《36》ワイバーン
風の感触と、日の暖かさ、視界の端に見える木々の青々とした葉。それらを見れば、そこが外である事は分かった。
それなのに、むっとするほどの異臭は、風で薄まる事も無く鼻を突き刺している。
その異臭の正体を知りたくて、視線を動かせば、大きな赤い壁がゆっくりと視界を塞いていき、心臓を素手で掴まれる様な、緊張感と共に、低く、地下から響いてくる様な音が鼓膜を揺らす。
「グルググググゥゥ・・・。」
音のする方へ振り向けば、白く鋭い牙が赤色の混じったヨダレを垂らし、こちらを向いていた。
死への恐怖が、身体を硬直させる。
物語の中では危険な目に遭遇すれば、皆走って逃げ出していたというのに、実際に体験すると、走って逃げるべきだと思ってはいても、身体は全く動いてはくれず、せめてこちらに気付かれないようにと、静かに浅い息を繰り返すのが精一杯だ。
動けば食べられる。
自分の命がここで尽きるかもしれない、という恐怖が全身を包み込み、後はただ、痛みが無い事だけを願うしか無くなった時、ふと自分の身体が、暖かな何かに包まれている事に気付いた。
それが何なのか分からない。姿は見えない。
それでもその温もりは、確かにヴィオレットの身体を優しく包み込み、聞こえ続けているはずの、低く恐ろしい音よりも、小さな音で優しく鼓膜を揺らした。
「大丈夫だ、俺が付いている。」
この声を知っている。
この声の主を知っている。
大丈夫、この声の主が側にいるなら、何の心配もいらない。
そんな思いと同時に、固まっていた身体から力が抜け、視界から赤い壁がゆっくりと消えていく。
そうして代わりに、見覚えのある黒が、ゆっくりと形となり・・・・ふわりと視界から消えた。
微かなシーツの滑る音と、肌に感じる温もり、眠気を誘う様な心地良い香り。
夢の中の様な、ぼんやりとした感覚ではなく、はっきりとした感覚に、ついさっきまで夢を見ていたのだと、ぼんやりした頭で理解した・・・・
理解した事により、ヴィオレットは嫌な予感を感じていたが・・・嫌な予感の事は、一先ず考えない事にした。
とにかく、さっきまでの出来事は夢だった。しかし、自分の意思で眠った記憶が無い。
それでは、起きていた時の最後の記憶は・・?
ガルシュダッドに抱き抱えられ、転移魔法で宿屋から移動した後、ワイバーンを見て・・・気を失った。で、間違いないだろう。
「ヴィオレット・・?」
様々な本を読んで、ワイバーンがどういう者なのか知っているつもりだった。
硬い鱗で覆われた巨大な身体、前足と一体化した大きな皮膜の翼、獲物を捕らえ引き裂く鋭い後足、矢じりの様に鋭く尖った尾。気性の荒い者が多い竜種の中で、比較的穏和な性格とされており、物語の中では、人間達と友情を育む場面が多く描かれていた。勿論、街を襲い討伐される話もあったが、圧倒的に友情を育む話が多かった。
だから、ヴィオレットの中でワイバーンは怖くない者だと思っていた。
しかし実際は・・・始めて見るワイバーンに恐怖し、気を失った。
見た目は、本の挿絵で見ていた姿と大差は無かったが、その迫力は想像以上だった。
全身を覆う黒く硬い鱗、喉元から腹にかけては少し薄い茶色で、空を飛ぶ為の皮膜は血の様な濃い赤色。その姿は、森に溶け込むよりも、森の中で存在を主張しており、ワイバーンが隠れる必要のある被食者では無く、被食者を追い詰める捕食者である事を示していた。
そして、白く鋭く大きい牙・・・その牙には挟まっている・・・餌・・
とにかく、ワイバーンを見た瞬間、自分が被食者であり、ワイバーンの機嫌しだいで、一瞬でこの世を去る事になると悟った。
「起きているのだろう?」
それに、異臭も凄かった。
本の中では、ワイバーンが臭いなんて描写は一つも無かったが、よく考えればワイバーンは雑食だ。草木も食べるが、生き物も食べる。確か草食よりも肉食の方が排泄物が臭うと書いてある本があった。
「おい、ヴィオレット・・・」
臭うのは当然だろう。しかもあの巨体だ、排泄物だって・・・・
ともかく、何の心構えも無しだった為、色々と衝撃的で気を失ってしまったが、きちんと心構えが出来ていれば、気を失う事は無いはずだ。
「起きているのは、分かっているのだぞ、素直に起きろ。」
確かに恐怖したが、いっときの恐怖心だけで諦められるほど、ワイバーンへの憧れは簡単なものでは無い。
あの巨体に乗り、風を肌で感じ、世界を見る。
ずっと憧れていた・・・
「まったく、またか・・・。」
「ムゴムゴムゴ!!!!!」
絶妙に息を吐き出した瞬間に口と鼻を塞がれ、慌てて目を開けば、楽しそうな表情をしたガルシュダッドの姿が目に入った。
どうやら、嫌な予感が的中していたらしい、目を開くと同時に、塞がれていた口と鼻が解放され、ヴィオレットは大きく息を吸い込んで、その勢いのまま・・
「苦しいね!!」
微妙に言い方を間違えた。
「共感を求められても困るぞ、俺は苦しく無い。」
それは分かっている。
つい最近ほぼ同じ事を、目の前の相手にされたばかりだ。
「知っています。言い間違えただけです。」
「知っている。」
クスクスと楽しそうに笑うガルシュダッドは、前回と同じく・・・上半身を露出させた状態で、くつろいでいる。
・・・ヴィオレットは、静かに目を閉じた。
「何故もう一度寝ようとする?」
「・・・。」
「おい、ヴィオレット。」
「・・・。」
「聞いているのか?」
ヴィオレットの口と鼻はもう一度塞がれた。
「ムグムグググググッ・・・・パァッハア。」
「おはよう、ヴィオレット。」
息苦しさに、目を開けば笑顔を浮かべるガルシュダッド顔が目に入る。
ヴィオレットはもう一度目を閉じようとして・・・・ガルシュダッドの手がヴィオレットの顔の前へと移動したのを見て・・・やめた。
「昨日から、随分と長い時間眠っているが、まだ眠いのか?」
昨日は眠ったのでは無い、気を失ったのだが、ヴィオレットには、そんな事より重要な事があった。
「何故、ここに居るんですか!!」
「一緒に寝たからに決まっているだろう。」
「いっ一緒に??」
「何をそんなに驚いている?初めてでもあるまいし。」
確かに、この状況は二度目だ、初めてでは無い。初めてでは無いが、前回とは状況が違う。
前回は、ヴィオレットが婚約を熱烈に受け入れたと、ガルシュダッドが勘違いしていたからで、その後誤解も解けて、きちんと利害関係からなる婚約だと分かったはずだ。
だから、目覚めて直ぐに半裸のガルシュダッドを見る事は、もう無いと思っていた。
「ロリコン?」
つい、ヴィオレットの思っている事が、口からポロリとこぼれ落ちた。
こぼれ落ちたのだ・・・わざとでは無い・・・
はず




