第三十八話 "綻び"
聖都ゴッテスベフェール。
城門前の広場に、出陣の列が組まれていた。
旗が並ぶ。女神の紋章を染めた純白の軍旗が、朝の風にいくつも揺れている。鎧の擦れる音、馬の嘶き、装備を確かめる兵の声。5000の兵の半ばが既に先発し、残りがこの広場で最後の隊列を整えていた。
ロロル・ヴェントは、広場の端に立っていた。
中枢の士官として、出陣の見送りに名を連ねている。それ以上の役は無い。亡命の一件以来、王室派の自分に重い任は回ってこなくなった。教皇派は、彼を泳がせている。眼として残す価値はある、と踏んでいるのだろう。
列の先頭で、総大将ファルケンハイン伯が馬上にあった。
白髪の混じった髭、日に灼けた厚い顔。神聖国軍に40年仕えた老将だった。魔国やドラグロード王国との国境で幾度も実戦を踏み、武勲を積み上げてきた男。教皇派にも王室派にも与せず、ただ軍人として在ることを通してきた。その伯が、此度の遠征軍を束ねる。
ロロルは、伯の横顔を見ていた。
——あの方が出るなら、まだ救いがある。
そう思った時だった。
「ロロル殿ではないか」
声が、横から掛かった。
振り返ると、若い男が立っていた。仕立ての良い軍装。磨き上げられた胸甲には、まだ一度も刃を受けた傷が無い。年の頃はロロルと変わらぬか、少し下。トビアス・フォン・ベルク。教皇派に連なる伯爵家の、次男だった。
「先陣を、賜りました」
トビアスが、胸を張った。
「ファルケンハイン伯の下知のもと、私が前駆を務めます」
「……左様ですか」
ロロルは、短く答えた。
トビアスの目が、値踏みするようにロロルを見ている。そこには、隠しきれない優越があった。
「ロロル殿。一つ、伺ってもよろしいか」
「何でしょう」
「貴殿は、かのドラグロードに竜が在ると、副将ミカル殿と共に上申なさった。守護竜なる獣が、我が軍にとって脅威であると」
トビアスの口の端が、僅かに上がった。
「竜が、それほど恐ろしいものですかな」
ロロルは、答えなかった。
ミカルの名が出た。その名を、トビアスは過去の臆病の証として口にしている。ミカルがもうこの国に居ないことを、彼は知らない。亡命は極秘。表向き、副将は病を得て役を退いたことになっている。
ロロルだけが知っていた。あの夜、師の背中が聖都を去ったことを。死ぬな、と言い残して。
「私は、見たままを上申したまでです」
ロロルは言った。
「危ういと判じた。それだけです」
「ふむ」
トビアスは、笑みを深めた。
「ご安心召されよ。その竜とやら、私が捕らえて参る」
広場の喧騒が、一瞬遠のいた気がした。
「捕らえて、と仰せか」
「然り。獣であれば、檻に入れればよい。鎖で繋ぎ、聖都へ引いて参る。女神の御前に跪かせてご覧に入れましょう」
トビアスの声に、迷いは無かった。
「ロロル殿が恐れたものの正体を、この目で確かめ、この手で捕らえる。臆病の霧を、晴らして差し上げましょうぞ」
ロロルは、トビアスの顔を見た。
若い。武勲を欲する目をしている。胸甲に傷の無い男の、少年の様な無垢な自信だった。
ロロルの脳裏に、別の景色が浮かんだ。ドラゴノートが落ちた夜。国境の野営地で、副将と向かい合った時の事。あの時、撤退を進言した自分の声が震えていたのを覚えている。為す術が無かった。あの絶望を、この男は知らない。
知らないまま、5000の先頭を行く。
「……御武運を」
ロロルは、それだけを言った。
引き留める言葉は、無かった。言ったところで、この男には届かない。届かないものに言葉を費やすほど、ロロルは若くなかった。
トビアスは満足げに頷き、馬の方へ歩いて行った。
やがて、出陣の角笛が鳴った。
ファルケンハイン伯が馬を進め、隊列が動き出す。旗が傾ぎ、土埃が立ち、5000の足音が城門を抜けていく。広場の見送りの者たちが、女神の加護を唱えた。
ロロルは、列の流れていく先を見ていた。
街道は北東へ伸びている。ドラゴノートの方角。神聖国の最前線へ。
その同じ方角に、もう一人向かった人が居た。
リーディア。
亡命の経路は、ハルトアイゼンへ向かう為、国境の分かれ道に置かれた街ヴェークシャイトを通っただろう。北東の街道を辿り、国境の山を越える道。今この瞬間彼女がどこを歩いているのか、ロロルには分からなかった。亡命の道筋は、彼自身が引いた。だが引いた後の旅は、彼の手を離れている。
無事に山を越えたか。途上で何事も無かったか。
知る術が、無い。
ロロルは、軍の中枢に居る。聖都の動き、軍の編成、遠征の進退——その気になれば、相当のことが彼の耳に入る。だが、ただ一人の安否だけは、どこの情報網にも乗らない。乗れば、亡命が露見する。
全てが見える場所に居て、最も知りたい一つだけが、見えなかった。
ロロルは、土埃の収まった街道を、しばらく見ていた。
それから、踵を返した。
職務がある。眼として、この国の中枢に残る。それが、自分に課した役目だった。
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日々が、過ぎた。
遠征軍は順調に街道を進んでいる、と報が入った。5000の行軍は、ドラゴノートまで10日余りを要する。物資の集積、宿営地の確保、斥候の往来——その一つ一つが、断片として聖都に届く。ロロルは士官として、それらに目を通した。
戦況の輪郭は、見える。
だが、リーディアの輪郭は、見えないままだった。
ロロルは、いつも通りに過ごした。朝の祈祷に列し、書類を捌き、勇者の手ほどきをし、教皇派の集まりにも顔を出した。誰にも何も悟らせない。それが、残った者の務めだった。ミカルが去り、リーディアが去り、王は黙し、自分だけが残っている。眼であり続けること。生きていること。死ぬな、と言われたこと。
夜、宿舎の窓から北東の空を見上げる時だけ、ロロルは士官の顔を下ろした。
あの空の下で、無事であればいい。そう願う、それだけだった。
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報が届いたのは、出陣から半月ほど経った、午後の事だった。
ロロルが書庫で記録を整理していると、廊下を駆ける足音が聞こえた。一つではない。幾人もの足音が、慌ただしく中枢へ向かっていく。常ではない速さだった。
書庫を出ると、若い伝令が血相を変えて走り抜けていった。手に、泥にまみれた文を握っている。
ロロルの背筋が、冷えた。
早馬。それも、街道の汚れをそのまま纏った、急報の使い。
「ヴェークシャイトより——」
伝令の声が、廊下の向こうで上ずっていた。
ヴェークシャイト。ドラゴノートから4日、国境の分かれ道に置かれた中継の町。ハルトアイゼンへの道と、聖都への道が分岐する場所。遠征軍の後方連絡を担う要だった。
そこから、急使が来た。
ロロルは、廊下の壁に手をついた。
——何かが、起きた。
良い報せなら、急ぐ必要は無い。勝報は、ゆっくりと、誇らしげに運ばれる。これほど取り乱した使いが運ぶのは、勝報ではない。
教皇庁の鐘が、刻限でもないのに鳴り始めた。
緊急の評定を告げる鐘だった。
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評定の間に、人が集まっていた。
教皇ザルカニスが、上座にあった。痩せた長身、深く窪んだ眼。神聖国の実権を握る男が、伝令の文を手にしている。その周りに、高位の聖職者と軍の中枢が並んだ。ロロルも、末席に連なった。
文を読み上げる役の聖職者の声は、最初こそ平静だった。
「ヴェークシャイトに、遠征軍の使いが至った。報じるところによれば——」
そこで、声が止まった。
聖職者がモノクルを外し、文を二度読み返した。読み違いを疑ったのだろう。だが、文に書かれた文字は変わらない。
「……ドラゴノート攻略は、成らず」
評定の間が、ざわめいた。
成らず。攻略は成らなかった。5000を以てして、城塞一つを。ざわめきは、まだ動揺ではなかった。攻めあぐねた、撤退した、その程度の不首尾と、誰もが受け取った。
ザルカニスが、手を上げた。ざわめきが収まる。
「続けよ」
聖職者が、唾を飲んだ。
「遠征軍5000のうち——ヴェークシャイトに戻りし兵、2000余り」
間があった。
数を、誰もが頭の中で並べた。5000。2000余り。
差し引いて、出てくる数。
評定の間が、静まり返った。
ざわめきが、消えた。先ほどとは、種類の違う静けさだった。攻めあぐねたのではない。撤退したのでもない。半数以上が、戻らなかった。
「3000が……」
誰かが、呟いた。
その先を、言葉にできる者は居なかった。
ロロルは、末席で動かなかった。動けなかった、と言う方が近い。胸の内で、何かが軋んでいた。やはり、という思いと、それでも、という思いが同時に来ていた。危ういと判じていた。だが、ここまでとは。
聖職者が、文の続きを読んだ。声が、掠れ始めていた。
「総大将、ファルケンハイン伯——」
ロロルは、目を閉じた。
「——討死」
評定の間に、息を呑む音が満ちた。
ファルケンハイン伯。40年、神聖国の剣であり続けた老将。魔国との国境で幾度も死地を抜けてきた、あの伯が。
「伯爵ともあろう御方が」
高位の聖職者の一人が、椅子から半ば腰を浮かせていた。
「あの方が、討たれたと申すか。この様な、辺境の城一つで」
文を読む聖職者は、答えなかった。文に書かれたことだけを、もう一度繰り返した。混乱の最中に討たれた、と。陣形が崩れ、退き口を失い、その只中で。
退き口を、誰がまとめたのか。総大将を失った5000の、2000余りを、誰が連れ帰ったのか。文には、無かった。
ザルカニスが、口を開いた。
「どう、負けた」
低い声だった。
「5000が、城一つに。総大将を討たれ、半数を失う。どう負ければ、そうなる」
聖職者が、文に目を落とした。
「敗残の兵の、申すところによれば——」
そこから先は、戦の報告ではなかった。
兵たちの、譫言だった。
「前方、見えぬ遠さより、矢が降ったと。届くはずの無い間合いから、次々と。盾も、鎧も、意味を成さなかったと」
評定の間の誰かが、馬鹿な、と漏らした。届くはずの無い間合い。そんな弓が、そんな矢が、あるものか。
「それだけでは、ございませぬ」
聖職者の声が、震えた。
「混乱の最中——背後より、鉄の巨人が現れたと」
静寂が、深くなった。
「四つ足の、鉄の獣。地を踏み、陣の後ろより突き入ったと。何処から湧いたのか、誰も見ておらぬと。ただ、気づけば後背に在ったと——」
兵の証言は、要領を得ていなかった。前から届かぬ矢、後ろから湧く鉄の獣。恐慌の中で見た幻だと、笑い飛ばせる者が居れば良かった。だが、笑う者は居なかった。3000が戻らず、伯が討たれた。その事実が、譫言を譫言で済ませなかった。
ロロルだけが、戦況の分析に頭を働かせていた。
前方の、届かぬ矢。後背の、鉄の獣。
譫言ではないとすれば。
ロロルの脳裏で、断片が繋がっていく。ドラグロードには、竜が居る。ものを作る竜。鉄を、獣を、形あるものを意のままにする存在。先の戦いでゴーレムや突撃車両を生み出し、自分が危ういと判じ上申した、あの竜。
届かぬ間合いの矢も、湧き出る鉄の獣も、あの竜の手のうちであれば。
——あの竜が、新たな獣を生み出したのか。四足の鉄の獣というのも、ゴーレムの類ではないのか。
ロロルは、膝の上で拳を握った。気づいてしまった。気づいたことを、この場で言うわけにはいかなかった。言えば、余計なことになる。眼であり続けるには、目立つわけにはいかない。
それが、残った者の務めだった。
評定の間が、混迷していた。届かぬ矢、鉄の獣。あり得ぬことが、5000を砕いた。その不条理を、誰もが持て余していた。
その時、文を読む聖職者が、最後の一節に目を落とした。
「……今一つ、報がございます」
声が、これまでで最も低かった。
「先陣を務めし、トビアス・フォン・ベルク殿——」
ロロルは、顔を上げた。
捕らえて参る、と言った男。傷の無い胸甲を張った、あの若い男。
聖職者が、言葉を選ぶように続けた。
「捕らわれ、敵の手に落ちたとの由。なれど——既に、解き放たれ、ヴェークシャイトへ戻りつつあると」
評定の間が、訝しんだ。捕虜が、解放された。敗軍の将が、敵の手から戻ってくる。あり得ぬ温情だった。
「敵は、何故に放った」
ザルカニスが、問うた。
聖職者が、文の最後の行を読んだ。
ロロルには、その一行が来る前に、分かった気がした。届かぬ矢で射倒し、鉄の獣で背を突き、半数を砕いておきながら、捕らえた将を解き放つ。殺さず、生かして帰す。その意図が、繋がってしまっていた。
恐怖を、持ち帰らせる為に。
殺された3000より、生きて戻る2000余りの方が、神聖国を蝕む。届かぬ矢を見た者、鉄の獣を見た者が、2000、国へ帰る。その目に宿った恐怖が、軍中に広がっていく。それこそが、あの竜の——
文を読む聖職者の声が、評定の間に通った。
「捕虜を解き放ちしは、敵将の名において、と」
「敵将」
ザルカニスが、繰り返した。
「ドラグロードの、何者か」
聖職者が、文の文字を、一字ずつ読み上げた。
「ドラグロード王国、第一王女——メルフィーナ・フォン・ドラグロード。守護竜の契約者、その御名において、捕虜は既に解放されたと」
評定の間が、声を失った。
王女。敵国の、第一王女。その名のもとに、5000は砕かれ、伯は討たれ、捕虜は解き放たれた。
ロロルの胸を、冷たいものが通り抜けた。
敵将が、王女。竜ではなく、人の名が立っている。竜は、姿を見せていない。前面に立っているのは、ドラグロードの姫君。届かぬ矢も、鉄の獣も、その名のもとに振るわれ、そして慈悲も、その名のもとに下された。
恐るべきは、最前線の城塞都市に王女自らが立ち、圧勝せしめた事実。この戦を描いた者は、この勝ち筋が、初めから見えていた。
これは、ただの敗北ではない。
神聖国は、女神の名を掲げて出た。邪竜を討ち、奪われた地を取り戻す、聖なる戦と称して。その軍が、敵国の姫君の名のもとに砕かれ、姫君の名のもとに生かして帰された。
女神の名が、王女の名に、敗れたかのごとく。
戦術の負けに見えて、そうではない。これは、戦略の敗北だった。攻め方を誤ったのではない。そもそも、勝てる戦ではなかったのだ。
評定の間の聖職者たちが、その意味に、少しずつ気づき始めていた。顔から血の気が引いていく。聖戦の旗の下で、神聖国は慈悲すら敵に握られたのだ。
ザルカニスだけが、静かだった。
窪んだ眼が、文の一点を見ていた。何を考えているのか、その横顔からは読めなかった。
評定の間が、ざわめきを取り戻していた。次の手を、報復を、口々に論じ始める者。聖戦の旗をどう保つかを案じる者。トビアスの帰還をどう扱うかを問う者。
ロロルは、それらの声を、遠くに聞いていた。
---
評定が解け、ロロルは廊下に出た。
窓の外に、夕暮れが落ちていた。聖都の屋根が、橙色に染まっている。あの夜、彼女を見送った時と、同じ色の空だった。
ロロルは、北東の空を見上げた。
メルフィーナ・フォン・ドラグロード。届かぬ矢と、鉄の獣と、慈悲を併せ持つ国。あの方角で、5000が砕かれた。亡命の道は、戦場とは異なる経路を取る。重なってはいない、はずだった。
「……御無事で」
声に出さず、唇だけが動いた。
夕暮れの空に、星が一つ、最初の光を点していた。
第三十八話・了
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