第十八話 神聖国の光と闇
聖都ゴッテスベフェールの石畳を、ロロルは深く被ったフードの下から見つめていた。冬の終わりの風が、街路を抜けていく。
帰国して3日。本国の空気は、ドラゴノートに居た頃と変わらないように見えた。
だが、街路を歩く神官の数が増えている気がした。気のせいではないだろう。
ロロルは、王室区画への裏路地を選んで歩いた。正面から入る訳にはいかない。教皇庁の目は、王都の至る所にある。
待ち合わせの場所は、王室派の重鎮ヴァルザン伯爵の私邸。だが、伯爵の屋敷に直接入る訳にもいかない。裏手の聖具師の工房を経由して、地下通路で繋がる勝手口から入る——そう指示されていた。
聖具師は、無言でロロルを通した。工房の奥、棚の裏に、目立たない木戸がある。木戸を抜けると、石造りの細い階段が地下へ降りていた。
階段の先で、ロロルは別の人物と合流した。
「ロロル」
「副将殿」
低い声で、短く挨拶を交わす。
ミカル副将は、軍装ではなく、地味な貴族服に着替えていた。顔の剃り跡が綺麗になっている。ドラゴノートに居た頃の、隈と疲労を抱えた指揮官の姿は、そこに無かった。
「お変わりありませんか」
「無い。お前は」
「無事に着きました」
「結構」
二人は、地下通路を進んだ。通路の先に、扉が一つ。扉の向こうから、薄暗い灯りが漏れていた。
◇
伯爵の書斎は、地下にあった。壁一面の書架。中央に重厚な木の机。机の周りに、深い色の革張りの椅子が4脚。
そのうちの1脚に、白髪混じりの貴族が座っていた。ヴァルザン伯爵。王室派の中核の一人。現王の母方の遠縁にあたり、王の信頼が厚い人物だ。
「よく戻った、ミカル殿。ロロル殿」
伯爵の声は、低く、穏やかだった。だが、その穏やかさの奥には、明らかに疲弊した政治家の重さがあった。
「お時間を頂きましたこと、感謝いたします」
ミカル副将が頭を下げた。ロロルも倣う。
「座られよ。報告を聞こう」
二人は椅子に座った。机の上には、湯気の立つ茶。だが、誰も口を付けなかった。
ロロルが、口を開いた。
「副将殿、まず私から」
「うむ」
伯爵が頷いた。ロロルは、息を整えて、語り始めた。
ドラゴノート奪還戦の経緯。火柱3本が立った深夜。無人で走り出した3両の鉄塊が、東門を粉砕した光景。夜空から降り注いだ100体近い鉄の騎士。それらが「軍事施設のみ」を正確に狙い、住宅街には一切の被害を出さなかったこと。そして上空に旋回していた、4枚翼の小さな影。
ロロルの声は、淡々としていた。私情を交えず、事実だけを並べていく。だが、その淡々さが、却って報告の重みを増していた。
ヴァルザン伯爵は、終始無言で聞いていた。途中、何度か目を伏せた。最後の方では、深く、息を吐いた。
ロロルが報告を終えると、伯爵はゆっくりと茶を口に運んだ。冷めた茶を、半分ほど飲んだ。それから、低く言った。
「……ご苦労だった」
「は」
「お前の見立てを聞こう」
ロロルは、一度、ミカルを見た。ミカルは、目線で先を促した。
「閣下。これは、戦争の在り方そのものが変わる兆しでございます」
伯爵の目が、僅かに上がった。
「兵を育てるには10年、15年と時間がかかります。家族も、訓練も、装備も、整える必要がある。ですがゴーレムは、設計さえ確立すれば、後は材料と時間だけの問題です。死を恐れない、士気が崩れない、給与も家族も要らない兵が、量産されます」
「……」
「100体が一夜にして降りました。1年後、それは1000体かもしれません。3年後、1万体かもしれません」
伯爵は、また茶を口に運んだ。
「ロロル殿」
「は」
「お前の言う通りだ」
「は」
「だが——お前の報告は、我々の抱える別の問題と、繋がっているかもしれん」
ロロルが、首を傾げた。
「別の問題、と申されますと」
「召喚の儀の件だ」
書斎の空気が、変わった。
「閣下、それは——」
「成立した、と教皇庁は発表した。だが、勇者の姿を見た者が居ない」
伯爵は、机の上で両手を組んだ。
「召喚の場に立ち会ったのは、教皇派の中枢のみ。我々王室派には、儀の成立を口頭で告げられただけだ。召喚された勇者は、どこに居るのか——その問いに対する明確な答えが、無い」
ロロルが、息を呑んだ。
「では、勇者は」
「分からん」
「失敗、ですか」
「分からん、と言っている」
伯爵は、声を低くした。
「召喚そのものが失敗したのか。成立したが、勇者がどこかへ消えたのか。あるいは——」
伯爵は、そこで言葉を切った。ロロルとミカルの顔を、交互に見た。
「あるいは、教皇派が何かを隠しているのか」
「……」
「我々王室派は、その全てを疑っている」
ミカル副将が、静かに頷いた。
「閣下。お訊ねしてもよろしいですか」
「うむ」
「教皇派は、今後どう動きますか」
「それだ」
伯爵は、机の引き出しから、一通の書状を取り出した。
「これは、王室派の密偵が拾った断片情報だ。確証は無い。だが、教皇庁内で、ある動きが始まっている」
伯爵は、書状を二人に向けて広げた。
「勇者の影武者を立てる準備だ」
ロロルの顔が、強張った。
「閣下、それは——」
「偽の勇者を立てる、という意味だ」
「神聖国全体に、偽物を本物として——」
「そう扱わせる。それが教皇派の現在の方針らしい」
書斎が、静まり返った。
ミカル副将が、低く呟いた。
「大義のためですな」
「うむ。真の勇者が居ない状態では、ドラグロードへの大規模侵攻は正統性を保てん。神聖国全体を動員する以上、女神の代理人——勇者の存在が前提だ」
伯爵は、書状を畳んだ。
「教皇派は、ドラグロードに大規模な軍を送りたい。送らねば、ドラグロード側の脅威が拡大する一方になる。だが勇者が居ない。よって、偽物を本物として立てる」
「……」
「これが事実なら、神聖国は、最も重い嘘の上に立つことになる」
ロロルが、両手で顔を覆った。
ミカル副将が、机を見つめたまま、声を絞り出した。
「閣下」
「うむ」
「王女殿下は」
書斎の温度が、また一段下がった気がした。
伯爵が、目を伏せた。
「リーディア王女は、17だ」
「……」
「召喚された勇者には、王家の娘が与えられる。それが慣例だ」
「偽勇者にも、ですか」
「神聖国の前では、本物の勇者として扱われる以上、当然そうなる」
ロロルが、顔を覆ったまま、長く息を吐いた。伯爵は、その姿を見て、目を伏せた。
「ロロル殿。お前が王女殿下の幼馴染であることは、私も知っている」
「……」
「だが今、この場で出来ることは、無い」
「……承知しております」
長い沈黙が、続いた。
伯爵が、立ち上がった。書架の前まで歩き、一冊の古い書物を取り出した。革表紙の、聖典の写本。
「これは王家所蔵の聖典の写本だ。教皇庁の聖典とは別系統の、王室派が独自に保管してきた写本」
伯爵は、ある頁を開いた。
「ここに、こう書かれている」
伯爵は、低く、朗読した。
「『始祖竜の眷属、世に悪しき影を成すことあれど。古代の竜、女神の徴を帯び、世に顕現することあり。その竜、人ならぬ姿を持ちて、人の倫理を語り。人ならぬ力を持ちて、人の世を護る。これを守護竜と呼ぶ』」
書斎が、再び静まり返った。
「ロロル殿、お前の報告と、この記述を、照合せよ」
「……」
「『人の倫理を語り』」
「奪還戦であって、制圧戦ではありませんでした」
「『人ならぬ力を持ちて』」
「100体のゴーレムを、虚空から降らせました」
「『人の世を護る』」
「……ドラゴノート市民は、一人も犠牲になっておりません」
ヴァルザン伯爵は、聖典の頁を、ゆっくりと閉じた。
「諸君。我々王室派は、極めて慎重に動かねばならん」
伯爵は、机に戻り、二人を見た。
「教皇庁は、ドラグロードの竜を『始祖竜の眷属』と断じたがる。あれを邪悪な存在と認定すれば、偽勇者を立ててでもの聖戦の正当性が確保される。教皇派にとって、政治的に都合がいい解釈だ」
「は」
「だが、もしあれが本物の古代竜であった場合——女神信仰の根幹に関わる。我々が女神に従う者を敵に回したことになり、聖戦の正当性そのものが瓦解する」
「……」
「真偽の判別が、急務だ。だが、教皇派はそれを許さん」
伯爵は、机の上で両手を組んだ。
「教皇派は『判別不要、即討伐』を主張する」
「……はい」
「我々王室派は『判別優先、戦闘は最小限』を主張する」
「……」
「この対立の決着は、簡単には付かん」
伯爵は、二人を交互に見た。
「ロロル、お前は」
「は」
「表向きは、訓練教官として軍学校に配属させる。閑職だが、生きていられる」
「は」
「裏では、私の手駒として動いてもらう。情報の収集と整理。それが、お前の本当の任務だ」
「承知しました」
伯爵が、ミカルに目を向けた。
「ミカル殿、お前は」
「は」
「王室警護に配属が決まった。表向きは、辺境の失態を悔いた老将の閑職任務。裏では、王の身辺と、王宮内の教皇派の動きの監視」
「拝命いたします」
伯爵は、二人を深く見つめた。
「我々は時間を稼ぐ。ドラグロードの守護竜が本物の古代竜か否か。本物ならば、いかに付き合うべきか。教皇派の暴走を、いかに抑えるか。偽勇者の正体を、いかに暴くか——それを見極めるまで、時間が要る」
「は」
「諸君。次の数ヶ月で、我が国の進路は決まる」
二人は、深く頭を下げた。
◇
書斎を出ると、地下通路の冷気が、ロロルの頬を撫でた。聖具師の工房を抜けて、伯爵邸の地上階の廊下に出る。ここは表向きの来客が通る区画。ロロルは、ヴァルザン伯爵に正式に呼ばれた軍人として、玄関へ向かう体裁を取らねばならない。
廊下を歩いていた、その時。
向かいから、神官服を纏った若い女性が、伯爵邸の侍女に伴われて歩いてきた。胸元には、王家の徴。
ロロルの足が、止まりかけた。慌てて居住まいを正し、廊下の脇に寄って、深く頭を下げた。
足音が、近付いてくる。すぐ目の前で、止まった。
「……ロロル」
低く、しかし確かな声が、ロロルの名を呼んだ。ロロルは、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、リーディア・フォン・ゼーレンハイム王女が立っていた。栗色の髪。真っ直ぐな視線。神官服の白い襟が、彼女の細い首を包んでいた。
最後に間近で見たのは、何年前だっただろうか。
「殿下」
ロロルは、儀礼通りの挨拶を返した。
「お久しゅうございます」
「ええ。ご無事のお戻り、何より」
「は」
リーディアの目が、ロロルの顔を、一瞬だけ見つめた。ほんの一瞬だった。そして、すぐに視線を逸らした。
「……失礼いたします」
リーディアは、軽く頷くと、侍女と共に、廊下の奥へと去っていった。神官服の裾が、石床を擦る音が、徐々に遠ざかっていく。
ロロルは、廊下の脇に立ち尽くしたまま、頭を下げ続けていた。彼女の足音が完全に聞こえなくなってから、ようやく顔を上げた。
……変わっていない。
それから、彼自身もまた、玄関へと歩き出した。
◇
廊下の奥、伯爵邸の小さな祈祷室で。リーディアは、女神像の前に膝をついた。両手を組み、目を閉じた。
だが、祈りの言葉が、出てこなかった。胸の奥で、何かが、ぎゅっと締め付けられていた。
……ロロル。
最後に話したのは、いつだっただろうか。あれは、まだ12か、13の頃。聖具師の工房の裏庭で、二人で枯葉を踏みながら、何でもないことを話していた。
それから、自分は神官の道に入った。彼は、軍人の道に入った。二人の道は、別の方向に分かれた。
そして、自分は17になった。時間が、足りない。
リーディアは、組んだ手に、わずかに力を込めた。
……あの方は、無事で。それだけでいい。
それは、祈りではなく、独白だった。だが彼女は、女神像から目を逸らさなかった。胸の奥の締め付けは、暫くの間、消えなかった。
◇
同じ頃。聖都の中心、教皇庁の私室にて。
教皇ザルカニスは、書状を机に置いた。齢70を超える老人だった。だが、その目には老いの濁りが無かった。むしろ、若年の頃よりも研ぎ澄まされた光があった。
机の上の書状には、ドラグロードからの密偵の報告が記されていた。
——ドラグロード守護竜への命名の儀、近日中に挙行予定。
ザルカニスは、その文字を、何度か読み返した。低く、口の中で繰り返す。
「とうとう、銘を手にするか、守護竜め」
声には、複数の感情が混ざっていた。焦り、そして、冷たい笑い。
「銘を持つ、ということは、対象が明確化したということだ。これで、討伐の目標が定まる」
そして、笑いが消え、焦りだけが残った。
「だが——銘を持つということは、奴等が体制を固めつつあるということでもある」
ザルカニスは、立ち上がった。窓辺に立ち、聖都の街並みを見下ろす。
「勇者の準備を、急がねばならん」
教皇は、独り言のように呟いた。
「偽物でも、構わぬ。本物として立てさえすれば、神聖国は動く。動かさねば、ドラグロードに食われる」
教皇は、窓から目を逸らし、机に戻った。別の書状を取り出す。そこには、候補者の名前が、いくつか書き連ねられていた。
教皇は、その一覧を、無表情で眺めた。
「……時間は、無い」
教皇の独白は、誰にも届かなかった。
第十八話・了
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