第七十六話 ”神聖国の姫”
「違う。そこで下げるな」
俺は、盤上の駒を一つ、指で戻した。
ドラグネストの一室だ。卓の上に地形図を広げて、駒を並べている。要塞から戻って三日、ヴィにはこれを毎日やらせていた。実戦の前に、卓の上で百回間違えておく方がいい。
「ここで下げれば、右の隊は孤立する。お前の目には、右が見えていたか」
「……見えて、いました」
「見えていて下げたなら、それは判断だ。理由を言え」
ヴィが、口を開いて、閉じた。
理由が無いのだ。見えていて、それでも下げた。左の隊が押されているのが目に入って、そちらへ手が動いた。目は盤面を見ているのに、手が近い方へ行く。よくあることだ。俺も昔やったもんだ。
「指揮官殿。お前の目は、俺より遥かに良い」
俺は、駒を元に戻した。
「だが目が良いだけでは足りん。見えたものを、優先順位の高い順に処理する頭が要る。順番を間違えれば、見えていなかったのと同じだ」
ヴィが、こくりと頷いた。
この娘は、こちらの言うことを飲み込むのが速い。速すぎるくらいだ。三日で、俺が十年かけて頭に入れたものの、幾らかは入っている。
だから遠慮はしない。遠慮は、この娘には無意味だ。
「もう一度だ。最初から並べろ」
「はい」
ヴィが、駒に手を伸ばした。
その手が、途中で止まった。
「——ふざけんな」
背後から、声がした。
──
振り返らなくても、誰かは分かっていた。
ディ。この娘の兄だ。前線で機体を修理するフロントライン・スミス。腕は確かで、俺と目を合わせない男だった。
「あんた、さっきから何なんだ」
ディが、卓の横まで来た。部屋に居たレイヴンズや下士官たちから注目を浴びる。
「ヴィは指揮官だぞ。あんたの部下じゃない。なんでそんな言い方をされなきゃならない」
「兄さん」
ヴィが、立ち上がりかけた。
「私が頼んで——」
「黙ってろ」
ディが、遮った。
俺は、何も言わなかった。
言うことが無かったからだ。この男が俺に向ける目は、最初の日から変わっていない。俺が広間で引き合わされた日、この兄妹だけが場の温度を変えた。あの時から、こうなることは分かっていた。
遅いくらいだ。ずいぶん我慢してくれていたんだろう。
部屋の入口に、人が集まり始めていた。ジリオンのバカみたいにデカい図体が見える。ララの声が途中で切れた。誰かが誰かを止めようとして、止めきれずにいる。
ディが、一歩前に出た。
「俺達兄妹はあんたが治めていたドラゴノートに居た浮浪児だった! あの日マキナ様が白騎士達を伴って助けに来なければとっくに死んでただろうよ!」
──ああ。
それが、得心がいった。
浮浪児。
あの街には、いくらでも居た。路地の隅に、聖堂の裏に、荷馬車の陰に。冬になると数が減って、春になると別の顔がまた同じ場所に座っていた。俺は、その全部を見ていた。見て、通り過ぎて来た。
法に沿って統治した。徴収も、審問も、規定の範囲でやった。略奪は禁じたし、破った兵は罰した。それが駐留軍の副将の仕事で、俺はそれをやり切った。
やり切っただけで、救いの手は差し伸べなかった。
「あの時の……」
そこまで言って、口を閉じた。
続きが無い。この男の顔に、見覚えは無い。あの街の路地に居た誰かだと言われれば、そうなのだろうと思う。それだけだ。何百人も居た。俺は一人も覚えていない。
覚えていない、と言うわけにはいかない。だが、覚えている、と嘘をつくのはもっと悪い。
だから、黙った。
言わせておけばいい。この男が言い切るまで、ここに立っていればいい。それが今日、俺にできる唯一のことだった。戦争中の国家間で当たり前に起きる当たり前の話だ。言いたい事は言われなくても分かっている。
「すみません、わたくしから一言よろしいでしょうか」
──
その声が、横から入った。
リーディア様だった。
いつの間に、そこに立っていたのか分からない。入口の人だかりの、その奥から出てきたようだった。
俺は、慌てた。
「姫様、私は言われるだけの事をしたのです」
言われるだけの事をした。それは本当だ。だからこの姫が出る幕ではない。この人は関係が無い。この人は、あの街に居なかった。
「留守を預かった身です、黙っているだけとはいきません」
リーディア様は、静かに言った。
「それに私もまた、その戦いに関した国の姫です」
留守を預かった。
そんなものは、方便だ。マキナ様が王都へ発つ時、この人に言ったのは留守番を頼むという、それだけの言葉だったはずだ。責任を負わせた覚えなど無いだろう。
この姫が、勝手に受け取っただけの事だ。
「ディさんやヴィさんが当時どの様な仕打ちを受け、どんな思いで暮らして居たかは、私には想像すら及ばないでしょう」
リーディア様は、ディの方を見ていた。
想像すら及ばない、と言った。
分かる、とは言わなかった。俺は、そこで初めてこの姫の顔を見た。
俺は、言われるだけの事をしたと言った。認めた。認めるというのは、分かったつもりになるのと、そう遠くない。
この姫は、その一段手前から始めていた。
「マキナ様に庇護された身で何を言うかと思う方も、いらっしゃるかもしれません」
リーディア様は、部屋の全体へ向き直った。
ディだけを見ていない。入口に集まった連中の、その全部を見ている。
「しかし、今の私はマキナ様に留守を任せられた身です。どうかお聞きになってください」
誰も、何も言わなかった。
「わたくし共は、神聖国ゴッデスべフェールからの亡命者です。厳密に言えば、あなた達の中には私達を敵として認識する人達もいらっしゃることでしょう」
わたくし共。
俺を、そこへ入れた。
俺は、この人の臣下だった。今もそのつもりでいる。だがこの人は、俺を庇うのではなく、俺の横に並んだ。
「ですが、この程度の事は国家間であれば当然に起きる軋轢に過ぎません」
この程度。
ディの喉が、鳴るのが聞こえた。
「国が違い、立場が違い、考える事も、環境も違う。私達が正しいと声高に言うつもりは毛頭ありません。しかし、国家間の戦いで発生した軋轢に、個人単位で一方的におっしゃるのは看過できません」
理屈だ。
正しい理屈だった。俺は国の命で駐留し、法に沿って統治した。あの街の浮浪児は、国と国が戦った結果として生まれた。それを俺一人に負わせるのは、筋が違う。
正しい。
正しいが、この理屈は、あの路地で苦しんでいた本人には届かないだろう。
腹が減っていた子供にとって、それが国家の都合だったかどうかなど、何の関係も無い。ディが言っているのは責任の所在ではない。「俺の妹が飢えていた」それだけだ。
理屈は、それに答えられない。
「だから、言いたい事はわたくしに言って下さい」
リーディア様が、背筋を伸ばした。
「私は神聖国ゴッデスべフェール第一王女、リーディア・フォン・ゼーレンハイム。間違い無くミカルよりも責任が重い立場にある者です」
──やめてくれ、と思った。
この人を守れと、王命を受けた。国を出て、追われて、ここまで連れてきた。俺の仕事は姫を守る事であって守られる事じゃない。
その姫が、俺の前に立って、殴られる場所に自分を置いている。
「わたくしはマキナ様の陰で怯えるだけの姫では有りません。ここに居させて頂く以上、私情でも何でも受けさせて頂きます」
声が、震えていなかった。
「しかし、ミカルは今このドラグネストで指令参謀の立場に、マキナ様によって任命された身です。わたくしはマキナ様の信頼に答える為、ミカルの信頼を貶める事を是と致しません」
そこで、俺は理解した。
この人は、俺を庇っているのではない。
マキナ様が俺をここに置いた。ならば、俺の信頼を削ることは、マキナ様の判断を削ることになる。この人は、それを許さないと言っている。
留守を預かるというのは、そういう意味だと、この人は考えている。
「もう一度言います。わたくしの名はリーディア・フォン・ゼーレンハイム。貴方たちの何人かにとっては、明らかな侵略者であった国の第一王女です」
侵略者。
自分の口で、そう言った。
「言いたい事は、わたくしにおっしゃって下さい」
そして、凛として立っていた。
──
ディは、何も言えなかった。
拳を、強く握りしめている。爪が掌に食い込むほどの握り方だ。何かを言おうとして、言葉が見つからず、行き場を失った力が全部そこへ行っている。
部屋が、静かだった。
入口の連中まで黙っていた。ジリオンが口を開けたまま固まっている。あの騒がしい男がだ。誰も動かない。姫の迫力に、全員が気圧されていた。
ディ一人が、そこに立っていた。
この姫は、この男を晒すまいとして全体に向かって話した。その結果、全員がこの男を見ている。
そこへ、ヴィが入ってきた。
「リーディア様」
小さいが、通る声だった。
「貴方がおっしゃる通り、我らの中には私も含めて、貴方方を良く思わない者も居る事でしょう」
私も含めて、と言った。
「しかし、私は貴方とミカル殿を心から尊敬し、信頼しています」
——この娘も、規格外だ。
良く思わない。尊敬している。信頼している。この娘はそれを、どちらも下ろさずに並べた。
兄には、できなかったことだ。兄は片方を選んだ。選んで、叫んだ。
「私はマキナ様に深く感謝しています。あの時私達を苦しみから救い道を作って下さり、今も尚導いて下さる方だからです」
ヴィが、リーディア様を見ていた。
「そしてマキナ様がリーディア様を庇護し、ミカル殿を私の参謀として招いた時点で、私はその意に背くつもりはありません」
そして、その娘は言った。
「私はマキナ様に認めて頂きたいからです」
──俺は、少し笑いそうになった。
理由が、自分の欲だ。隠しもしない。
マキナ様のためでも、俺のためでもない。認められたい。だから背かない。要塞で盤面に自分の失敗を晒したあの日から、この娘の芯は一本のままだ。カルミナ殿の指導の賜物と言う事だろう。
強い。
ヴィが振り返り、兄の方を見た。
「兄さん、私マキナ様のお役に立ちたいの。わがままを許してくれる?」
──
そこで、敬語が消えた。
指揮官の声ではなく、妹の声だった。
彼女は適切な判断をしている。それでもわがまま、と言った。
この娘がやっているのは、わがままではない。正しい判断で、指揮官の務めで、この場で唯一の出口だ。それを、自分でわがままと呼んだ。
そうすることで、兄に、許す側の席を渡している。
ディは、何も言えず、黙らされて、拳を握って立っていた。負けた男の格好だった。そこへ妹が振り返って、許可を求めた。
——この娘は、分かってやっている。
ディの顔が、変わった。
一瞬だ。何かに打たれたような顔をして、それから、目を伏せた。
俺には、その中身までは分からない。だがこの男が今、自分の横を通って先へ進んだ妹の背中を初めて遠くから見たのは分かった。
俺も、昔、同じ顔をした事がある。
若い士官が正しい進言を持ってきて、俺がそれを飲んだ夜だ。あの時、俺はこの男と同じ顔をしていたのだろうと思う。
追い抜かれるというのは、悪くない。
ディの拳から、力が抜けた。
「立派な妹が居る兄は苦労する」
ぶっきらぼうに、それだけ言った。
ヴィが、ふにゃりと笑った。
そして、ディはリーディア様の方へ振り返った。
──終わっていない。
リーディア様の唇が、きゅっと引き締まった。
言いたい事はわたくしにおっしゃって下さい、と自分で言った人だ。だから受ける。受けると決めている。決めているが、怖くないわけではない。
ディが、片膝を着いた。
「リーディア様、数々の非礼、心よりお詫び申し上げます。何卒ご容赦下さい」
ディは今この瞬間成長したのだろう。
──
俺は、その背中を見ていた。
この男は、俺を許してはいない。この姫の理屈に納得したわけでもないだろう。あの理屈は、この男の腹には届いていない。
それでも、非礼は非礼だと、この男は分けた。
国と個人を分けろとこの姫は言った。この男は、それを逆から実行した。個人として働いた無礼を、個人として返している。
拳を握る事しかできなかった男が、膝を折るという形を選んだ。
妹が、席を作ったからだ。
「頭を上げて下さい、ディ」
リーディア様の声が、柔らかくなっていた。
「私には今ここで、何一つ力は御座いません」
さっきまで肩書を並べて立っていた人が、跪かれた途端に、力が無いと言う。
当然だった。あの名乗りは権威ではない。責任を引き受ける為のものだ。この男が膝を折った以上、用は済んでいる。用の済んだ肩書を、この人は自分で下ろした。
「ですが、私は貴方の謝罪を受け入れ、同時に私も、貴方と貴方の妹の判断を尊重します」
受け入れる、と言った。
気にするな、でも、当然の事です、でもなく。謝罪は、受ける者が居なければ成立しない。この男が折った膝を、この人は無駄にしなかった。
そして、自分の側からも差し出した。片方が謝って片方が許す形を、この姫は嫌ったのだと思う。
貴方と、貴方の妹。
その順番で、言った。
──
ディが、立ち上がった。
ヴィが、兄の袖を引いている。ジリオンが入口で何か叫んで、ララに小突かれていた。部屋の温度が、元に戻っていく。誰かが笑った。
俺は、卓の前に立っていた。
俺は、何も言っていないし、何もできなかった。
弁明も、謝罪もしていない。あの日、路地の子供に手を伸ばさなかった男が、今日この部屋でも、ただ立っていただけだ。何一つ、していない。
その俺のために、姫が前に出た。俺が飢えさせた子供が、俺ではない相手に膝を折った。
そして誰も、俺を責めない。
俺は、目頭をそっと押さえた。若者の成長と言うのは老人には眩し過ぎた。
第七十六話・了
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