第三十五話 ”面影”
聖都ゴッテスベフェール。
朝の祈祷の鐘が、いつもと同じ様に鳴った。
リーディアは王城東翼の回廊を歩いていた。供は連れていない。今日だけは一人で歩きたいと願い出て、許された。
今日が、最後。そう思うと胸が締め付けられる。
夜が更ければ、この城を出る。ミカルと共に東へ向かい、国境を越えハルトアイゼンへ、二度と戻れないかもしれない。戻れるかどうかは、誰にも分からない。だからリーディアは、歩いていた。生まれてから十八年を過ごした城を、目に焼き付ける為に。
回廊の石柱に、朝の光が当たっている。子供の頃、この石柱の影を数えながら歩いた。
リーディアは足を止めて、柱の連なりを見た。
ここで、ロロルと並んで歩いた事があった。
まだ二人が幼かった頃だ。神官見習いのリーディアと、騎士見習いのロロル。
柱の影から影へ飛び移る遊びをして、神官長に見つかって叱られた。
私が言い出したのにロロルが「私が誘いました」と庇って、一人で罰を受けてくれた思い出。
リーディアは目を伏せた。
──どこを見ても、彼が居る。
回廊を進む。中庭が見えてきた。噴水の縁に腰掛けて、二人で本を読んだ。彼は文字を覚えるのが遅くて、リーディアが教えてあげた。庭の隅の古い樫の木。あの木の下で、彼が初めて剣の型を見せてくれた。まだ細い腕で、それでも真剣に振って「いつか私を守る騎士になる」と言っていた。
景色の一つ一つに、彼が居る。
焼き付けようとするほど、彼が蘇る。
昨日の別れが、まだ胸中に残っていた。何も言わなかった彼の、最後に下げた頭。扉の向こうに消えていく彼の後ろ姿、堪える事をやめて泣いた自分。あれから、まだ一日も経っていない。
胸の奥が、また熱くなった。
リーディアは立ち止まり、目を閉じた。
長い瞬きをして、息を整える。
泣くわけにはいかない。今日の自分は、いつも通りでなければならない。
神官として、王女として、何も知らない顔で一日を過ごす。誰にも何も悟られてはならない。それが共に行くミカルと残るロロルと、逃がしてくれる父の、全員を守る事だった。
リーディアは目を開けた。
回廊の先へ、歩き出す。
その時だった。
回廊の角の向こうから、人の声と足音が近づいてきた。複数の足音。その中に聞き慣れない、軽い声が混じっている。
「へえー、ここも広いなあ。ねえ、この奥って何があるの?」
女の声が、いくつか答えた。城付きのメイド達だ。
リーディアは足を止めた。
角を曲がって現れたのは、若い男だった。痩せた体つき。年の頃はリーディアと変わらないだろう。神官でも騎士でもない、見慣れない仕立ての服を着ている。その後ろに、メイドが四人、付き従っていた。
どこの貴族のお坊ちゃんかと思ったら、偽勇者だった。
神学局の地下から、いつの間に出てきたのか。物見遊山のように城を歩き回っている。
リーディアの背筋が、わずかに冷えた。
男はリーディアを見つけると、足を止めた。そして、顔をほころばせた。
「あっ、君は」
男の目が、リーディアの頭から爪先まで、ゆっくりと動いた。
髪を見て顔を見て、首筋を見て、体の線を辿るように下りていく。値踏みするのでも、舐めるのでもない。もっと無造作な、当たり前のものを確かめるような目だった。
リーディアは動かなかった。
ただ、心の中で何かが一段、冷えた。
「君が、リーディア様だよね。僕の、お嫁さんになる」
男は、屈託なく笑っていた。
「いやー、噂以上だな。すっごい綺麗だし、なんか気品っていうの? そういうのある人なんだね」
リーディアは、両手を前で重ねた。
神官の、正しい立ち姿。
「……お初に、お目にかかります」
声は、乱れなかった。
「あ、そういう堅いの、いいよいいよ。どうせ夫婦になるんだしさ。勇者なんでしょ僕、なんか偉いらしいし」
男はそう言って回廊を見回した。
「いやー、それにしても本当に異世界なんだなあ。お城に住めて、メイドさんも居て、可愛いお嫁さんまで付いてくるって、なんかもう勝ち組すぎない?」
メイド達は、何も言わずに控えている。
「僕さ、向こうじゃ全然パッとしなかったんだよ。でもこっち来たら勇者様だってさ。異世界転生のテンプレじゃ女神様に会うもんだけど誰とも会わなかったなぁ。」
リーディアは、男の顔を見ていた。
彼の言動は不可解ではあったし名乗りもしないが、悪意は無いのだろう。
それが、たちが悪かった。
この男は、自分が何を言っているか分かっていない。
聖戦の名の下に何が起きているかも、女神召喚の意味も、勇者という言葉の重みも、何一つ。
ただ与えられた立場を、降ってきた幸運として無邪気に受け取っている。
(……まがい物)
リーディアの内心で、その言葉が静かに置かれた。
女神を経ていない。聖剣を使えない。魔剣と薬で作られた、勇者の形をした粗悪品。
それを、この男は知らない。知らないまま勇者を名乗り、女神の名を口にし、王家の娘を「嫁」と呼ぶ。
冒涜だった。
リーディアが守ってきたもの、リーディアの血が継いできたもの、その全てを、この男は無邪気に踏みにじっている。踏んでいる事にすら、気づかずに。
胸の奥が、熱くなりかけた。
リーディアは、それを必死に抑えた。
ここで何を表に出してもいけない。この男に不審を抱かせれば、それが教皇派の耳に入るかもしれない。今夜の事を、危うくするわけにはいかない。
我慢する。
リーディアは、わずかに首を傾けた。神官の、祝福を示す所作。
「勇者様の御武運を、女神にお祈り申し上げます」
男は、嬉しそうに笑った。
「お、なんかいいねそれ。やっぱ本物の王女様って感じ。よろしくね、リーディア。」
この僅かな時間で無遠慮に私の名を呼び捨てにした。
そして、メイド達を振り返った。
「ね、次どこ行く? 屋上とか登れる?」
メイド達が、男を案内して歩き出す。男は一度もリーディアを振り返らず、軽い足取りで回廊の奥へ消えていった。
足音が遠ざかる。
リーディアは、しばらく動かなかった。
回廊に、一人になった。
朝の光が、さっきと同じ角度で、石柱の影を落としている。
リーディアは、ゆっくりと息を吐いた。
体の中に溜まったものが、息と一緒に少しだけ抜けていく。それでも、全部は抜けなかった。
(……あれが、私の夫になるはずだったと思うとぞっとする)
リーディアは、目を閉じた。
あの空の器に、自分は嫁ぐはずだった。女神との約束を継ぐ自分が、女神を騙る偽物の妻にされる。それが、王室派の最後の防衛線が破られるという事だった。
だから、逃げる。
リーディアは目を開けた。
まがいものの偽勇者の事は捨て去って歩き出す。回廊の先へ。
焼き付けるべき場所は、まだ残っていた。
父の執務室の前に立ったのは、昼を過ぎた頃だった。
護衛の騎士が一礼し、扉を開ける。
ローレンツ・フォン・ゼーレンハイムは、机に向かっていた。
書類を捌いている。普段と変わらない、王の務めだった。
リーディアが入ると、王は顔を上げた。
「リーディアか」
「お父様」
王は筆を置いた。そして、立ち上がった。
机を回って、娘の前まで歩いてくる。
二人は、向き合った。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
「……支度は」
「整っております」
「そうか」
王は頷いた。それから、娘の顔を見た。じっと、覚えておこうとするように。
リーディアも、父の顔を見た。
言いたい事は、たくさんあった。けれど、言ってはならなかった。
「リーディア」
「はい」
「達者で、な」
リーディアの目に、熱いものが滲んだ。
堪えた。
「……お父様も」
それ以上は、続かなかった。
王が、手を伸ばした。娘の頭に、一度だけ触れた。大きく、節くれだった手だった。
「行きなさい」
リーディアは、深く頭を下げた。
そして、顔を上げ扉へ向かう。
扉に手をかけた所で、一度だけ振り返ろうとして──やめた。
振り返れば、崩れる。涙が我慢できなくなってしまう。
リーディアは、扉を開けて廊下に出た。
扉が閉まる、低い音がした。
午後の光が、聖都の屋根に降りている。
リーディアは、居室の窓辺に立っていた。
窓の外に、聖堂の白い塔が見えた。幼い頃から、毎日見上げてきた塔。
夜になれば、この景色とも別れることになる。
胸の中は、不思議と静かだった。朝の熱も、あの男に対した時の冷えも、今は遠い。残っているのは、これから始まる長い旅と、置いていく全てへの静かな思いだけだった。
ロロル。お父様。生まれた城。見上げてきた塔。
全てを心にそっと納めた。
リーディアは、窓辺を離れた。
夜を、待つ。
第三十五話・了
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