第四話 焼かれた肉(改訂版)
メルフィーナは黒板を見るなり、何も言わず僕を抱き上げて部屋を出た。
廊下の冷たい空気が顔に当たる。抱かれたまま、僕は半分目を閉じていた。脳がガス欠を起こしている。考えるのをやめると、視界が滲んだ。低血糖だろうか。ドラゴンも低血糖症になるのか、とくだらない発見をしつつ、目を瞑る。
しばらく歩くと、空気が変わった。油の匂い、香辛料の匂い、何かが煮える音。そして、焼けた肉の匂い。
鼻が反応する。尻尾がぴくりと持ち上がった。胃が、ぎゅうと絞られたような気がした。
◇
厨房は戦場だった。人が走り回っている。だが、第一王女と守護竜候補の登場で、空気が一瞬止まった。スーシェフらしき男が前に出て、メルフィーナに頭を下げる。
メルフィーナが、上がりかけた息を抑えて穏やかに告げた。
「古代竜様にお食事を、と思いまして」
スーシェフの表情が引き締まる。
「お任せください」
そう言って、彼は厨房の奥へ消えた。
僕は調理台の上に降ろされた。視界が低い。鍋が並び、包丁の音が響き、焼けた肉の匂いがどこからか漂ってくる。尻尾が揺れ始めた。
◇
ほどなくして、スーシェフが両手に皿を持って戻ってきた。誇らしげに、僕の前へ置く。
「古代竜様、どうぞ。お口に合いますかどうか」
皿を見る。細かく刻まれた生肉と、細かく刻まれた野菜。それを丁寧に混ぜたもの。
……ペットフードだ。こんなもの人の食う——いや、僕は竜だった。
尻尾の動きが止まる。皿を見つめたまま、僕は動けなかった。ペットフードを前に無言で固まる古代竜、という図が完成していた。
スーシェフは、岩のような男だった。背が高く、肩幅が広く、太い腕には古い火傷の跡がいくつも走っている。表情筋が仕事をしていない。出会ってから、まだ「お任せください」しか喋っていない。
その岩が、揺れていた。額に汗が滲む。
「先代様には、これでお喜びいただいたのですが」
低い声が絞り出される。岩が、崩れていく。
メルフィーナが慌てて、僕とスーシェフを交互に見る。傍にいた料理人の一人が、おずおずと声を上げた。
「あの、スーシェフ。古代竜様は、今朝お生まれになったばかりとか」
スーシェフがゆっくりと、料理人のほうを向いた。
「生後0日に、固形物は——早すぎたのでは」
……それだ、という顔をしている。違う。そうじゃない。
「ミルク」
ぽつりと、スーシェフが呟いた。
「ミルクが先だったか」
「お、お乳係を呼びますか」
「人間の乳を竜に、ですか」
「で、では山羊の」
「山羊」
スーシェフは岩のような顔のまま、天井を見上げていた。職人としての30年が、音を立てて崩れていくようだった。メルフィーナが困ったように、僕を見下ろす。
そうこうしている間に、頭の奥で視界が回り始めていた。糖が足りない。このままだと、本気でまずい。
僕は最後の力を振り絞って、短い手で黒板を引き寄せた。チョークが滑る。指が震える。それでも、書いた。
[お肉 焼いて]
歪んだ字で書かれたそれは、ダイイングメッセージになりかけていた。メルフィーナが目を見開いて、スーシェフに突きつける。
スーシェフの動きが止まった。岩が、息を吹き返す。職人の目に、火が戻った。
「かしこまりました!」
深々と頭を下げ、彼は調理台へ向かう。途中で振り返り、もう一つだけ尋ねてきた。
「調味料は、お使いになりますか?」
声は、さっきまでとは別人のように落ち着いていた。もう声を出す力もない。尻尾を、力なくゆっくり持ち上げる。それで頷いたつもりだった。
スーシェフは深く頷き返し、火に向かった。その背中は、もう揺れていなかった。
◇
ほどなくして、香ばしい匂いが立ち上ってきた。香草と、肉の脂と、軽く焦げた表面の香り。尻尾がはっきりと持ち上がる。
スーシェフが誇らしげに皿を運び、調理台へそっと置いた。分厚いステーキだった。
厚みのある肉の塊が、皿の中央に堂々と鎮座している。表面にはこんがりと焼き目がつき、香草が散らされ、脂が皿の上で小さく音を立てていた。職人の仕事だ。火の入り方、焼き目の位置、脂の落とし方、どれにも迷いがない。先代たちに30年仕えてきた男の、自信の一皿だった。
僕は皿を見つめたまま、動けなかった。ナイフが無い。フォークも無い。前世が猫舌だった僕には、この熱そうなステーキに口から行くのは抵抗がある。
スーシェフが再び固まり始めた。額に汗が滲む。
「お、お口に合いませんでしょうか」
低い声が震えていた。メルフィーナが、はっと気付いた様子で口元を押さえる。
「あ、ご、ごめんなさい。ナイフとフォークを」
「かしこまりましたッ」
復活が早くなっていた。学習している。岩がさっきよりも素早く立ち直り、職人の顔で調理台へ駆けていく。その背中を見送りながら、尻尾がゆるく揺れた。
◇
スーシェフが小走りで戻ってきた。
「お待たせいたしました」
差し出されたのは、磨き上げられた銀のナイフとフォーク。丁寧に布の上へ並べられている。僕は短い手で、それぞれを掴んだ。
両手にナイフとフォークを構えた僕は、どう見ても二刀流の剣士だった。柄に対して、握り手が小さすぎる。フォークは槍、ナイフは大剣くらいのサイズ感だ。両手に得物を抱えた幼生体ドラゴンが、皿の前で構えている。
メルフィーナが口元を押さえた。
「ふふっ」
スーシェフは何も言わない。が、岩のような顔の口角が、わずかに上がった気がした。
前世、社会人として会食は一通りこなしてきた。それなりの店も知っている。ナイフとフォークの使い方、肉の切り方、ナプキンの位置、フォークの背に乗せる派と乗せない派の不毛な論争まで、全部頭に入っている。たかが手のサイズで負ける訳にはいかない。
構え直し、ステーキに向き合う。フォークを刺す——重い。体重が軽すぎて、押し込む力が出ない。ナイフを引く——切れない。というより、腕が短くて引ききれない。
知識に、身体が追いついてこない。切れないステーキを前に、二刀流の幼生体ドラゴンが必死にもがいていた。
メルフィーナが見かねて、椅子を寄せてきた。
「お、お切りいたしますね」
柔らかい声だった。僕の手から、彼女がそっとナイフとフォークを受け取る。慣れた手つきで、ステーキが一口大に切り分けられていく。そしてフォークに肉を刺し、僕の口元へ運んできた。
「どうぞ?」
幼生体ドラゴンが、第一王女に「アーン」されている。恥ずかしさはあったが、腹は限界だった。素直に口を開ける。
肉が口に入る。溢れる肉汁が脳に響いた。香草の香り、脂の甘み、火の通し方、塩の入り方、どれも完璧だ。スーシェフ30年の仕事が、舌の上で踊っている。本物の肉だった。
胃に落ちていく感覚とともに、頭にも血が戻ってくる。視界がはっきりしてきた。メルフィーナがまた肉を切り、フォークで運んでくる。
「どうぞ?」
僕はまた口を開ける。尻尾が、ぴしっと一回だけ振れた。
◇
300グラムほどの肉と、少量のサラダで、十分に腹が膨れた。
部屋へ戻る際、厨房の片隅に見慣れたシルエットを見かけた。黄色く、やや曲がった形——バナナだ。前世の僕は、シュガースポットの出た甘いバナナより、少し青みの残った、薄甘いくらいのやつが好きだった。
この世界にも、バナナがあるのか。尻尾がびったんびったん揺れる。短い前足でバナナを指差すと、スーシェフはその辺にあったフルーツ類をまとめて持ってきてくれた。
バナナをてしてし叩きながらアギャアギャ騒ぐ古代竜に、スーシェフは急いでバナナを剥いて手渡してくれる。一口かじる。バナナだ。
甘さは前世ほどではないが、種が小さい。味も食感も、種の小ささも、前世のバナナとほとんど同じだ。これは、品種改良されたバナナだ。
品種改良といっても、大袈裟な技術が要るわけではない。良い実から種を取って植える。それを何百年も繰り返せば、種は自然に小さくなっていく。前世の地球でも、文字すら持たない時代の人々がやってきたことだ。だから、この世界にバナナの品種改良があっても、別におかしくはない。
ただ——今食べているこのバナナの完成度は、少し気になった。長い長い時間をかけて地球が辿り着いたバナナと、独自にここまで似た結果へ辿り着けるものだろうか。同じような生き物が食べるなら、似た結果に落ち着くのもおかしくはない、のか。バナナを食べながら、そんなことを考える。
僕より前にこの世界へ来た誰かがいて、その誰かが品種改良の知識を持ち込んだ可能性。転生か、転移か、召喚か。——興味深い話だ。
二口目をかじる。甘い。どうやら、糖が脳に届いたらしい。尻尾は、まだびったんびったん揺れていた。
第四話・了
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