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1.幼い頃の記憶と砂漠の夜

 








「ああ。とんでもなく、厄介な依頼だった…………!! くそっ」




 これじゃあ、踏んだり蹴ったりだろう。強烈な陽射しを遮るための黒いローブも、夜となった今ではただただ邪魔になるばかりで。



 足元の砂が滑ってゆく、真夜中の砂漠はこんなにも明るい。



 どこまでも雄大な黄金色の砂丘がいくつも連なって、まるでずっとずっと同じ場所で彷徨っているような気がする。



 さらさらと黄金のような砂粒が流れ落ちて、辺り一面が満月に照らされている。そして身も凍るような寒い砂漠の夜で、背後の暗がりから追いかけてくるものは。




「お待ち。お前だけでも楽になろうと言うのかい? 馬鹿げた子だよ。お前は所詮、こちら側でしかないのに…………」




 息を荒げて走っている。あいつに追いつかれぬように、自分が生きていけるように。




「はっ、はっ、くそっ、このままじゃあ、ジリ貧か・・・・・・!?」




 焦りが募ってゆく、背中には手が届かない。背に負った木の薬箱から何かを取り出せるといいのだが。死霊使いとは言えども、生者を相手に仕事をしている。そして何故か大抵健康相談をされるのだ。



 それなので胃を痛めた老婆には安中散を、風邪が長引いている子供には小紫胡湯、といった具合に漢方薬を処方してやり、木の薬箱を背負ってどこか見知らぬ家の軒先で茶を貰っている。



 そして本業でもある、死霊を操るための霊薬とそれから。




(あー。切らしてたっけ!? あれっ、牛の糞で作った、俺特製の妖魔撃退最強退散薬……!!)




 調子に乗って馬鹿げた名前を命名した、鼻が曲がるような臭い塊を必死に思い浮かべつつ、グエンはひたすらに走ってゆく。



 さらさらと黄金色の砂粒が落ちて、満月が辺りをこうこうと照らしている。まるで神話の世界のようだ。真夜中の砂漠はこんなにも美しい。



 銀色に光り輝く満天の星空と、ぽっかりと浮かんだ黄金色の満月とこちらの肌を刺すような冷気と。



 背後でゆらりと冥界の者の気配が揺らいで、自分の黒髪もその冷気に引っ張られてゆくような気がする。





 どう生きればいい、この俺は。一度死んだ忌まわしいこの身は、もう一度生を望んではいけないのか。考えても考えても答えが出ないことをいまだに考えている。



 真夜中の砂漠は凍えるようで、息をするたび吐くたび、刺すような冷気が喉の奥を蝕んでゆく。



 それなのに嘘のようにきらきらと、黄金色の砂粒が満月に照らされて光り輝いている。



 真夜中の冷たい砂漠にて、グエンはひたすらに走っていた。



 その黄金色の砂丘にて静かな月光に照らされ、枯れかけた老婆の細い手がぬっと暗がりから伸びてきて、そして。




「うわああああっ!? ちょっ、お前、それはないだろう! っくそが…………!!」




 ぐんっと、首がもげるような勢いで黒髪を引っ張られ、その燃えるような痛みに涙が滲みそうになる。死霊使いになんてなるんじゃなかった。




(でも、どう生きていけばいい? それじゃあ)




 頭皮の燃えるような痛みから逃れようと自分の両腕を前に出して、もがいて、背後の老婆から逃れようとしていた。



 今はよく見えもしないがきっと、埃のような白髪に落ち窪んだ顔と皮ばかりの、まるで骸のような老婆がすぐ後ろで自分の黒髪をわし掴みにしているのだろう。



 ぷはぁっと、背後の老婆がこちらの髪を引き寄せて唾液を吐き出す。




「無駄だよ、グエン。さぁ、この私と来るんだ。お前とこちらは元々、そういう取り決めだったじゃないか…………」




 その匂いにグエンは鼻に皺を寄せた。いつの頃か恐怖を感じなくなった。人間、何事にも慣れるものだ。




「っそれは、俺の母が打ち破った筈だ。だから俺は今でもこうして生きて、」

「生きていると、果たしてそう言えるのかい? お前は子を為すことも出来ないと言うのに?」




 グエンはその言葉に不敵に笑ってぐっと、老婆の乾いた手を握り締める。それは皮と骨ばかりで、みしみしという嫌な感触が虫の抜け殻のようだった。




「そんなもの、試してみないと分からないだろう? 俺は今まで一度も、そんなことは試したことが無いんだからな!? ほらよっと!」

「っぐ……!! ああ、小賢しい。何て小賢しいんだろうねぇ…………グエン。お前と言う男は本当に…………」




 グエンはそのまま老婆を背負い飛ばした。地面へと勢い良く投げ飛ばされた老婆の(むくろ)は尻餅をつき、悔しそうにこちらを見上げてくる。



 グエンはにっと、嫌な笑みを浮かべた。青い瞳が月光に照らされて煌いている。




「そうだ。ちょうど、試してみたいことがあったんだよなぁ……俺」

「何をする気なんだい? この、か弱い老婆にさ?」

「生憎と俺は、真夜中の砂漠を全力疾走出来るような骸は。か弱い老婆だと認めちゃいねぇんだ」




 そんな悪態を吐きながらもグエンは自分の黒い袂を探り、とある薬草の塊のようなものを取り出した。



 これは幼馴染であるメイリンが持たせてくれたもので、一応はこのなりでも豚挽き肉と野菜の包子らしい。しかしどこからどう見ても、子供が作った薬草の塊にしか見えない。



 彼女の得意技は人を悶絶させてのたうち苦しめるような、そんな料理を次々と生み出すことである。そして一番悪いことに彼女は、途轍もなく胃が丈夫でその舌は牛並みで役に立たない。





「そんな訳でお前には、この糞不味い塊をくれてやろう。ほい」

「何だい、これは? ただの、草の塊じゃないか…………」

「一応は小麦と肉で出来たものだそうだ。つべこべ言わずにとっとと食え。俺に今ここで祓われたいのか?」




 こんな下級妖魔なんぞ、メイリンお手製の包子で十分である。グエンの目論見通り、老婆は渋々とそれを口にした後、ぱったりと倒れて仰向けで気絶してしまった。



 そんな様子でぴくぴくと痙攣している、老婆の骸を見つめて。グエンはぞっとして自分の黒い両腕を擦った。





「おお、怖い怖い。メイリンの奴、一体何を入れたんだか……はーあ」




 ざくざくと足元の砂粒を沓で踏みしめて、また自分の生まれた街へと向かう。




「危うく俺が善意で殺されるところだったよ、まったく。今度はちゃんと身近に、犠牲に出来る奴がいるといいんだがなぁ…………」




 彼女の性格は明るく朗らかで、あまり食事を摂りたがらないグエンに何とか自分お手製の毒物を食わせてこようとする。




「生憎と俺は、下級妖魔が気絶するような食物は食物だとは認めていないんだよ、メイリン…………って、言ってみたら殺されてしまうかな?」




 彼女は自分を料理上手だと思っているのだから、致し方が無い。




「さぁ。やることもやったし、家にでも帰ってみるか~…………」




 グエンは木の薬箱を背負ったまま、ぽっかりと満月が浮かんでいる真夜中の砂漠を歩いていた。



 そろそろ幼い弟妹に埋もれて死んでみるのも悪くは無い。彼らはこのグエンがいなくとも、十分やって行ける筈なのだが。



 それでも必要とされる喜びに、何度でも俺は帰ってしまうのかもしれない。孤独を感じているのは自分の勝手だ。



 勝手な振る舞いだ、それなのに。




「なんだかなぁ~……やるせ、ないよなぁ。ああ。今夜も満月が、嘘のように綺麗だ」




 その満月を見上げて、グエンは淋しそうに笑う。しかしこの生活も気に入っていた。多分俺は、それでも生きて行ける人間なのだ。



 どれ程やるせない淋しさや虚しさを抱えていようとも、それなりに生きて行ける人間なのだ。家で待ち構えている筈の父や義母、異母兄弟達の顔を思い浮かべてひっそりと笑う。



 それでも呪わしいこの身は明日も生きていくのだろうと。




































「リーファ…………苦しいの?」




 彼女がこちらを見上げて苦しそうに微笑んでいた。いつもは薔薇色に染まっている頬も、今では青白くその息もか細いばかりで。



 彼女が潤んだ黒い瞳を向けて、こちらへと白い手を伸ばしてくる。だからその手を柔らかく、優しく握り締めてやる。




「大丈夫よ、リンファ……別に、貴女のせいじゃないから」




 そこで彼女がはっと苦しそうに息を吐き出して、白い額に汗の粒を浮かべた。柔らかな手はじっとりとした、嫌な熱さで。この身はただただ、彼女の生命力を吸い取るばかりで。




 やめなくてはいけない、離れなくてはいけない。



 それなのに一人ぼっちの彼女の傍にいてあげたいと、そう心から望んでいる。呪具の身でありながらなんと浅ましいのだろう?



 この醜い愛情はただ、この身を蝕むばかりで。



 苦しい、苦しい。役目からも彼女からも解き放たれることを望んでいる。



 私の可愛い大事な姉は、彼女は私が呪具だと言うのに愛した。私のせいで怪我をしても寝込んでも、泥だらけの顔で「大丈夫よ、リンファ! ほら」と言って気の抜けた笑顔でこちらへと手を伸ばしてくる。




 この身は彼女を呪うばかりで。



 それなのにどうして、姉さんはこの私を愛したのか。そしてどうして私もこの少女を愛しているのか。



 少しでも生きていて欲しいと、呪具の分際でどうしてそう苦しく願っているのか。呪具のリンファは苦しく喘ぐように息を吐き出して、涙で詰まった声を上げる。




「嘘よ、リーファ…………姉さん。だって私が貴女の、呪具なんですもの」

「でも、貴女のせいじゃないわ。貴女を生み出した叔母様が悪いんですもの」




 そう言って彼女が笑って、リンファは「姉さん」と涙ぐんでその柔らかな手を握り締めていた。



 愛する人を苦しめるために生まれてきたのだ、この身は。




「姉さん。ごめんね、姉さん……」

「いいのよ、何も気にしないで。リンファ」




 苦しいだろうにむくりと、寝台の上にてリーファが体を起こす。そしていつもの花のような顔を優綻ばせ、弱々しく笑う。



 いつもの艶々な黒髪もその柔らかな白い肌も、華奢な体も年々弱っていくばかりで。




「だって貴女のせいじゃないもの。そうでしょう? ねっ、リンファ……」

「姉さん。お願いだから寝ていて? ねぇ、お願いよ。姉さん……私、離れてるから」

「あら、大丈夫よ。だって私はまだ十七歳ですもの。来月で十八歳になるけど」





 死期が近付いてきている。



 彼女が二十歳の誕生日を迎えた瞬間に、この身は愛しい姉の生命力を吸い取って成り代わってしまうのだ。





「姉さん、私は。生きたいとは思わない。姉さんの人生を奪ってまで生きたいとは思わないの…………お願い、姉さん」




 リンファは寝台へと突っ伏して、白い首裏をさらけ出して自分の顔を両手で覆っていた。



 区別しやすいように姉のリーファは黒髪を下ろして、呪具のリンファはその黒髪を高く結い上げて紅珊瑚の簪を刺して、真っ赤な紅を引いていた。




 同じ姿形でも、姉のリーファは柔らかな色を好み、翡翠色や薄紅色など春の花々のような衣を纏う。



 呪具のリンファは強烈な色を好み、真っ赤な血を連想させる深紅や橙色など、人の目に痛いような衣ばかりを纏う。




 それは最愛の姉に対する気遣いと遠慮なのだと、悲しげに微笑むリーファはよく理解していた。寝台へと突っ伏してしまった呪具の妹の黒髪頭をそっと、崩れぬように撫でてやる。




(折角の見事な、美しい髪形だもの。崩してしまったら勿体無いわ。…………ああ、でも)





 死期が近いとは、よく分かる。弱々しく息を吐き出したリーファはその白い胸元を押さえていた。



 白い夜着から着替えて、華やかな衣を身に纏う気もなれず、こうして微熱が続く重たい体で寝台に横たわり、ただただ死を待つばかりで。




「ねぇ。お願いよ、姉さん……私を、殺して?」




 その黒い瞳に沢山の涙を溜めて、呪具のリンファが自分よりも美しい顔立ちを歪めて泣いていた。私達はとてもよく似ているが、呪具のリンファの方が秀でている。



 ほんの少しだけ顔立ちが美しく、その頭も良く、刺繍も踊りも何もかも、リンファは私よりもほんの少しだけ上をゆく。




 運も生命力もじわじわと吸い取って、いつしか彼女はこの私よりも、随分と素晴らしい女性となってこの先の人生を生きていくのだ。



「成り代わりの呪具」と呼ばれる彼女は────リンファは、そのことを酷く気に病んでいる。だからいつも落ち込む妹の姿を見て、私はこう励ましてやるしかないのだ。




「馬鹿なことを言わないの、リンファ。もしかしたら私達がこのまま姉妹として、生きていくことも可能かもしれない」

「無理よ、姉さん。…………無理よ、姉さん」




 そこで呪具のリンファがもう一度、その顔を両手で覆う。




「だって私は貴女を呪い殺すために生まれたんだもの。変えようがない。この、呪われた身も何もかも…………」

「リンファ……ああ、ほら。泣かないで頂戴?」




 またしくしくと泣き出してしまった妹の頭を、姉のリーファは優しく微笑んで撫でてやる。



 これ以上、どう励ませばいいというのだろう?



 彼女には悪いが、それほど生きたいとは思わない。父も母も異母兄弟も、こちらに無関心な中で私はこの妹亡くして一人で生きていけるのだろうか。




「こんな女を嫁にと望むような、気の違った人もいなさそうだしねぇ…………」

「姉さん! 姉さんは美しいわ。性格だってとても良いし……それに身の程知らずな下男の何人かが、姉さんに懸想していたじゃないの」

「あれはお前が過剰に反応し過ぎたのよ、リンファ。彼らにきっと、そんなつもりは無かったでしょうに」





 ふう、と姉のリーファはその白い頬に手を添えて溜め息を吐く。



 実の叔母に呪われてしまった女を嫁にと、望む名家の男なぞいないに等しいだろう。それでも当主である父は、誰か良い男はいないかとこの頃はやたらと探し回っているようだが。




「そうねぇ…………私とお前もそろそろ、この先を考えなくてはねぇ~」

「姉さんは呑気なのよ、いつまで経っても。そろそろきちんと、呪われている自覚をして欲しいわ」



 呪具のリンファはそうむくれて、白い頬を膨らませている。そんな可愛い妹の姿に笑って、姉のリーファは優しげな顔立ちを綻ばせた。




「さっ、リンファ? だっていつまでもくよくよしていたって仕方が無いでしょう? お腹が空いたわ、私。厨から何か、甘いものでも持ってきてくれる?」





















「あー。だるい。仕事なんてしたくない…………」

「死霊使いが、一体何を言ってるんだか! 今日はもう何か依頼は無いの?」

「無い~……しつこく断ってる。何か一人、しつこい爺さんがいるけど」

「依頼人じゃないの、それって。いいからその木の上から降りてらっしゃいな、グエン!」

「うえぇ~……へーい」





 それまで丁度良い枝ぶりの木を見つけて、ぐったりと横たわっていたグエンは渋々と足をぶら下げて、ざっと木々の枝葉を揺らして飛び降りる。




 昼間から厄介な妹に見つかってしまったと、グエンは気まずそうに灰色が入り混じった顔色でぽりぽりと黒髪頭を掻いていた。




 一度死んで蘇った影響からかグエンの顔色は常に灰色がかっていて、そんな顔色の悪い兄を見つめたランレイはきゅっと眉毛を吊り上げる。



 艶々の黒髪に気の強い顔立ちのランレイは赤地に金刺繍のアオザイを纏い、グエンのぼさぼさになった黒髪を手で整えつつ苛立ったように話す。




「その兄さんの言っていた、しつこい爺さんとやらは知らないけど。とにかくお客さんよ。母さんも父さんも忙しくて手が離せないの。分かる? 今は収穫の時期だし、どこもかしこも人手が足りないのよ」

「あー、はいはい。分かる、分かる」

「もうっ、兄さんってば! もう少しちゃんとしたらきっと、うっとりするような美男子になるでしょうに」




 ランレイが不満そうにむくれると、グエンは白けたように顔を背けてへっと鼻で笑った。




「くっだんねぇよ。死人がいくら着飾ろうと、死人は死人だ。大体お前だっていつも、」

「はいはい。そういう文句はいいから、もう。それに、もう」




 こちらの黒い襟を正して、もう一度長すぎる黒髪を額から払うとランレイは苦しそうに笑った。




「兄さんが死んでいたのはもう、昔の話でしょう? だからそんなことを言わないの!」




 あまり心配をかけるのも何だと思って、グエンは気まずそうにぼそぼそと喋る。




「悪かったよ、ランレイ。そんで? お客さんってのは一体どこにいるんだ?」

「探して貰わずともここにいますよ、グエン殿」




 その涼やかな声に振り返ると、黒い胡服姿の男が立っていた。男はがっしりとした逞しい体つきをしていて、腰には剣を下げている。



 しかしその顔立ちは若く、どこからどう見ても老けているようには見えない。気難しい表情を浮かべ、重々しく一礼する。




「老人だと。…………そう言っていたじゃないか、ランレイ?」

「あら、兄さん。私は老人だなんて一言も言っていないわよ? でも若くもないし、老けているじゃないの」




 あまりにも失礼な妹の発言にグエンは、その額を押さえて低く呻く。この腹違いの妹に悪気はないのだが何せ、こうしてあっけらかんと思ったことを口にしてしまう。





 屋敷の中庭にて、グエンはその依頼人と二人きりにされて不貞腐れたように桃を食っていた。



 つい先程収穫したばかりであるという、農園の桃を齧り取ると瑞々しく甘い果汁が溢れ出してくる。



 これは妹が「はい、お昼ご飯」と言って押し付けてきたもので、ランレイからすると今すぐ食べろとそう言っていた訳ではなかろうが。グエンはこの無口な男から小刀を借りて、上手く行かなかったので剝いて貰って貪り食っていた。





「あんた。ひょっとして、何をされても怒らないんじゃないの? それとも実は、意外と良い人だったりして?」




 グエンはぼさぼさの黒髪の隙間からその青い瞳を向けて、不幸そうな顔で黙り込む男を見つめていた。



 男はとある商家のお嬢様付きの護衛らしく、短く「ズハンと申します」とだけ名乗った。そしてこちらがふてぶてしい態度で「桃を剝きたいんだけど、剣を借してくれるか?」と手を差し出してみると。



 むっつりと黙り込んだまま、その黒い懐から小刀を取り出して借してくれたのだ。それに加えて剝くのに手間取っていると「差し支えなければ、私が剝いてみましょうか?」と申し出てきた。



 少々面食らいながらも、グエンは木の根元へと座ってぞんざいに剝いて貰った桃を食べている。



 一方のズハンは気難しそうな表情で黙り込み、芝生の上に正座をしてこちらをじっと眺めていた。




(元死人の俺なんかより。よっぽど暗いよな、こいつ。依頼ってのは何度もしつこく断り続けている、呪われたお嬢様のことかねぇ…………)




 あの家は金貸しに宿屋や交易など、金になるものなら何でも手広くやっているという印象が強く、あの一族はどうにも底が知れなくていけ好かない。グエンは桃を食べつつ、眉を顰めていた。



 元死人の自分はこうして裕福な農園に生まれながらも、夜の砂漠を彷徨っては依頼を受けて、昨夜のように帰り道で襲われたりもして、そうして呑気に気の向くままに暮らしているのだが。





「旦那様は、お嬢様のことで大変胸を痛めております。どうか依頼を受けて頂けないでしょうか、グエン様」

「随分とへりくだるじゃねぇの? さっきはグエン殿って、そう呼んではいなかったっけ?」

「不躾な呼び方をしてしまい、誠に申し訳ありません。しかし」




 そこで男は頭を深く下げて一礼すると、すっとこちらをぼんやりとした黒い瞳で見つめてきた。




「私はお嬢様付きの護衛です。主の解呪をして下さる御方に、そのような口は聞けないと。そう思い至りまして。誠に申し訳ありませんでした、グエン様」

「あんた。意外と良い性格をしてるよなぁ~…………俺がいつ、そのお嬢様とやらの解呪を引き受けるって。そう言ったんだよ?」




 グエンはそこで汚いげっぷを吐き出して、汚れた口元を黒い袖で拭う。それを見つめてズハンは悲しげに眉を顰めると、自分の黒い懐を探って綺麗な麻の手ぬぐいを差し出してくる。





「良ければどうぞお使い下さい、グエン様。清潔で、綺麗な手ぬぐいですので」

「余計気兼ねするってもんだね、それは。いいよ。適当にそこらへんの葉で拭っておくから」

「汚れてこその手ぬぐいです、グエン様。さぁ、どうぞ」

「あんた、意外と。押しが強いんだな? はー。やれやれ、まったく…………」




 グエンはその手ぬぐいを有難く受け取ると、気の進まない顔でじっと見つめてから渋々と使い出す。そんな様子を男は黙って見つめていた。




 そよそよと、少しだけ生ぬるい風が頬を撫でてゆく。




「ん。ありがとさん。そんじゃあ手ぬぐいと桃を剝いてくれたお礼に、聞くだけ聞いてやるよ。ただし話を聞くだけな? あくどい金貸しの高慢ちきのお嬢様なんぞ、俺はどうでもいいんでね」

「ご安心下さい、グエン様」




 そこで正面に座ったズハンが真顔で自分の胸元へと手を添え、いけしゃあしゃあと答える。




「先程貴方様の妹である、ランレイ様から聞きました。貴方は尖った性格であっても実は繊細な心の持ち主で慈愛に溢れる人物なのだと、」

「うおいっ!? やめろよ、やめろっ!? 背筋がぞわぞわってしたじゃん、今!!」




 身の毛もよだつと言わんばかりに、グエンはぞっとした顔色で自分の両腕を擦った。



 何を言いやがる、こいつは?



 真顔でしれっと気味の悪いことを告げてきたズハンは更に、とんでもないことを口にする。




「そして。私が幼少のみぎりより、お守りしてきたお嬢様は天女のように清らかで美しく、優しい女人です。どうかその辺りのことは、お間違えなきよう…………」

「あんた、意外と面白い性格だったな……まぁ、いいや」




 グエンはふうと溜め息を吐いて、その黒髪を掻き毟った。




「そんで? その天女のように清らかなお嬢様が、一体どんな呪いをかけられたんだって? ああ、それから、あと!!」




 そこでびしっと、目の前の男を指差してグエンは強く強く睨みつける。




「俺は絶対絶対、そんな呪いの解呪なんか引き受けたりしねぇからな!? あの家のおっさんは何かと腹が立つ人物なんだよ、絶対に絶対に俺は、そんな高慢ちきなお嬢様を助けたりなんかしないからな!? いいか!? そのことだけはよーくよく、頭に叩き込んでおけよ!? 分かったな!?」













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