第五十七話 ”てのひらのうえで”
異様な緊張が、マキナ様の執務室に満ちていた。
二人がけのソファーを、カルミナが一人で占めている。長い裾を払いもせず、背もたれに身を預け、退屈そうに脚を組んでいる。その背後には三姉妹のメイドゴーレムが、ティーセットを携えて控えていた。アイン、ツヴァイ、ドライ。表情のない三体が、まるでカルミナの従者であるかのように、彼女の後ろへ静かに並んでいる。
私とメルフィーナは、その対面のソファーに腰かけていた。二対一。数ではこちらが勝っているはずなのに、押されているのはこちら側だった。
メルフィーナは、必死だった。
言いたいことが山ほどあるのは、横顔を見れば分かる。カルミナの傲岸な座りよう、三姉妹を背に従えた図々しさ、そのどれもが彼女の癇に障っている。けれどマキナ様が咎めない。当のご本人が意に介していない以上、契約者が一人で噛みついたところで空回りするだけだ。だからメルフィーナは言葉を呑んで、紅茶を啜っている。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる声が、聞こえてくるようだった。
私はといえば、ただ静かに紅茶を味わっていた。
……表向きは。
私は王女として育った。内政も外交も、一通りは叩き込まれている。まして私の役目は、異界から来てこちらの理を何も知らぬ御方を、世界の仕組みごと支えることだ。場を読み、相手の意を測り、最も角の立たぬ振る舞いを選ぶ。それが私の身につけた術であり、唯一の拠り所でもあった。
おっとりとした姫。気が利かず、争いごとに疎い、無害な娘。そういう顔をしていれば、誰の敵にもならずに済む。出しゃばらぬことが、私にとっては最も賢い立ち回りだった。にこやかに笑っていれば、たいていの場は凌げる。
だが、この部屋では、それが通じない。
まず、カルミナが読めなかった。
あの女が今、何を考えているのか。メルフィーナを嬲って遊んでいるのか、それとも何も考えていないのか。底を覗こうとしても、覗くべき底がない。意のないものは、測りようがないのだ。私の最も得意とする読みが、カルミナの前ではただ空を掻いた。
そしてもう一人。
書類に目を落としているマキナ様を、私はそっと窺った。
この御方の前では、私の繕いが効かない。にこやかな笑みの下を、見透かされている気がしてならない。確かな証はない。けれど何度も、この部屋で背筋が冷えた。私の選んだ無害な顔が、この御方にだけは、最初から透けているのではないか――そんな心地が、ずっと拭えずにいる。
読めない相手と、見透かす相手。私の術が、両方に届かない。
……いや。
冷えた指先を、私はカップで温めた。
届かないのではなく、読ませてもらえていないのではないか。そんな考えが、ふいに頭をもたげた。私が場を御しているつもりで、実のところ、最初から手の中で泳がされているだけなのではないか。私が居場所を作ろうと藻掻いているのを、この御方は全て承知の上で、ただ眺めているのではないか。
疑心が、静かに根を張っていく。
もしそうなら、私には何の札もない。読む力が私の全てだったのに、その全てが見抜かれて泳がされているのなら、私は裸で掌の上を踊っているだけだ。亡命した王女に、それ以外の何があるというのか。
隣のメルフィーナが「私のクッキーが」と慌てふためいているのが、どこか遠く聞こえた。あの子の混乱は、まだ可愛いものだ。私のそれは、もっと暗く、出口がない。
扉が、叩かれた。
◇
入ってきたのは、ヴェルディだった。
「マキナ様。ご報告したいことがございます」
堅い、仕事の声だった。緩んだ部屋の空気が、一筋だけ引き締まる。マキナ様が手を上げ、席を勧めた。
「どうぞ、かけてください」
ヴェルディが腰を下ろす。その傍らへ、ツヴァイがそっと紅茶を差し出した。同時にアインがマキナ様の空いたカップを下げ、新しいものを用意する。皿には、軽くつまめるクッキーが二枚。どうやら、カルミナが三姉妹に指図したものらしい。先ほど背後で何ごとか囁いていたのは、この差配だったのだ。
視野の隅で、メルフィーナが悔しがっているのが見えた。給仕は私の役目なのに、とでも言いたげに。そしてカルミナが、得意気にそれを眺めている。
ヴェルディは、それらには目もくれず、淡々と口を開いた。
「ヴィ――彼女は以前から、机上の試験では素晴らしい成績を残しておりました。ですが、実践訓練では、なぜか結果を出せずにいたのです」
その名は、私も知っている。盤面を読ませれば右に出る者がいないという、半妖精の娘。
「ところが今回は、彼女が自ら動きました。出場メンバーに、何とレイヴンズのアーレフを説き伏せ、引き入れていたのです。アーレフの偵察の力を活かし、情報の面で相手を数段上回る――そこから、戦を組み立てておりました」
「アーレフは、戦ったのですか」
「いいえ。アーレフは偵察のみ。戦闘には一切関与しておりません。ただ見ているだけです。ですが、それで充分でした。ヴィの持つ戦術眼によって、彼女の戦場は――机の上に映し出された、盤上のゲームに変わっていました」
マキナ様が、わずかに目を細めた。
ヴェルディは、ふと声を落とした。
「……もっとも。聞いた話では、アーレフは買収されたのではなく、脅迫された、と言っているそうですが」
脅迫。私は思わず、手の中のカップを見つめた。あの引っ込み思案な娘が、模擬戦とは言え人を脅して戦場に引きずり出したというのか。
「ヴィは、優れた才を持ちながら、どこか自信のない子でした。ですが今回の彼女は――どこか達観したような、遠い目で、全てを見通しているようでした」
その横顔に、驚きが滲んでいた。
「私も、彼女と戦ってみるつもりでおりました。ですが、あの鮮やかな戦術に、卑怯さまで加わったものには――つけ入る隙を探すどころか、こちらが軽く飲み込まれてしまうのです」
ヴェルディは、背筋を正した。
「彼女の戦術眼は、本物です。私では、到底、彼女を教えることなどできません。――むしろ、私の方が、教えを請いたいと願っております」
生真面目な指揮官が、年下の娘に、頭を垂れていた。悔しさでも嫉妬でもない。ただ、本物を見た者の、清らかな畏れだった。
マキナ様が、静かに口を開きかけた、その時。
「マキナ様」
割って入ったのは、カルミナだった。
「クッキーは、お食べになりましたか」
張り詰めた空気を、一刀両断にする呑気さだった。ヴェルディの畏れも、マキナ様の言葉も、この女にとっては、クッキーと同じ重さしか持たないらしい。
「クッキー。ああ、二枚乗っていたものですね。食べましたよ。おいしかったです」
マキナ様まで、素直に答えている。カルミナは満足げに頷いて、それから、おもむろにメルフィーナへ振り向いた。
「だそうだ。良かったな、小娘」
「えっ……?」
メルフィーナが、目を瞬かせる。
「あの、クッキー……私の……?」
どうやら、自分の焼いたものが主の皿に乗っていたことに、今の今まで気づいていなかったらしい。カルミナとの睨み合いに気を取られ、足元のことが見えていなかったのだ。
「味見をしたら、存外うまかったのでな。主様にも出させた」
カルミナは、事も無げに言ってのける。立ててやろうという気も、煽ってやろうという気も、端から無いのだ。ただ、気が向いた。うまかった。だから出した。それだけの女だった。
喜んでいいのか、怒っていいのか。手柄を認められたのは嬉しくとも、認めたのがカルミナでは釈然としない。メルフィーナの顔が、行き場を失って赤くなっていく。
「つ、つまみ食いしないでください……!」
「美味かったのだ、何か問題あるか?」
また、二人が始まった。
◇
私は、笑えなかった。
カルミナが、読めない。あれは煽りなのか、戯れなのか、善意なのか。いくら見ても、底が掴めない。そして――マキナ様は、あの女を、どうやら気に入っておられる。
ならば、私はどう動けばいい。
あの女に逆らえば、マキナ様の心証を損なう。かといって、読めぬ相手に合わせようにも、間合いが測れない。メルフィーナのように、正面から噛みつくこともできない。あの子には契約者という立場があるが、私には、何もないのだから。
読めない。見透かされている。立場もない。
私は、おそらく、メルフィーナよりもずっと混乱していた。にこやかな笑みを崩さぬまま、内側だけが、静かに軋んでいた。やはり、私は泳がされているだけなのではないか。この笑顔も、この立ち回りも、全て見抜かれた上で――。
「リーディア殿」
声をかけられて、ハッとして顔を上げた。
マキナ様が、こちらを見ていた。二人がまだ喧しくやり合っている、その横で。ソファーに座ったまま身を固くしていた私に、いつの間にか気づいておられたらしい。
「間もなく、ミカル殿もこちらへ来ます」
思いがけぬ名に、息が止まった。
「彼には、レイヴンズに所属してもらうつもりです。――ですから貴方も、もっと自由でいいのですよ」
書類から目を上げただけの、何気ない声だった。
「無理なさらないでください。我々は皆、貴方の味方です」
――私は、言葉を失った。
私が、寄る辺なき身で、必死に居場所を築こうとしていたこと。ミカルが来るまでにと、気を張り続けていたこと。その全てを、この御方は見ておられた。見た上で――私が頼むよりも先に、ミカルの居場所まで、整えてくださっていたのだ。
疑心が、音もなく崩れていく。
確かに、私は掌の上にいた。読みも繕いも、何もかも見透かされていた。それは、当たっていた。
けれど。
彼の掌は、私を弄ぶものではなかった。
私達を、優しく包み込む掌だったのですね……。
喧噪の中で、私一人、静かにそこへ辿り着いた。
張り詰めていたものが、ほどけていく。にこやかな笑みの下から、今度こそ繕いではない何かが、そっと覗いた気がした。
第五十七話・了
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