第八十三話 ”せめてそれだけは”
わたしがこの姿でいることに、城の者はもう驚かなくなった。
赤い髪の女が、王の傍らに立っている。ひと月もすれば、それは王都の見慣れた景色の一つになった。人は慣れる生き物だ。竜が人の形をしていることにも、じきに誰も理由を問わなくなる。
この姿を、わたしは長いこと取らなかった。取れなかったのではない。取らないと、決めていた。今それを取っているのがどういう経緯であったかは、もうどうでもよい。戻れはしないのだから。
窓の下に、王都が広がっている。
東の丘で、鎧竜が土を起こしていた。荒れ地だった斜面が、いつの間にか段々の畑に変わっている。ドラゴノイドの兵が、鍬を担いで列をなし、その畑へ下りていく。あの者たちは、朝は兵で、昼は農夫だ。日が傾けば、また兵に戻る。
空を、ワイバーンが横切った。訓練の隊列だ。翼の畳み方が、ひと月前よりそろっている。乗り手が、場に慣れてきた証だった。
悪くない。竜として、素直にそう思う。この国の守りは、日ごとに厚くなっている。
◇
「フィーオ」
背後で声がした。振り向くと、マルキウス王が入ってくるところだった。手に、地図を一巻き提げている。
「精が出るな。また、兵を見ておったか」
「はい。ワイバーンの隊が、ずいぶん形になってまいりました」
「そうか」
王は、機嫌がよかった。卓に地図を広げる。墨で描かれた国の形。四方を山に囲まれた盆地。その北西の縁に、小さな印が一つ打たれている。ドラゴノート。奪われ、奪い返した街だ。
「見てくれ」
王が、盆地の縁を指でなぞった。
「田が広がった。人が増えた。人が増えれば、兵が増える。兵が増えれば、また田が拓ける。回り始めれば、あとは早いものだ。13年、動かせなんだ車輪だぞ」
わたしは頷いた。理は通っている。国を富ませ、その富で兵を養い、その兵で国を守る。守れれば、また富む。まっとうな王の算段だった。
「竜信仰も、追い風になりましょう」
そう言うことは、わたしにもできた。
「この国は、竜を戴く総本山にございます。今は、守護竜が二頭。人が、集まってまいります。人種を問わず。兵も、職人も、ただ祈りたいだけの者も」
「うむ。もう、来ておる」
王が笑った。この人は、近ごろ、よく笑う。13年、守るだけの王だった。その頃の彼に笑う事など出来はしなかった。
◇
王の指が、地図の上で止まった。ドラゴノートの印だ。
「ここを、二度と奪われとうない」
わたしは、黙っていた。
「あの城壁の向こうは、もう国境だ。その先が、神聖国。……フィーオ。守りを厚くするというのはな、裏を返せば、その壁を前へ出せるということだ」
指が、印から西へ、わずかに滑った。国境の線を、越えて。
止める言葉は、我が心の中にあった。
守るための力は、そのまま、攻めるための力になる。その一線を越えた国が、どうなるか。わたしは知っている。先の代で、この目で見てきた。だから、言えばいいだけだった。陛下、それは違います、と。
言えなかった。
言ってはならぬと、どこかで決められている。誰がそれを決めたのかは、今日も確かめずにおいた。確かめたところで、この口は動きはしない。
代わりに、わたしの口から出たのは、こうだった。
「……壁は、厚いほうが、ようございます」
王が、わたしを見た。それから、満足そうに頷いた。わたしの言葉を、後ろから背を押されたものと受け取ったのだ。そう受け取るように、わたしは言った。
◇
「兵は増えた」
王が、地図の上で、今度は王都の中心を指した。
「だがこの国で一等強いのは、今も尚、守護竜殿の手勢だ」
その通りだった。ドラグネストの、鉄の兵。あれの一機は、ドラゴノイドの一隊に匹敵する。数ではない。質が、全く違う。
「あれを、国の軍に組み入れれば――」
王は、そこまで言って、自分で首を振った。
「いや。やめておこう」
「よろしいのですか」
訊いてしまってから、なぜ訊いたのか、わたしにも分からなかった。
「よい」
王は、あっさりと言った。
「守護竜殿の物は、守護竜殿の物だ。あれは、登録とやらがなければ動かぬのだろう。わしが命じたところで、鉄の兵は一歩も動くまい。――それにな」
王が、少し笑った。
「守護竜を、臣下の兵のように扱うものではない。あの御方には、好きにやってもらう。今まで通りに、な。それが、竜を戴くということだ」
立派な考えだと、思った。
王は、守護竜を縛らない。自由を与える。信を、与える。
そうして、この国の軍は、守護竜を抜きにしたまま、大きくなっていく。
マキナ殿の顔が、浮かんだ。
あの若い竜。人の形をして、鉄を組む竜。恐らくは私等よりずっと強い彼の竜。あの目には、迷いというものが無かった。この国がこれからどこへ向かうのか、あの竜は、まだ知らない。知ったところで――たぶん、あの竜だけは、どこにも引かれずに、まっすぐ立っているのだろう。
わたしとは、違う。私は弱き竜なのだ。
◇
王が、地図を巻き直した。
「フィーオ」
「はい」
「そなたが隣におってくれて、わしは、心強い」
王は地図を小脇に抱え、窓の外へ目をやった。鎧竜の起こす土埃が、傾いた日に、赤く染まっている。
「妻がな、よう言うておった。あの竜は義理堅い、と。強情で、大きな猫のようだが、一度こうと決めたら、梃子でも動かぬ、と」
「……フィオーラ様は、大げさにございます」
「そうかな。わしは、当たっておると思うぞ」
王が、目を細めた。
わたしは、答えなかった。
一度こうと決めたら、動かぬ。それは、当たっている。わたしは、決めているのだ。この王を、傷つけない。この王が倒れる日は、わたしが倒れる日だ。せめてそれだけは、誰にも譲らぬ。
王は、まだ窓の外を見ている。土埃の赤が、その横顔を照らしていた。
わたしは、その隣に立った。
守るために、強くなる。王は、そう言った。間違ってはいない。間違っては、いないのだ。
窓の下では、畑から兵が戻ってくるところだった。鍬を、槍に持ち替える刻限だった。
第八十三話・了
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