《35》爪は痛い
「あの・・・無理とは?」
獣界の城下町にある宿屋の一室で、ヴィオレットは困惑していた。
「そのままの意味だ。そもそも転移魔法は、膨大な魔素を消費する。並みの魔族ならば自分だけで転移したとしても、獣界へ来るだけで、魔素の大半を消費してしまい、帰りは魔法以外の方法で帰らねばならん。」
「でも、ガルシュダッド様は、私とデルタさんを連れて・・・。」
「俺は、魔素量が膨大だからな。普段であれば、ヴィオレットとデルタを連れていても、3往復くらはできるが、俺は獣王と儀式に参加すると約束したからな、魔素を温存しておかなければならない。」
「でしたら、魔法以外の手段で。」
「一番早いのはワイバーンだが、それでも城に帰るまでに二週間はかか・・・・ヴィオレット?」
ガルシュダッドは、最後まで言い終わる前に、ヴィオレットの異変に気付いた。
先程まで、何とか先に帰ろうと思案していたのに、今は目をキラキラと輝かせ、ガルシュダッドが優しく包んでいたはずの手を、痛いほどに強く握り返している。
「ワイバーン! 今ワイバーンと言いましたか? あのドラゴン種のワイバーンですか?空を飛ぶドラゴンの事ですよね?」
「うむ、そうだが・・・気になるのか?」
始めて見るヴィオレットの勢いに、ガルシュダッドの顔がわずかに引きつる。
「はい! 私、本の中でワイバーンに乗って空を飛ぶ場面がとても好きで、何度も読み返していたんです。父に見たいとお願いした事もあったのですが、外にほとんど出る事が出来なかったので、今だに見た事が無いのです。何処に行けば会えますか?ワイバーンで二週間の空の旅・・・ご褒美です!」
力強く早口で喋るヴィオレットの姿は、ガルシュダッドが知っているヴィオレットの姿とはまるで違ってみえる。
別に、その姿が嫌なわけでは無い。ヴィオレットの生き生きとした姿は、とても愛らしい。ただ急な事で、とまどっているだけだ。
「ご褒・・うっ・・うむ、しかし、一人では流石に乗れんだろう。」
「でしたら、デルタさんと一緒に・・・。」
途端に部屋の空気が重くなる。
「 俺が、妻と他の男が旅をするのを、許す様な男に見えるのか?」
「ですが、デルタさんには番がいますし、私とガルシュダット様の結婚は・・・」
「許す様に、見えるのか?」
表情に怒りは見えない。
ただ、ガルシュダッドの背後に黒いオーラがはっきりと見えているだけだ。
この状況で、『私と、ガルシュダッド様の結婚は、形だけのモノですから、問題無いと思います。』とは、思っていても言えなかった。
「見え・・ま・・せん・・・」
力強かったヴィオレットの手から力が抜け、視線がゆっくりと下へ向き、声には力が無くなっていく。
それは、帰れない事に対して落ち込んでいるのでは無く、ワイバーンに乗れない事に対して落ち込んでいるのだ。
「そもそも、ワイバーンに乗って二週間かけて帰るより、俺の魔素が回復するのを待った方が早い。俺の魔法で帰れば、一瞬だからな。」
言っている事は分かるが、今のヴィオレットには、もはや早く帰る事はどうでも良かった。確かに両親や待ってくれているだろう者達の事を思えば、早く帰りたいが、ヴィオレット自身が出発の挨拶が出来なかっただけで、彼等には、ガルシュダッドが話してくれているらしいし、よく考えれば、一緒の部屋に泊まる事も、部屋を分けてもらうか、それが無理ならば部屋のソファーで寝れば良いだけの事だ。
そう思うと、更にワイバーンで帰れない事を残念に感じてしまう。
ガルシュダッドは、そんなヴィオレットの姿に、黒いオーラを引っ込めると、表情をフッと緩めた。
「ワイバーンは、そんな良いものでは無いと思うが、まあ、それほどワイバーンに乗りたいのなら、いくらでも俺が乗せてやるぞ。」
その声には微かに呆れが混っていたが、今のヴィオレットにそんな事を気にする余裕は無かった。
途端にヴィオレットの目が大きく開かれ、手に力が戻り、動かなくなる。
「ヴィオレット? 」
ガルシュダッドの呼び声に対しても、動かない。
「ヴィオレット・・・爪が食い込んでいるのだが・・・。」
それでも、動かない。
「瞬きぐらいした方が良いと思うぞ。それに、少し・・手が痛い・・。」
動かない。
「痛っ・・ヴィオレットよ、爪が、爪が食い込んでいるぞ、流石に痛いイタイ痛ッイイイイタイイィィ。」
ヴィオレットの小さな爪が、獲物を捕まえた鳥の様に、強く強くガルシュダッドの腕に食い込んでいた。
しかし、流石に『痛い』という言葉の連発に、ヴィオレットはハッとして慌ててガルシュダッドの手を離した。
「ごっごめんなさいぃぃぃ。」
今までの生活からすれば、ワイバーンを見ることすら夢のまた夢だったのに、会わせてくれる。しかも乗せてくれる。更にはいくらでもと言われ、嬉しさのあまり放心していたのだが、それと同時に、こんなに嬉しい事を言ってくれる相手を逃すまいとする気持ちが、行動に出てしまっていた様だ。
慌てるヴィオレットに、ガルシュダッドは小さく笑う。
「そんなに乗りたかったのか?」
「いえ・・あの・・・はい。」
取り乱した姿を見せてしまった事を恥ずかしく思い、顔を赤らめ、か細い声を出しながら俯くヴィオレットに、ガルシュダッドは、楽しそうな笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がり、それと同時にヴィオレットの身体をふわりと抱き上げた。
「え?」
急に抱き上げられ驚きながらも、落ちない様にとガルシュダッドの服を強く掴む。
ガルシュダッドと出会ってから、あまり日が経っていないにも関わらず、何度となく抱き上げられ、その動きには慣れてきたものの、心はまだまだ慣れそうも無い。
音が聞こえてきそうなほど、激しく動く心臓と、勝手に上がっていく体温のせいで、何時も息苦しさを感じると同時に、微かに流れ込んでくるガルシュダッドの魔力に安心もする。
ガルシュダッドの腕の中が、ヴィオレットにとって落ち着く場所なのか、落ち着かない場所なのか、ハッキリと分からず。それがまた、ヴィオレットの心を落ち着かなくさせていた。
「下ろしてください。」
自分の中の動揺を隠すために、必死に平静を装いながら言えば、ガルシュダッドはニヤリと不敵に笑った。
「良いのか?」
「え?」
何故そんな事を聞かれるのか分からず、ヴィオレットはゆっくりと首を傾げ・・
・・・・
・・・固まった。
髪を撫でる心地良い風、肌に感じる暖かな日の光、鼻を通り抜ける強烈な異臭・・・
「臭っ。」
思わず手で鼻を覆うヴィオレットに、ガルシュダッドは声を上げて笑った。
「グハハハ。だから言っただろう、そんなに良いモノでは無いと。」
笑うガルシュダッドに、何故こんな場所に連れてきたのかと、抗議しようと顔を上げた瞬間、もう一度ヴィオレットは固まった。
ガルシュダッド越しに見えた景色は、宿屋の中では無かったのだ。
しかしそれは、肌に感じる風や日の光で何となく察していた。多分転移魔法を使ったのだろうと。
それでも、目の前の光景は予想していなかった。
ヴィオレットの視線がゆっくりと上へと向き、日が当たっていたはずのヴィオレットの顔に、ゆっくりと影が落ちる。
「グルググググゥゥ。」
低く空気を揺らす音が、ヴィオレットの耳に届いていた。




