《38》再びワイバーン
膝下ほどの高さの柔らかな草が、何処までも広がる草原。そこに、遠くからでも見上げなければ見えないほど大きな木が、広く枝と葉を伸ばし点在している。
そんな場所を、温かくな太陽が優しく照らし、心地良い風が葉を揺らす。
そこには、昨日嗅いだ強烈な異臭も、恐ろしい光景も全く無く。ただ、穏やかな風景が広がり、そこでくつろぐワイバーンの姿があるだけだった。
1時間ほど前の事・・・・・
大きめのお皿の上に、チーズのたっぷり入ったトロットロのオムレツに、青々とした葉っぱと、赤い実のサラダ、温かな湯気と共に食欲をそそる太めのソーセージ、そして、少し固めのパン。
とても美味しそうな食事が目の前に二つ置かれ、その先には、最近少しだけ見慣れてきた、ガルシュダッド様の姿があった。
「今日はどうしようか?」
軽い感じで、とても自然に聞いてくる姿は、側から見れば仲の良いカップル・・・には見えないだろうが、親子には見えるだろう。
「え?」
宿屋から少し離れた場所にある喫茶店のテラス席、心地良い爽やかな風に吹かれながら朝食を食べているヴィオレットは、何故か驚いた顔をしていた。
「どうした?せっかく獣界に来たのに、どこにも行かない気か?」
「いえ・・そうでは無くて・・・。」
「何だ?」
「昨日は、きちんとワイバーンに会えなかったので、今日はちゃんと連れて行ってもらえると、思っていたのですが・・・。」
がっかりした顔で俯くヴィオレットに、ガルシュダッドは驚いていた。
当然だろう。昨日ワイバーンを見て気を失ったのに、今日も会いに行きたいと言うとは、思わなかったのだ。
「行きたい・・のか?」
「はい!」
ヴィオレットの明るい声に、通りを歩いていた者達は驚いて振り返り、目を輝かせているヴィオレットを見て、フッと小さな笑を漏らしていた。
そうして現在、ガルシュダッドとヴィオレットは、ワイバーン達が暮らす地域に来ていた。
「あの・・・ガルシュダッド様・・・。」
「何だ?」
真っ直ぐ前を向いているヴィオレットの顔は引きつり、手は固く握り込まれているが、上から見下ろしているガルシュダッドは、気付いていない。
「昨日とは、随分印象が違うのですが・・・。」
「そうか?ワイバーンは、ワイバーンだろう?」
普通のトーンで話すガルシュダッドとは対照的に、ヴィオレットの声は微かに震えているが、風が草木で遊ぶ音が邪魔をして、気付いていない。
「いえ・・昨日は、異臭とか血などがあった思うのですが?」
「あそこは言わば、ワイバーンのゴミ捨て場というか・・・つまり、トイレだったからなぁ、匂いは凄かったな。」
トイレ・・それは、用を足す為の場所であり、決して覗きたい場所では無いし、きっとワイバーンも他の者に覗かれたい場所では無かったはずだ。
「何故そんな場所に・・・?」
「『今が最悪の状態ならば、後は良くなるだけ。』と、本に書いてあったからな。」
「その本・・・『落ち込んだ人がよく言われる、励ましの言葉。』ってタイトルの本じゃないですか?」
「そんなタイトルだったか?他には『大丈夫、次があるよ。』と言う言葉や、『運が悪かっただけ。』という言葉も載っていたな。」
「その本の注意書きに、『具体性の無い励ましの言葉は、時に相手を不愉快にさせる場合があるので、この本に書かれた言葉をそのまま使う事はお勧めしません。』と書かれていませんでしたか?」
「そう言えば書いてあったな・・・。」
「で?何故そんな本の、一説を参考にされたのですか?」
「それは、励ましの言葉として使うわけでは無いしな、その言葉を参考にして・・・一番強烈な場面を見せておけば・・・ワイバーンというか、ドラゴン種の現実を知っても、ガッカリしないかと思ったのだが・・・・ヴィオレット・・・何か怒ってるか?」
「怒っているより、ミルビーさんの言葉を思い出していました。」
「ミルビーの言葉?何だ?」
ヴィオレットは、真っ直ぐ前を見ていた目をゆっくりと動かし、ガルシュダッドを見上げる。
その目は細く、幼い顔立ちとは対照的に、迫力のある目をしていた。
「ガルシュダッド様は魔力が強過ぎて、他の者達と関わる事が少なかったので、無自覚な無神経だと。」
一瞬風が止み、時が止まった様な感覚に襲われる。
ヴィオレットは、ガルシュダッドを睨んだまま動かない。
ガルシュダッドは、ポカンとしたまま動かない。
沈黙を破ったのは、低く唸る様な大きな声だった。
「グハハハ、それには儂も賛同するぞ。無自覚な無神経。確かに魔王にピッタリの言葉よのう。グハハハ」
低く低く、地の底から響く様な声なのに、その声色は楽しそうに弾んでいる。その声の主は何処に居るのかと、慌てて辺りを見回すが、それらしい者は見当たらなかった。見えるのは草原と木とワイバーンだけ。ただ、少し離れた場所で、地面に倒れて震えているワイバーンが一匹居るのは見える。尻尾でバシバシと地面を叩き、まるで笑っている様にもみえるが・・・
「モドゴロム、笑いすぎだ。」
ガルシュダッドは、ワイバーンに向かって困った様な声を投げかける。すると、ワイバーンはゆっくりと顔を上げ、ガルシュダッドとヴィオレットの方へ顔を向けた。
そこには、昨日見た恐ろしい顔つきも、鋭い牙も、赤い色をしたヨダレも見当たらない。ただ、こちらを観察する様に少し目を細めてこちらを見ている。
「何を言う。笑うだけで許してやっているのじゃから、感謝してほしいもんじゃ。」
ゆっくりとワイバーンの口が開き、鋭い牙が見えるが、昨日の様な恐ろしさを感じる事は無い。今は、それよりも驚きが優っていた。
人族の本の中では、言葉を理解しているそぶりはあったものの、ワイバーンが喋るという話は無かった。しかし、目の前のワイバーンは明らかに言葉を発している様に見える。言葉と共に口を動かし、喉を動かしている。
「まったく、あの様な場所に突然現れるなど、魔王でなければ、物理的に記憶を消してやる所だったぞ。」
呆れた様な声を出しているワイバーンとは対照的に、ガルシュダッドは何故か首を傾げている。
「何故だ? ヴィオレットも俺を無神経と言うし・・。」
途端に、勢いよくワイバーンの身体が立ち上がり、強い風が音を立てて舞い上がる。
「あの様な場を覗かれて、喜ぶ者などおらんわ!」
大声で迫力のある声で、もっともな事を言うワイバーン。そう言いたくなるのは当然ではるが、身体の大きさが、ワイバーンの頭ほどしか無いガルシュダッドと、それよりもずっと小さなヴィオレットには、鼓膜が張り裂けんばかりの大声に、ほとんど何を言っているのか聞き取れず、加えて、身体が一瞬浮く程の強風と、想像以上の巨体に、ヴィオレットは、昨日の恐怖心が蘇り、その場に力無く腰を落としてしまった。
そんな姿を見て、ワイバーンは慌ててお腹を地面に付け、姿勢を低くする。
「あぁ、すまん。つい感情的になってしもうた。」
声を抑え、優しく言うワイバーン。
それでも、一度感じてしまった恐怖心はなかなか拭えず、ヴィオレットは、何時もの様に強制的に抱き上げられた、ガルシュダッドの腕の中で震えていた。




