《34》黒い耳と、黒い尾
小さな宿屋の一室、窓辺に置かれた椅子に腰掛けているヴィオレット。
窓の下に見えるのは、フサフサの耳を頭から生やした者達が、石畳の道を忙しなく行き交う風景。
笑い合い、楽しそうに話をしている奥様達。
小さな小競り合いをしている男達。
何処かに行くのか、集団で走っている子供達。
クリーム色のレンガで彩られた通りを、様々な者達が行き交っている。
ヴィオレットは、産まれてから一度も、こんなに多くの者達を、一度に見た事は無い。
本の中に、沢山の人々が行き交う描写は多々あったが、こんなにも圧巻だとは思っていなかった。
多くの声が波の様に押し寄せ、一つの大きな騒めきとなっている。
怒鳴り声や笑い声、泣き声や呼び声、聞き耳を立てれば、その声が泣いているのか、怒っているのか、喜んでいるのか、聞き取る事は出来るのに、意識しなければ、一つの大きな騒めきに聞こえてくる。
そんな風景を前に、ヴィオレットの耳に一つの声がはっきりと届いた。
「町に降りてみるか?」
低く響く、優しい声が聞こえてくるが、ヴィオレットは振り向かない。
「獣王に、美味しいお菓子のお店があると聞いたのだ、よかったら行ってみないか?」
軽い雰囲気の声ではあるが、その声は微かに震え、不安の色がが見え隠れしている。
それでも、ヴィオレットは振り向かない。
「えっと、その耳と尻尾とてもよく似合っているぞ。」
声が完全に狼狽えているが、ヴィオレットは振り向かない。
「ヴィ・・・ヴィオレット?」
微かに震える声が名を呼び、ようやくヴィオレットは、声のする方へとゆっくりと視線を向けた。
「何でしょうか、マオウサマ。」
睨みつける事も、怒鳴る事もしていないが、その目と声色には、確かな怒りがこもっていた。
そして、その視線の先には、大きな身体を小さくして、眉尻を下げているガルシュダッドの姿があった。
頭には、毛で覆われた黒く尖った耳が乗り、腰辺りには細くしなやかな尾が伸びていて、どこからどう見ても、獣人だが、その面立ち、声色は間違い無くガルシュダッドだ。
「やはり怒っているのだな・・・俺が人族と、魔族の散歩が違う物だという事を説明していなかったから・・。」
耳を伏せ、力無く尾を垂らしているガルシュダッドに、ヴィオレットは小さな溜息を吐き出し、硬い表情をフッと緩めた。
獣王であるゾイアドスとの話を終えた後、デルタをゾイアドスの元に残したまま、ガルシュダッドとヴィオレットは、ゾイアドスに用意してもらった、城下町の宿屋に移動していた。
そこで初めて、ヴィオレットの思っている散歩と、ガルシュダッドの思っている散歩が、違うものだと判明し、魔族の散歩について、教えてもらったのだが、ヴィオレットは説明を聞いた直後、視線を窓の外に向け、現実逃避してしまっていたのだ。
「少し、腹は立ちましたが、悪いのは私です。私には、魔族の知識がほぼ無いと言われていたのに、今までの生活と変わりない生活をさせてもらっていたので、ついその事を忘れていました。ガルシュダッド様が悪いわけではありません、勉強不足な私が悪いのです。」
「ガルシュダッド・・・グッ・・・・。」
緊張しないように、サラリと言ったつもりだったが、ガルシュダッドが聞き流すはずも無く、噛み締めるように、手の平を強く握りして、ぶつぶつと何か呟いている。
そんなガルシュダッドに、ヴィオレットは不安そうな視線を向けていた。
「私は一応、妻ですから、旦那様と呼ぶのは・・やはり・・変だと思ったのですが・・・・嫌でしたか?」
気軽に呼びすぎて、ガルシュダッドの機嫌を損ねてしまったかと、ヴィオレットは不安になってしまう。
しかし次の瞬間、ガルシュダッドは、ヴィオレット座る椅子の前に跪き、キラキラとした目をヴィオレットに向けた。
「嫌では無い。全く嫌では無い。むしろ良い!!凄く良い!!」
力強いガルシュダッドの声が響き、ヴィオレットは顔を引きつらせた。
「そっ・・それは、良かったです。」
怒らせたので無くて良かったと、ホッとするべき所なのだろうが、予想以上に嬉しそうなガルシュダッドの姿に、ヴィオレットは、微かな身の危険を感じていた。
「とっ、ともかく、私はガルシュダッド様に・・・。」
「俺はヴィオレットの夫なのだから、様は不要だ。気軽にガルシュダッドと呼んでほしい。」
そう言って、自然にヴィオレットの小さな手が、大きな手に優しく包まれた。
勿論包んでいるのは、一応夫であるガルシュダッド・・・
「それは・・その・・まだ慣れておりませんので・・・。」
「そうなのか?それなら慣れれば、いずれは愛称で呼んでくれると言う事だな。」
名前に様を付けないで呼ぶだけのはずが、何故か愛称で呼ぶ事を期待されている。しかも、語尾に『な?な? 呼んでくれるんだよな? な?』と聞こえそうな、ほどキラキラとした瞳で。
なんとか 『ガルシュダッド様』と呼んでいる状態なのに、愛称で呼ぶなど無理だ。ヴィオレットは、返事を誤魔化す事にした。
「それより、ガルシュダッド様、今回の事は私が常識知らずだった事が悪く。怒っていたのは、ガルシュダッド様にでは無く、何も知らない私自身に対してです。」
かなり強引に話を変えたが、ガルシュダッドは一瞬眉間に皺を寄せ、不満気な表情を浮かべたものの、小さな溜息を吐き出しながら、ヴィオレットの話に乗ってくれる。
「いや、ヴィオレットが俺と散歩に行きたいと言ってくれた事に浮かれて、俺とヴィオレットの常識が違う事を忘れていた俺も悪かったのだ。」
ヴィオレットは、『魔王様と散歩に行きたい』とは言っていない。『お散歩がしてみたい。』と言っただけだが、わざわざ指摘出来なかった。
それに、ここに来る為には、ガルシュダッドの力が必要だったのだから、結果としては同じ事だったはずだ。
「そんな、ガルシュダッド様は悪くありません。勉強不足な私が悪いのです。ですから、私は先に城に帰り、ガルシュダッド様が戻られるまでに、魔族の常識を一から勉強しておきます。」
いくら身体が幼い少女だとしても、気持ちは充分大人だと思っている。だからこそ、形だけの妻であるヴィオレットが、このままガルシュダッド様とこの部屋に留まる事はできない・・・と思っていた。
「何故だ?」
驚きと、不安と、真剣さを含んだ強い瞳がヴィオレットを見つめている。それと同時に、包まれたまま・・・掴まれたままの手に力がこもるのを感じた。
「私には、魔族の常識が無いので、その事で、ガルシュダッド様にご迷惑をかけるかもしれません。ですから、先に帰って学んでおこうかと思いま・・・」
「魔族の常識ならば、俺に聞けば良いだろう。」
言い終わる前に、ガルシュダッドが被せる様に返答してくる。
「ですが、ガルシュダッド様にご迷惑をかけるわけには・・・。」
「妻の知らない事、知りたい事を夫が教えるのに、迷惑だと思う訳が無い。」
「それに、両親や皆に何も言わずに来てしまって、心配をしていると思うと・・・。」
「大丈夫だ、彼らには俺から言っておいたし、夫が妻を連れて散歩に出ているだけなのだから、問題無い。」
「それに・・・。」
ヴィオレットは、更に、帰るべき理由を言おうとしたが、突然ニヤリと不敵な笑みを浮かべたガルシュダッドの言葉で、それは中断された。
「まあ、ヴィオレットが何と言おうと、今すぐ魔界に帰るのは無理なのだがな。」
「え?」
ヴィオレットの気の抜けた声が部屋の中に響いた。




