第三十四話 「お元気で」
聖都ゴッテスベフェール。
聖堂の鐘が二度鳴る。昼の祈祷の終わりを告げる鐘だった。ロロル・ヴェントは王城西翼の長い回廊を歩いていた。
数ヶ月前のあの夜、ミカル副将は「自分は逃げる訳にはいかん」と告げた。ロロルはそれを受け入れなかった、受け入れたくなかったと言った方が正しいかもしれない。翌朝、彼は王の執務室に上がった。王は黙って話を聞き、最後に一言だけ告げた。「私が話そう・・・。」
その日の午後、ロロルはリーディア王女にも会った。ロロルが何を始めようとしているかを、彼女は察していた。ただ「貴方を、信じます」とだけ言った、少し困った様な切ない彼女の顔を覚えている。
「副将ミカル・フォン・ヘルムシュタットに命じる。第一王女リーディアを伴って、亡命せよ」——王の口から出たその言葉にミカルは一瞬喉まで言葉が出そうになっていたが、目を閉じて深く頭を下げた。
そして準備が始まった。
亡命ルートはハルトアイゼンでアイゼン王に話を通し潜伏。ドラグロードを経由し連邦へと逃げる計画だ。連邦まで逃げてしまえば、ドラグロードが壁となって追う事も困難になるだろう。
教皇派に気付かれない経路の選定、信頼出来る護衛の選別、教皇庁の監視を逸らす偽装、王城内の偽装書類、亡命後の王室派の体制——全てを並行で進めた。教皇派の眼を避ける為に、ロロルが表立って動く事は出来ない。彼は中枢の若手として、教皇派にも顔が利く立場にある。その立場を使って情報を集め、人を動かし、亡命の道筋を整えた。
その間に、神聖国の中で別の動きが進んでいた。
異世界召喚魔法の研究は、教皇派の神学局が三年前から続けていた。本来の女神召喚が失敗した後、教皇派は別の手段で「勇者」を作る事を選んだ。女神の選定を経ず、ただ異界から人間を引き摺り出して、魔剣と強化薬と身体改造で底上げする。神学局はそれを「偽勇者」とは呼ばない。「女神様の御加護を受けた、新たな勇者」と呼ぶ。
その召喚が、二ヶ月前に成功した。
異界から引き摺り出された青年が、神学局の地下訓練場で訓練を受けている。年齢は十六か十七、痩せた体つき、何処にでもいる少年の顔。だが瞳の奥には既に何かが沈み始めていた。神学局の神官達が彼に何を言い聞かせているか、ロロルは大体察している。
そして彼の妻として——リーディアが差し出される予定だった。
それが、亡命の決定打になった。
リーディアが偽勇者の妻となる定めは、王室派にとって最後の防衛線だった。ここを譲れば、王室派は完全に教皇派の手駒になる。リーディアの体は教皇派の儀式に使われ、彼女の名は教皇派の正当性の道具にされる。
王は娘を渡さない選択をした。
亡命は明日の深夜、決行される。
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ロロルは王城西翼の廊下を歩きながら、窓の外を一度見た。
春の終わりの聖都が、午後の光の中にあった。聖堂の白い塔、回廊の石柱、屋根の連なり。普段と変わらない景色。
明日の今頃、この景色は変わる。リーディアとミカルがこの城を去る。ロロルは残る。
彼は廊下を進み、王の執務室の扉の前に立った。
護衛の騎士が一礼する。
「王がお待ちです」
ロロルは頷き、扉を押した。
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執務室には、王とミカル副将が居た。
王、ローレンツ・フォン・ゼーレンハイム。年齢は五十代の半ばだった。背丈は中肉、白髪が混じった髪は短く整えられている。顔には深い皺が刻まれていた。神聖国王家の当主、教皇派の傀儡として三年を過ごした男。
机の上に地図が広げられていた。亡命ルートの最終確認だった。
ミカルが顔を上げ、ロロルに視線を送った。短い視線だった。
王が口を開いた。
「来たか」
「お召しに従いまして」
ロロルは机の前に進み、王とミカルの間に立った。
王は地図を見続けていた。指で東への街道を辿り、ハルトアイゼンとの国境の山岳路を確認していく。ミカルが王の指の動きを見ながら、必要な所で短く補足を入れた。
「国境のここ、警備が薄れる時間帯を確認しました。深夜二時から三時の間、巡回が交代します」
「うむ」
「ハルトアイゼン側に既に話は通してあります。先方の国境警備、見て見ぬふりをすると」
「アイゼン王の判断か」
「左様です。」
王が頷いた。指が地図から離れた。
「ミカル」
「は」
「くれぐれもリーディアを、頼む」
「拝命致します」
ミカルが深く頭を下げた。
王の視線がロロルに移った。
「ロロル」
「は」
「お前は・・・、残れ」
「畏まりました」
ロロルは頭を下げた。
王の視線がロロルの下げた頭を見詰めていた。短い沈黙があった。ミカルが視線を伏せた。
「王室派の眼として、中枢に居続けよ」
「ご命令、しかと承りました」
「教皇派は、お前を始末しに来るかもしれぬ」
「覚悟の上で御座います」
王は頷いた。
王が地図を畳んだ。
「では、明日」
ミカルが深く頭を下げた。ロロルも頭を下げた。
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執務室を出てから、ミカルとロロルは並んで廊下を歩いた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
聖堂の鐘が三度鳴った。午後の遅い時刻を告げる鐘だった。
ミカルが、廊下の中ほどで立ち止まった。
ロロルも止まった。
「ロロル」
短くそう呼んだミカルは振り向きもせず続けた。
「死ぬな。何があっても」
ロロルは答えなかった。
ミカルが少しだけ顔を傾けた。横目でロロルを見た。
ロロルは黙って頭を下げた。
「行け」
ミカルが背を向けた。長い廊下の向こうへ、ゆっくりと歩いて行った。
ロロルはその背中を見送った。
師の背中だった。ロロルが軍に入って十年、ずっと見続けてきた背中。明日の夜、その背中が聖都を去る。彼を見送る事は出来ない。
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王城東翼の最奥に、リーディアの居室があった。
ロロルは扉の前に立っていた。
護衛は二人。王室派の信頼出来る兵だった。ロロルが頷くと、二人は静かに礼をして、廊下の角まで下がった。扉の前の空間に、二人だけになる時間を作ってくれた。
ロロルは扉を、軽く三度叩いた。
「お入りなさい」
中から、リーディアの声がした。
居室は静かだった。窓から午後の光が斜めに差し込み、絨毯の上に長い影を落としていた。机の上に開かれた本が一冊。窓辺に小さな花瓶。それ以外、目立つ物は無い。亡命の準備の為に、私物の多くは既に整理されていた。
リーディアは、窓辺に立っていた。
ロロルと同年代、メルフィーナよりも僅かに年上の少女。神官系の白いローブを羽織り、長い銀の髪を後ろで結っている。神官としての気品が、立ち姿の全てに現れていた。彼女は窓の外を見ていた。
ロロルが扉を閉めた音で、リーディアが振り返った。
「ロロル」
「リーディア様」
「こちらへ」
ロロルは部屋の中ほどまで進み、立ち止まった。リーディアが窓辺から離れ、彼の前まで歩いて来た。三歩の距離で、二人は向き合った。
リーディアが、ロロルの顔を見ていた。
短い沈黙があった。
ロロルが口を開いた。
「お元気で」
リーディアの目が、一度大きく開いた。それから、ゆっくりと閉じられた。
長い瞬きだった。
目を開けた時、彼女の瞳には光が滲んでいた。
「……はい」
リーディアが、震える声で答えた。
「貴方も、どうかお元気で」
二人の間に、また沈黙が落ちた。
リーディアが、ロロルの顔を見ていた。何かを言おうとして、言わなかった。
ロロルも、彼女の顔を見ていた。何かを伝えようとして、伝えなかった。
伝えれば、それは彼女の重荷になる。亡命先まで、その言葉を抱えて生きる事になる。彼が言わなければ、彼女は彼を「過去」として置いて行ける。
それが、彼の最後の選択だった。
「ロロル」
「は」
「ありがとう御座いました」
リーディアの肩が震えた。立っているのが精一杯の姿だった。
ロロルは、動かなかった。彼女に触れたかった。手を伸ばせば届く距離だった。だが、そうしなかった。触れれば、彼女が崩れる。崩した責任を、彼が負える日は来ない。
リーディアは涙を堪えて目を閉じた。何も言えない自分にも、何も言ってくれないロロルにも頭が理解してしまう自分が悔しくて仕方なかった。心は搔きむしられた様に疼くのに、頭は冷静に理解している。
やがてリーディアが、顔を上げた。
彼女はロロルの顔を見た。
「……ロロル」
「は」
「最後に一つだけ、お願いがあります」
「何で御座いましょう」
「貴方の名を、もう一度呼ばせて下さい」
ロロルは、頭を下げた。
リーディアはゆっくりと、噛みしめる様に彼の名を呼んだ。
「ロロル・ヴェント」
声は、震えていた。
「貴方の名を、私は忘れません」
「……ありがたく」
ロロルは深く頭を下げた。
そして顔を上げ、扉の方へ向き直った。
扉に手をかけた所で、彼は一度だけ、振り返った。
リーディアは一瞬身体が前に動きそうになって堪えた。
ロロルは何も言わずに、頭を下げた。
そして扉を開け、廊下に出る。
扉を閉める音が、低く低く響いた。
廊下に出た所で、ロロルは一瞬だけ、扉の前に立ち止まった。
扉の向こうから、嗚咽が漏れていた。抑える事を諦めた、子供の様な泣き声だった。
ロロルは目を閉じた。
長い瞬きの後、彼は廊下を歩き出した。
護衛の二人が、彼の背中に静かに敬礼を送った。
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王城を出た時、聖都の空は夕暮れに染まり始めていた。
聖堂の塔が、橙色の光を受けて長い影を落としている。鐘が、夕の祈祷を告げて鳴り始めた。
ロロルは石畳の道を、宿舎へと歩き出した。
明日の今頃、彼はここに居る。職務を遂行し、上官に報告を上げ、教皇派の集まりに顔を出す。普段と何も変わらない一日を過ごす。リーディアとミカルが城を出る時、彼は別の場所で別の人間と会話をしている。それが彼のアリバイになる。
夜が更ければ、二人は東へ向かう。ハルトアイゼン国境を越えていく。
ロロルは振り返らなかった。
聖都の道は、人通りが少なかった。春の終わりの風が、彼の髪を揺らした。
宿舎の前まで来た所で、彼は空を見上げた。
夕暮れの空に、星が一つ、最初の光を点していた。
第三十四話・了
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