第五十八話 ”天使の歌”
俺は臆病者だ。訳の分からないものは信用しない。だからこそ、目の前で起きていることが、俺の知るどんな戦の理にも当てはまらないのが薄気味悪かった。
聖都の練兵場に呼ばれたのは、その日の昼だった。神官騎士団から「ご覧に入れたいものがある」と知らせが有り、教皇直々の催しと聞かされれば、聖騎士団長の俺が顔を出さぬわけにもいかぬ。気は進まなかったが、進まぬ顔をするほど若くもない。
普段は聖騎士団が剣を振るうその広場に、この日は神官騎士団がずらりと並んでいた。白い石を敷いた広い練兵場の中ほどに魔法陣が描かれ、それを囲むように神官の術師が幾人も立っている。俺は端の回廊から眺める形になった。広場の向こう、俺の位置からたっぷり距離のある先に、古い石塔が一基だけぽつんと据えられている。聖騎士団が長年、打ち込みの鍛錬に使い込んできた代物だ。あれを標的にするつもりらしい、と見当はついた。
詠唱が始まった。術師たちが幾重にも声を編み、魔法陣が淡く光を増していく。レギオンマジックとは毛色の違う、もっと古い、俺の耳が一度も拾ったことのない音律だった。聞いているうちに、背筋の産毛がわけもなく逆立ってくる。
魔法陣の中心に光が降りて、人の形を取った。人ではない。背に光の翼を負い、面には何の表情もない。美しいと言えば美しいが、その美しさは硝子のように空虚で、喜びも怒りも何ひとつ宿していなかった。命じられるのを待つだけの貌だ。
「的を射よ」
神官の短い号令に応じて、無表情な天使の口がゆっくりと開かれた。人形が動いたような、どこか不気味な所作だった。その体の内で魔力が高まっていくのが、離れた俺の肌にまで伝わってくる。次の瞬間――歌がこぼれた。
高く澄んだ、人の喉では届かぬ音域の声だった。綺麗な歌だと思った。思った端から、不快だった。澄んでいるのに腹の底を撫でられるような心地がして、耳ではなく臓腑が拒んでいる。なぜ綺麗な歌がこれほど気色悪いのか、理屈は何も出てこなかった。
歌が広場を渡って向こうの石塔に届くと、石塔が内側から軋みを上げ、歌に呼応するように震えて、たまらずばらばらに砕け散った。崩したのではない。歌の震えに、石の方が耐えきれなくなったのだ。あれだけ距離があってなお、声だけで石を砕いてみせた。
「天使の歌、と申します」
近くの神官が誇らしげに教えてくれた。高密度の魔力を声に乗せた振動波で、属性を持たぬ無垢な力なのだという。無垢、か。あの不快さのどこが無垢なのか、それとも無垢ゆえに不快なのか、俺には皆目分からなかった。後で聞けば、今のは下位の――いわば下っ端の天使の一撃に過ぎぬらしい。あれで下っ端なら、その上に何が控えているのか、考えたくもない。
薄ら寒さの裏で、別のものが頭をもたげていた。これ程の力が、神聖国にはあったのか。あったのなら、なぜだ。
◇
あの守護竜との戦が、嫌でも思い出される。
城の前に並んだ黒い鉄人形の群れ、届かぬ距離から降るように飛んでくる矢。陣形を組む隙も、攻めに転じる間も与えられぬまま、俺は被害が大きくなる前に兵を退いた。あの竜を相手取ったあの時、もしこの天使がこちらにいたなら、どう働いたろう。石塔のように、あの鉄人形どもを片端から砕けたかもしれん。撤退など要らず、兵を一人も損なわずに済んだかもしれん。それだけの力を、神聖国は伏せていたのか。
先の勇者が女神の御名のもとに竜と戦った、あの幾度の戦のどこでも、天使は一度も降りてこなかったではないか。温存していたとでも言うのか。何のために、誰の差配で。それを今になって、平然と練兵場で披露している。理屈が合わない。切り札とは、勝てぬ戦の最後に切るものだ。先の勇者の中には、その切り札を握らされぬまま戦って敗れた者もいた。死んだ兵もいた。なのに天使は、そのどこにも姿を見せなかった。
では、あの死は何だったのか。日を追うごとに、訝しさは濃くなっていった。何をもって、今だと言うのか。
◇
ほどなく、聖都に高札が立った。神官騎士団が団員を募るという。女神の御使いを召し、その傍らに立つ栄誉を得よ――おおよそ、そのような文言だった。
人が集まった。それも信の篤い者から順にだ。女神への信が深く、奉仕に飢えた若者ほど、吸い寄せられるように列をなしていく。頬を上気させ、誇らしげに胸を張る彼らにとって、女神の御使いの隣に立てること以上の誉れはないのだろう。
俺の目には、それが別のものに映った。彼らは自分がどこへ向かっているか、分かっているのだろうか。女神の為に、というのは分かる。だが、勇者すら偽物に頼っているこの時に、あの力は本当に女神のものなのだろうか。
◇
俺は聖騎士団を集めた。建国の昔から女神に仕えてきた、この国の武の本体だ。ランサーもナイツも神聖魔術師団も、皆、俺の前に並んだ。
「我が団は、天使召喚を用いぬ」
短く、それだけを告げた。理由は長々と説かなかった。説いたところで、腑に落ちる説明など俺自身が持っていない。ただ訳の分からぬ力には乗らぬ、臆病者の流儀だ。
団にさざ波が立った。無理もない。聖騎士団に天使ほどの切り札はなく、あるのは鍛えた身と磨いた剣、女神より賜った神聖魔法だけだ。神官騎士団が御使いを擁するなら、こちらは丸腰も同然に見えよう。それでも、得体の知れぬものに兵を預けるよりはましだと、俺は腹を括っていた。
◇
数日のうちに、団を去る者が出た。おおよそ一割、信に篤く直情の者から順だった。女神により近づける道があるのに、なぜ団長はそれを拒むのか。そう信じて、彼らは神官騎士団へ移っていった。彼らの中では、俺の方が女神に背いて見えているのだろう。
俺は止めなかった。止めたところで翻る手合いではない。直情ゆえに迷わず、迷わぬゆえに止まらぬ連中だ。行きたい者の足を縛る趣味もない。ただ、去る背を見送った。女神を最も篤く信じた者から、女神の御使いを名乗る何かの隣へ歩いていく。彼らが何に並んだのか、俺には分からない。分からぬまま見送るしかないのが歯痒かった。
残ったのは九割だ。声高に引き留めたわけでもないのに、ほとんどの団員は動かなかった。俺の人柄を信じていると言えば聞こえはいいが、要するに彼らもまた訳の分からぬものにすぐ飛びつかぬだけの思慮を持っていたということだ。直情の者が抜けて団は痩せたが、残った者の目つきは前より据わっていた。
◇
「ぽっと出の、怪しい便利な力なんて信用できませんよ」
そう言ったのはトビアスだった。かつて手柄を焦って竜の捕虜になり、嘲りを買った若造だ。あの頃の慢心は二度の戦を経てすっかり削げ落ち、今は兵を一人でも多く生かして帰すことばかり考えている。育ったものだ。
「自分の兵に、得体の知れないものを背負わせたくありません。隣で何が起きているか分からない力なんて、戦場で一番質が悪い」
信仰の言葉ではなかった。兵を預かる者の地肌から出た言葉だ。便利すぎる力には必ず裏がある、理屈ではなく現場の勘がそう告げている、と。トビアスは何も知らぬはずだ。天使が何であるかも、その力の出どころも。それでいて、こいつの言は妙に芯を食っていた。
俺は久しぶりに笑った。「お前にしては上等な台詞だな、トラビス」「トビアスです」。俺のくだらない冗談に律儀に直してくるところも、変わらない。
◇
天使召喚を捨てた以上、聖騎士団に攻めの切り札はない。数も、神聖魔法も、弓の射程も、砦に拠って守るには使えるが、打って出るには使えなくなった。このままでは、いずれ俺の団は野戦の本体ではなく、砦に籠ってレギオンマジックを回すだけの拠点守りに成り下がる。それだけは避けねばならん。
攻めに足りぬのは機動力だ。機動と言えば、行き着く先は騎馬になる。その騎馬に儀式魔法を組み合わせられぬか、近頃の俺はそればかり考えている。地にその都度描いていた魔法陣を、運べる形にして現地で展開し、攻勢の儀式魔法を撃つ。展開式儀式魔法陣とでも呼ぶべき新しい力に、いささかの目はあると見ている。
もっとも、夢を見るほど甘くはない。あの守護竜が相手なら、この程度の手はいくらでも封じ手を考えてくるに決まっている。一手で決められる相手ではないし、一手で決める必要もない。神官騎士団に天使団がいるなら、それと噛み合わせ、数で劣るドラグロードを少しずつ崩していく、その目を一つ増やすだけのことだ。
結局、何より要るのは正確な情報だ。マキナ達の戦力、その細かな手の内、あの守護竜の性根まで。戦場で正面から倒せぬのなら、搦手で倒すのが上策だろう。
その手は、もう打ってある。幸い、向こうは人員を募っていた。紛れ込ませるには調度良かった。やつが使い物になってくれれば、少しは妥当するきっかけくらいは見つかるかもしれない。
次の戦をどう凌ぐか、算段はまだ半ばだ。それでも、考える頭とそれを信じる兵が、ここに残っている。俺は剣を提げて、九割の団の前に立った。
第五十八話・了
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