやつほど、だいたい手を動かす」
ガルスさんは笑い、荷車を動かした。
直した車輪が、昨日よりずっと軽い音を立てて回る。
その音が境界道へ遠ざかっていくのを、ぼくたちはしばらく見送った。
「行ったわね」
ヴェルが言う。
「はい。無事に町まで戻れるといいですね」
セラさんが小さく手を振った。
ぼくは小屋へ戻ろうとして、足を止めた。
小屋の裏手。
朝露に濡れた草の上に、一枚だけ葉が落ちていた。
季節外れの、乾いた葉だった。
拾い上げると、葉脈の一部が黒く傷んでいる。ただ枯れただけではない。魔力を通す細い筋が、内側から焼けたように途切れている。
「痛そうです」
セラさんが、そっとつぶやいた。
ヴェルが森の奥を睨む。
「……誰かが、森の魔力を削ってる」
ぼくは葉を手のひらに乗せたまま、黙って森を見た。
壊れた道具なら、直し方を考えられる。
けれど、森が壊れかけているなら。
ぼくは、どこから見ればいいのだろう。




