第八十四話 "作詞家"
ハルトアイゼンから戻って、開発室の扉を開けた瞬間だった。
「やぁーっと帰ってきおった!」
つばの広い帽子が、こちらへ突進してきた。
ルーニィだった。留守にしていた数日で、開発室は彼女の物で埋まっていた。卓の上に開いた本が三冊。壁には見慣れぬ図が貼られ、床には鎖と分銅が転がっている。僕の工具棚が、勝手に半分ほど占領されていた。
「遅いぞ? 我はこの日をどれほど待ったか。銃だか何だか知らぬが、そんなものは職人に任せておけばよかろう。魔導だ。魔導をやるぞ」
「戻ったばかりなのですが」
「ちょうどよい。手が空いておるということだ」
理屈になっていない。だが、この手の相手に理を説いても仕方がないことは、この数日で学んでいた。
◇
演習場に移動し卓の上を片付けさせて、僕は自分で組んだ術式を広げた。
留守の間、頭の中でずっと転がしていたものだ。カルミナに読ませてもらった詠唱、ルーニィが刻んで見せた段。あれを分解して、積み上げと保持を並べ替えて、僕なりに一つ、組み上げてみていた。
雷の魔法だ。属性は合っている。鑑定で、僕には雷属性がある事は分かっている。
内容には、自信があった。
大気を電離させて、電子を剥がす。高い電位差を作り、静電場を極限まで増幅する。磁場でその流れを閉じ込め、ローレンツ力で荷電粒子の軌道を制御する。電離、励起、衝突電離、再結合。そのサイクルを回して、熱を閾値の上まで持っていく。星の中で起きていることの、ごく浅い縁を、雷の形でなぞる。
前の生で、原理は知っていた。この世界の魔法が「言ノ葉で事象を起こす」なら、起こしたい事象を、僕が一番よく知っている言葉で書けばいい。そう考えた。
式は、通っているはずだった。
「では、やってみせよ」
ルーニィが顎で促した。
僕は術式を頭に置き、詠唱を起こした。
――高電位差を生み、静電場を極限まで増幅せしめ、磁場にてその流れを制御す。
――ローレンツ力によりて、荷電粒子の軌跡を閉じ込め、
言葉が、空中でほどけていく感触があった。魔力は動いている。回路も開いている。だが、何も像を結ばない。集めた力が、行き先を見つけられずに、ただ散っていく。
最後まで唱えた。
何も、起きなかった。
魔力が抜けた後には、焦げた匂いすら残らなかった。ただ、空気が少し湿っただけだった。
◇
沈黙があった。
ルーニィが、僕の広げた術式を覗き込んでいた。帽子のつばの下で、目が、行を追って動いている。上から下へ、もう一度上へ。指で一節をなぞり、首をかしげ、また別の行へ移る。
「……何じゃ、この奇っ怪な詠唱は」
低い声だった。呆れているのとも、感心しているのとも違う。初めて見る種類のものを、遠くから眺める目だった。彼女は知らない言葉を一つずつ僕に説明させながら読み解いていった。
「式としては、纏まっておる。隙がない。一分の狂いもなく、事象を組み上げようとしておる。ここまで理を積んだ詠唱を、我は見たことがない」
指が、術式の端で止まった。
「なのに、動かぬ」
「……原理は、間違っていないはずです」
「原理の話ではない」
ルーニィが、顔を上げた。
「そなたのこれはな、詠唱ではない。設計図、または説明書だ。事象の、精密な設計図だ。よく出来ておる。ただ一つ、詞になっておらぬ」
詞。
その言葉を、僕は頭の中で転がした。掴めなかった。式は書いた。事象は定義した。手順も順序も、全て並べた。それ以上、何を書けというのか。
「魔法はな、歌なのだ」
ルーニィは、そう言って、僕の術式を指で弾いた。紙が、かさりと鳴った。
「意味を積むだけでは、力は動かぬ。響きが要る。韻が要る。唱えた者の意志が、音に乗って初めて、事象は世界に届く。そなたは意味を極めて、音を一つも持たなんだ。だから、これは鳴らぬ」
◇
腑には、落ちなかった。
音。響き。意志。どれも、僕が普段は測らないものだった。測れないものだった。数字にできないものを、術式の中でどう扱えばいいのか、僕には見当がつかない。
だが、事実として、僕の詠唱は動かなかった。
そして、動かないという事実の前で、僕は反論する材料を持っていなかった。検証していないものについて、僕は何も言えない。それが技術者だ。データの無いままでは反論のしようがない。
「見ておれ」
ルーニィが、卓から離れた。
外套の裾を払い、杖を手に取る。演習場の中央に立ち、その姿だけで、場の空気が変わった。竜の目で見ても底の知れない炎と雷が、静かに立ち上がってくるのが分かった。
彼女が、唱え始めた。
――轟け、雷よ。
――裁きの光と雷鳴を以て、全てを浄化せよ。
――天雷の怒りを解き放ち、大地を貫きて万物を焼き尽くせ。
言葉に、音があった。
意味だけではない。一節ごとに、韻が踏まれ、拍が刻まれていた。荘厳で、古く、それでいて隙がない。彼女の意志が、その音に乗って、空間そのものを撓ませていくのが分かった。
僕の詠唱が、集めた力を散らしただけだったあの場所に、今、力が「像」を結んでいた。
――雷神の威光ここに顕現せよ。
――我が意のままに、全てを塵へと還せ。
頭上に、陣が開いた。
幾重にも重なった円環が回転し、その中心に、白い光が凝る。遥上空の天をカンバスにして、そこに雷の巨大な陣が広がっていた。
雷霆墜滅陣。上級の、雷の魔法。
僕は、それを竜の目で見ていた。現象としては、分解できる。放電の経路、電位の勾配、磁場の配置。僕が式で書こうとしていたものと、起きていることの中身は、そう遠くない。
遠くないのに、僕のは動かず、彼女のは動いた。
同じ雷だった。僕の属性で、僕が届かなかった所に、彼女は立っていた。
僕は、黙るしかなかった。
◇
陣が消えて、空はいつもの空に戻った。
ルーニィが、杖を下ろして、こちらを振り返った。得意げな顔をするかと思ったが、そうではなかった。彼女は、僕の広げたままの術式を、もう一度見ていた。
「……のう、守護竜マキナ」
声の調子が、少し変わっていた。
「そなた、これを、誰にも習わず組んだのか」
「はい。原理は、前から知っていたので」
「知っていた、で組めるものではないぞ、これは」
ルーニィが、術式の一行を、爪の先でなぞった。
「事象を、これほど細かく刻んで、順に積み上げる。この組み立て方を、我らの中でも、できる者はそう多くない」
ルーニィは、杖の先で、床に線を三本引いた。
「よいか。呪文というものはな、三つで出来ておる。まず、起こしたい事象を分かっておること。これが理解だ。次に、その事象を、順序を違えず組み上げること。これが構築。そして最後に、それを音に乗せて世界へ届く形にすること。これが詞だ。三つが揃って、初めて呪文は鳴る」
三本の線のうち、二本を、爪の先で軽く叩いた。
「そなたは、理解を持っておる。前の理屈がどうとか言うておったが、まあよい。持っておるものは持っておる。そして、構築——これが、化け物じみておる。我らの中の上手い者でも、ここまで綺麗には積めぬ」
残った一本を、指した。
「だが、詞がない。まるで、ない。音も、韻も、意志の乗せ方も、そなたは何一つ分かっておらぬ。そこだけは、赤子以下だ」
彼女は、しばらく黙って、それから言った。
「詠唱文を編む者を、我らは作詞家と呼んでおる」
作詞家。
「そなたは、そのリリシストの真似事を、詞も知らずに、骨だけで途中までやってのけた。そういう馬鹿は、我も初めて見た」
僕は、その言葉を、うまく受け取れなかった。
作詞家。歌を作る者。僕が、いつの間にか、その真似事をしていたということらしい。意味を積んで、事象を定義して、僕は設計図を引いたつもりだった。それが、詞を書く手つきに、片足だけ掛かっていたのだという。
掴めなかった。詞が何かも、僕がその何を持っていて、何を持っていないのかも。
「まあ、よい」
ルーニィが、僕の術式を、卓の上で軽く叩いた。
「骨があるなら、肉は付けられる。音は、これから叩き込んでやる。そなたのその奇っ怪な設計図が、詞になった時——」
彼女が、少し笑った。炎と雷の、底の知れない目で。
「さぞ、面白いものが鳴るだろうよ」
僕は、動かなかった自分の術式を、もう一度見下ろした。
式は、通っている。原理も、間違っていない。それでも、これは鳴らなかった。足りないものが、確かにある。
見えていないものが、そこにある。
その感覚だけは、久しぶりだった。
第八十四話・了
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