第七十一話 ”がんばれ”
王都ドラグロードの朝は、鉄を打つ音で明ける。
マルキウス・ドラグロードは、執務室の窓辺に立って、その音を聞いていた。城下の工房から途切れずに届く槌の響き。かつては神聖国の動きに耳を澄ませ、山向こうの砂塵を数えていた耳が、今は市の喧騒と鍛冶の音を拾っている。平穏というものは、こういう音の形をしているのだと、この歳になって知った。
卓には、方々からの報せが積んである。
王は椅子に腰を下ろし、一枚を手に取った。第二都市ドラグナートの徴税の記録だ。目を通して、思わず二度読んだ。数字が、去年の倍に届こうとしている。
ドラグナートは、国の南の関を扼する商都だ。国土の6割が山という小国で、あの街だけは平地に開けて、昔から交易の細い糸で食い繋いできた。その糸が、いま太い縄になりつつある。南東連邦との物流が滞りなく流れ、隊商の数が増え、宿が足り、蔵が建つ。古い城壁の外にまで、市が溢れていると聞いた。
なぜこうなったか、王は知っている。
道が、安全になったからだ。
街道に盗賊が湧かなくなり、魔物の群れが領内で暴れなくなった。荷が確実に届くと分かれば、商人は動く。商人が動けば、金が回る。金が回れば、国が肥える。ただそれだけの理屈が、13年のあいだ、王にはどうしても回せなかった。道の安全ひとつ、贖えなかった。
それを、あの竜が回してみせた。
王は、窓の外へ目をやった。
工房の脇に、鉄の巨人が一体、立っている。全高5メートルのサイクロプス。城下の要所に据えられた守り手の一体だ。朝の光を受けて、ただ黙って立っている。据えてから幾月も経つが、一度も動いたことはない。
動かぬことが、仕事なのだ。
あれが立っているというだけで、街に手を出そうという不心得者が消える。抜き身の剣を街角に置いておくようなものだ。振るわれずとも、そこにあるだけで場を鎮める。戦をせぬための戦力。王が長く欲して、ついぞ持てなかったものを、あの竜は無造作に置いていった。
王は、ふっと息を漏らした。
愚王、と自ら名乗ってきた男だ。攻めず、伸ばさず、ただ守勢に徹して、国を縮こまらせて生き延びてきた。無能を装うのは、攻める気が無いと敵に思わせるためだった。事実、その芝居で13年、神聖国の手を鈍らせてきた。だが芝居は芝居だ。腹の底では、いつも歯噛みしていた。富国強兵の一つも成せぬ自分の不甲斐なさに。
その芝居が、今は要らない。
鉄の巨人が街に立ち、道が安全になり、蔵に金が積まれていく。装わずとも、国が豊かになっていく。こんな日が来るとは、あの絶望の夜には、想像もできなかった。
◇
サイクロプスをめぐる話は、王のもとへ次々と舞い込んでくる。
まず、南東連邦からの使者だ。
あの鉄の巨人を、譲ってはもらえぬか、と。値は言い値でよいと、使者は身を乗り出した。連邦は大国だ。その大国が、山あいの小国に頭を下げて、兵器を売ってくれと言う。13年前なら、考えられぬ光景だった。
王は、丁重に断った。断るしかなかった。
あの巨人は、売っても動かぬのだ。
守護竜殿が言うには、鉄の巨人は、造った本人と繋がった証を持つ者でなければ、指一本動かせぬように出来ているらしい。他国が手に入れたところで、ただの鉄の像だ。王にもその仕組みの理屈までは分からぬが、要するに、鍵はすべてあの竜が握っている。国の力の源が、一匹の竜に集まっている。頼もしくもあり、そら恐ろしくもある話だった。
次に来たのは、譲れぬなら、造ってはくれぬか、という願いだ。
連邦は諦めが悪い。譲渡が駄目なら、金を出すゆえ、そちらで拵えて寄越せと言う。これも王は受けなかった。受けようにも、造れるのは守護竜殿ただ一人で、王が「うむ」と頷いて済む話ではない。
だが、この打診には、王も少しばかり胸がすいた。
造ってくれ、と乞われる立場になったのだ。かつては連邦との交易で、どうにか食い繋がせてもらう身だった。その相手が、今は頭を下げてくる。力の天秤が、静かに傾いた。愚王を名乗り続けた男の、ささやかな溜飲だった。
そして、あまり感心せぬ話も来た。
鉄の巨人の中身を探ろうとする者が、城下をうろついている、と。
どこの手の者かは、おおよそ知れている。据えられた巨人に近づいて、造りを写し取ろうとしたり、夜陰に紛れて触れようとしたり。守備隊が幾度か追い払ったという。
王は、報告を聞いて、苦笑した。
「無駄なことを」
中身を写し取ったところで、あれは動かぬ。鍵はあの竜にしかない。それを知らぬ他国の間者が、汗をかいて像の寸法を測っている。滑稽な話だ。だが、それだけ他国があの巨人を恐れ、欲しているということでもある。恐れられるというのは、この国が初めて手にした感覚だった。悪い気は、しなかった。
◇
その巨人が、初めて動いたのは、つい先日のことだという。
王は、その報せを、市井の噂として耳にした。
城下の広場に据えられたサイクロプスの、片脚のあたり。子供らには、格好の遊び場であるらしい。鉄の巨人は動かぬから、よじ登っても叱られぬ。度胸試しに、肩まで登ろうとする悪童もいた。
その日、一人の子が、登った。
いつもより高く。巨人の肩の縁に手をかけて、足を滑らせた。
地までは、5メートル。子供の体では、ただでは済まぬ高さだ。広場にいた者は、悲鳴を上げることしかできなかったという。
鉄の巨人が、動いた。
据えられて以来、微動だにしなかった腕が、持ち上がった。落ちてくる子の下へ、大きな手のひらが差し入れられる。子は、その掌の上に、ぽすりと落ちた。かすり傷ひとつ、負わなかった。
巨人は、子を地にそっと下ろすと、また元のように動きを止めた。何事もなかったかのように、黙って立つ巨人に戻った。
王は、この話を聞いて、しばらく黙っていた。
あの竜は、鉄の巨人にひとつ、律を課しているのだと、以前に聞いたことがある。戦の命が無いときは、決して人を害さず、人を守るように、と。据えた巨人の芯の、最も底のところに、その一条が刻んであるのだと。
王には、その理屈の細かいところは分からぬ。だが、意味は分かる。
あの竜は、街に兵器を置いたのではない。守り手を置いたのだ。戦のためではなく、あの落ちてくる子供一人のために、鉄の巨人を据えた。そう言われれば、そうとしか思えぬ据え方だった。
守護神、と城下の者は巨人を呼ぶようになったという。
王は、それを笑わなかった。神と呼ぶには、あまりに無骨な鉄塊だ。だが、落ちる子を受け止める掌を持った鉄塊を、ほかに何と呼べばよいのか、王にも思いつかなかった。
◇
国のことなら、こうして幾らでも安堵できる。
できぬのは、娘のことだった。
王は、卓の隅に置いた一枚の絵図を、手に取った。人化した守護竜殿の姿を、絵師に写させたものだ。白銀の短髪に、片眼の硝子。歯車を思わせる長い外套。人の姿を得たあの竜は、城下の娘たちが騒ぐのも無理からぬ、涼やかな面立ちをしている。
問題は、その周りだ。
王は、指を折った。
まず、我が娘メルフィーナ。これはよい、というより、これが本命だ。契約者として、ずっとあの竜の傍らにある。
次に、リーディア姫。神聖国から亡命してきた、あちらの第一王女だ。客分として前線に置いているが、聞けば、なかなかの器量と気品の持ち主だという。
そして、もう一人。
カルミナ、とかいう姫だ。
王は、この娘のことを、まだよく知らぬ。南東連邦の内にあった、今は亡き王国の元王女だと聞いている。国を失い、身ひとつであの竜のもとにいるらしい。
王が気を揉んでいるのは、この娘だった。
伝え聞くところによれば——ここが伝聞なのが、王をいっそう落ち着かなくさせるのだが——このカルミナという姫、たいそう苛烈な気性であるという。そして、どうやら、守護竜殿のお気に入りらしい、と。
「お気に入り、だと……」
王は、絵図を置いて、腕を組んだ。
王女が三人。いずれ劣らぬ器量。そのうちの二人は、失うものを持たぬ身だ。リーディアは故国を捨て、カルミナは国そのものを喪っている。身軽なのだ。守るべき国も、背負うべき王家もない。竜のもとに、身ひとつで飛び込める。
翻って、我が娘はどうか。
メルフィーナは、この国の王女だ。背負うものがある。父としては誇らしいが、この一事にかけては、それが枷になりはせぬかと、王は気が気でない。身軽な二人を相手に、荷を背負った娘が、競り勝てるものなのか。
国の戦なら、王にも読めた。数を数え、地を読み、手を打てた。
だが、娘の戦は、盤面が見えぬ。
◇
見えぬなら、見た者に訊くしかない。
王は、折よく王都へ戻っていた二人を、私室に呼んだ。前線を預かる将、ティーガー・エルトートと、ヴェルディ・カーリス。名目は、ドラゴノートの戦況の報告である。
二人は、堅苦しく畏まって、順に報告を述べた。5000を退けた戦の顛末。神聖国の軍団魔術への備え。前線の守りの現状。王は頷きながら聞いた。いずれも、頼もしい内容だった。
公式の話が済むと、王は、少しばかり間を置いた。
それから、声を落とした。
「ヴェルディ。ちょっと、良いか」
ヴェルディが、背筋を伸ばした。まだ何か、込み入った軍務の下問かと身構えた顔だ。
「その、な」
王は、言い淀んだ。武人相手に、こういう話を切り出す気まずさというものがある。だが、訊かねば始まらぬ。
「うちの娘は、どうなのだ」
ヴェルディが、きょとんとした。
「……どう、とは?」
まるで通じていない。王は、いよいよ言いにくくなった。戦況を問えば立て板に水のこの男が、この問いには、心底見当がつかぬという顔をしている。
助け舟を出したのは、ティーガーだった。
「メルフィーナ様のことでしたら、ご案じ召さるには及びませぬ」
ティーガーが、胸を張った。
「ドラゴノートの戦、姫殿下は実にご立派であられました。守護竜様と筋書きを練られ、采配の一つも乱されず。あの気丈さ、あの落ち着き。血は争えぬものと、我ら一同、感服いたしました」
「そ、そうか」
王の頬が、緩んだ。
「そうか。さすが、我が娘だ」
娘が戦場で立派であったと言われて、悪い気のする父はいない。王は、危うく本題を忘れかけた。娘は立派だ、大丈夫だ、と。
ところが、ヴェルディが、口を開いた。
「いや、しかし」
王が、目を向ける。
「その、カルミナ殿は、その……」
ヴェルディが、言いかけた。何かを言おうとして、王の顔を見て、ふと口をつぐんだ。それから、目を伏せた。
「……いえ。何でもございませぬ」
王の背に、冷たいものが走った。
何でもない、が、いちばん恐ろしい。全て言われるより、途中で飲み込まれる方が、よほど胸に残る。ヴェルディの中には、明らかに、言えぬ何かがある。ドラゴノートで、あるいは前線のどこかで、この男は見たのだ。カルミナという姫と、守護竜殿の何かを。そして、王の前では言えぬと判じた。
「……ヴェルディ」
「は」
「申せ」
「いえ、その、戦とは関わりのないことにて」
ヴェルディは、頑として濁した。武骨な男が、こういうときだけ妙に口が堅い。王が幾ら水を向けても、「差し出口にございます」の一点張りで、それ以上は出てこなかった。
王は、諦めた。武人二人に、これ以上、娘の色恋を問うても詮無いことだった。
だが、諦めた王の胸には、飲み込まれた言葉の分だけ、不安が膨らんでいた。
◇
二人が退がって間もなく、もう一人の来客があった。
ミカル。リーディア姫の副将だ。客分の姫に付き添って、この国にある。書状の遣り取りのついでに、王へ挨拶をと参じたのだという。
王は、この寡黙な老武人を、嫌いではなかった。敵国の者でありながら、筋を通す男だ。
挨拶が済み、当たり障りのない話が続いたあとで、王は、つい先刻の不安を、この男にぶつけてみたくなった。前線帰りのミカルなら、あるいは何か知っていよう。
「ミカル殿。ひとつ、訊いてよいか」
「は。私に分かることであれば」
「その……カルミナという姫は、実際、どうなのだ。守護竜殿とは、その」
王が言葉を探していると、ミカルは、少し目を伏せた。
「……さて。私は、あまり存じませぬ」
そう言って、ミカルは、別のことを口にした。
「それより、陛下。リーディア様のことで、一つ、お願いがございます」
王の関心が、カルミナにあることは、ミカルにも分かっていたはずだ。それを、この男は、静かに逸らした。
「リーディア様は、故国に、気がかりな縁を残しておいでです」
ミカルの声は、低かった。
「あの御方は、口にはなさいませぬ。決して。ですが、置いてきたものを、忘れておいでではない。……忘れさせては、なりませぬ」
王は、この老武人が、何を言っているのか、半分しか分からなかった。
リーディアが故国に何を残してきたのか、王は知らぬ。だが、ミカルの目を見れば、それが軽いものでないことは分かる。この男は、リーディアが、その残してきた縁を手放して、別の何か——たとえば、あの守護竜殿のような——に心を移してしまうことを、案じている。案じて、それを本人には言えず、こうして王のもとへ、遠回しに託しに来たのだ。
同じ卓で、王とミカルは、まるで違うものを案じていた。
王は、我が娘が競り勝つことを願っている。ミカルは、もう一人の姫が、心を移さぬことを願っている。片や、あの竜に娘を娶せたい父。片や、あの竜から姫を遠ざけたい副将。願いの向きが、正反対だった。
それでいて、二人とも、卓の上では穏やかに茶を飲んでいた。
王は、ミカルの語らぬところに沈んでいる重さを、あえて掘らなかった。掘ってよいものではない、と分かる程度には、王も歳を重ねている。
「……承知した」
王は、それだけ言った。
ミカルが、深く頭を下げた。
◇
一人になった執務室で、王は、長く考え込んでいた。
国のことなら、手が打てる。数を読み、地を読み、備えができる。売れと言われれば断り、造れと言われれば断り、間者が来れば追い払える。落ちる子は、鉄の巨人が受け止めてくれる。すべて、収まるところに収まっている。
だが、娘のことだけは、手の打ちようがない。
盤面は見えぬ。将に訊いても、飲み込まれる。副将に訊けば、話を逸らされる。父である自分にできることなど、何一つ無いように思われた。
王は、しばらく窓の外を見ていた。
鉄を打つ音が、まだ続いている。
やがて王は、卓に向き直り、筆を執った。
娘へ、文をしたためることにした。手が打てぬなら、せめて、送れるものを送る。それが、この距離にいる父に、唯一できることだった。
王は、便箋に書いた。
『新しき装束を、幾つか贈る。救援の物資と思うて、受け取るがよい。武運を』
書いて、署名を入れ、封をしようとした。
が、手が、止まった。
これでは、足りぬ気がした。装束を救援物資と呼び、娘の日々を武運などと言う。我ながら、為政者の言葉しか出てこぬ。娘に贈る文が、これでよいものか。
王は、しばし、じっとしていた。
それから、新しい便箋を、もう一枚引き寄せた。
筆を執る。何か、もっと父らしい、温かな言葉を書こうとした。だが、いざ紙を前にすると、言葉が出てこない。あれほど胸に溢れていた心配も、案じる気持ちも、いざ形にしようとすると、指の先で霧のように散ってしまう。
結局、王が書けたのは、三文字だった。
『頑張れ』
書いてしまってから、王は、少しばかり決まりが悪くなった。あれこれ悩んだ末に、これか、と。愚王を名乗り、13年国を守り抜いた男の、娘への言葉が、これか、と。
だが、消す気にはならなかった。
王は、二枚の便箋を、揃えて封に収めた。格式ばった一枚と、素の三文字と。両方とも、間違いなく、自分の本心だった。
封をして、使いを呼ぶ。
文と、幾つかの装束の包みを託し、王は言った。
「ドラグネストへ。娘に、届けよ」
使いが退がっていく。
届いた先で、娘がどんな顔をするのか、王には見えぬ。呆れるか、笑うか、あるいは。それは、あちらの話だ。父の手は、ここまでしか届かぬ。
王は、また窓辺に立った。
遠い南西の空。前線のある方角を、しばらく眺めた。
鉄を打つ音が、城下から途切れずに届いている。
「……達者でな」
誰にともなく、王は呟いた。
第七十一話・了
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