秋
水面に紅い葉がひとひら漂う。
深山の日光と冷気で鮮やかに染まるという異国の樹木は、国外れの樹海のほとりでもその彩りを見せてくれる。
静かな漣と共にハクチョウがたゆたう。白い体躯に紅葉がまとわり、装いを誇示するように羽を広げた。
「麗しい……」
もっともそれは、ハクチョウをため息混じりに観察する騎士を威嚇しているだけなのかもしれない。バケツを片手に、かれこれ半刻も騎士は立ち尽くしている。
「騎士様、そろそろ日が沈んでしまいます」
平籠を片手に魔女は騎士を急かす。いつも通り大袈裟に、騎士は謝罪とも言い訳とも付かない言葉を述べた。
「おお、申し訳ありません魔女殿!かの鳥の姿を見ていると、時を忘れてしまうようで。もちろん、仕事を放り出したわけではないのです」
猫車を押し、騎士は水源を回り込む。刈り取った草を乾かし、植物のマルチングや動物の餌にする作業も、騎士が来てくれてからは随分と楽になった。冬に備えて行う準備はまだまだ残っている。今日は刈り草を干して、温室内の抽水植物の手入れをしよう。ついでに何か収穫も出来るかもしれない。
水源沿いの畑に干し草を敷き詰めた騎士が帰ってくる。金属音を響かせ走る騎士が気になったのか、ハクチョウが並走するように水面を滑った。
「お」
嬉しそうに騎士は庇越しにハクチョウを見つめる。魔女の元に駆け寄り、声を弾ませた。
「慣れてきたのではないのでしょうか!もしや、ここで冬を越すのかも」
「貴方を同種だと思っているのかもしれませんね」
騎士の兜を指し示す。ハクチョウの硬質で独特な形状の嘴を庇に用いた、壮麗な逸品だ。魔女の国では権威の象徴ともされる品だが、騎士の国ではごく普通に装飾品として用いられているのかもしれない。
「同種」
声に喜色を滲ませた騎士には悪いが、釘をさす。
「ハクチョウは縄張り意識が強い鳥です」
「なるほど」
すぐそばで羽ばたき始めたハクチョウを横目に、二人は退散する。
「クジャク殿よりは素直に見えたのですが」
騎士のぼやきを小耳に挟み、魔女は苦笑した。「素直ではない」クジャクが騎士一人の騎乗を許すようになったのは、つい最近のことだ。しかしハクチョウを手懐けて、どうしようと言うのだろうか。
温室に戻り、作業着の上に胴長靴を履く。温室内とはいえ少し冷たくなってきた池に入り、キカガクヒシの実やナシカヤツリの根茎を少し拝借する。でんぷん質の多い植物はそのまま火を通して食べても、砂糖漬けにしても美味しい。もちろん、晒してでんぷんだけを貯蔵するのも良い。厳しい冬の間の非常食になる。
水に浮かべた籠が収穫物の重みで少し沈み始めた頃、騎士が声をあげた。
「魔女殿、イモはどうしましょう」
春先の状態から持ち直したミズイモを指差している。これから水温が低くなってくると、病み上がりの植物には厳しいかもしれない。少し考えて、騎士に指示を出す。
「浅瀬に引き揚げましょう」
「了解であります!」
水面を波だて、騎士はミズイモの鉢を引く。南方の孤島から採取したというこの抽水植物には、まだ学名が付いていない。「ミズイモ」というのも便宜上そう呼んでいるだけだ。
先代の管理者が退いてから魔女がやって来るまで、温室はただの「倉庫」と化していた。寄贈された日と鉢の個数だけが記されたリストを見た時は、頭がどうにかなりそうだった。ミズイモのように名も付いていないものとそれ以外の植物の区別もされていなかったのだ。
これからは本格的に、騎士にも「本来の業務」をこなして貰おう。
ミズイモの葉に触れ、異変がないかをチェックしている騎士を見つめながら算段する。
一通り抽水植物の手入れを終えた後、騎士を机のそばに呼ぶ。
「騎士様に秋冬の業務を説明しましょう」
「ほお。秋冬は特別な業務があるのですか」
「本来なら植物の世話の合間に都度都度やるべきなのですが……秋冬は外に出ることが少なくなるので、集中しやすいのです」
ビューローの引き出しから分厚い目録を取り出す。年季の入った革表紙の目録は、魔女が温室にやってきた際に捨て置かれていたものだ。
「この目録には、温室と庭園の植物名が全て載っていなければなりません」
「……というと、載っていないのでありますな」
「残念ながら」
ページをめくる。おおまかに分類しようという気力は感じられるが、記されている種名は魔女が見立てた種名よりもずっと少ない。
「この目録をひとまず完成させなければならないのですが、それ以前にここには同定ができていない植物も多く在ります」
「ははあ、まずはラベルを付けていく必要があるのですか」
「はい。これまでもラベルが無い植物を見つけたらその都度確認をしていたのですが……」
まるで先が見えない。そこで騎士の手を借りたいのだ。
「その手伝いを、お願いしたいのです」
「勿論!思い通りにいかない身ではありますが、誠心誠意お手伝い致しましょう」
想像通りの返答だった。心の何処かで安堵しつつ、魔女は目録を閉じる。
「ありがとうございます」
一方で、「思い通りにいかない身」は気がかりでもあった。騎士の縛は予想が出来ない。作業中に身動きが取れなくなる事も幾度かあった。もっとも、時が経てば自然に縛は解ける。ほんの数刻が作業に大幅な影響を与えたことは未だ無い。
目録と野冊に興味を示す騎士を見つめ、魔女は僅かな不安を胸の底に沈めた。
「それでは早速、名前がわからない植物を探しましょう!」
魔女が不安に気を取られている隙に、騎士は声を張る。瞬時に現実に引き戻され、魔女は応えに幾ばくか手間取った。
手始めに、先程まで作業を行なっていた池の周囲を点検することにした。水中の植物にラベルが付いているのは、既に確認済みだ。鉢ではなく植え込みに植栽した湿地を好む植物を一種類ずつ調べる。
「魔女殿!こちらの植物、シダのなんらかのように見えますが」
「ああ、これはタテウラボシですね。他のシダと比べてみましょう」
その前に、ラベルに鉛筆で学名を記入し、しっかりと括り付ける。鋏でタテウラボシとヘゴの葉を裁ち、両者を騎士に差し出す。
「葉先と、胞子嚢の付き方が違いますね。あとタテウラボシは葉を二種類持っています」
「むむ……」
悩む騎士に胞子葉と栄養葉の説明をする。ひとしきり話を聞き感心するようなそぶりを見せた後、騎士は溜息をついた。
「植物も、声を出してくれたら有り難いのですが」
「まあ」
騎士の言葉に魔女は目を細める。
「そうしたら少しは同定も楽になるでしょうに」
「きっと、植物は自己紹介なんてしてくれませんよ?」
「だとしても、あいつとは別人だ、くらいは言ってくれるでしょう」
「……聞いてみますか?」
魔女が告げると、明らかに騎士は狼狽えた。胸に手を当て、囁く。
「それはその、魔法というものでしょうか」
「ええ」
魔女の魔女たる由縁だ。奇蹟にはほど遠い、些細な御技。
「少し、耳をお借りすることができるのなら」
「耳ですか」
「触れる必要があるので」
暫し沈黙した後、騎士は地に片膝をつく。
「御手を」
兜の面頬を跳ね上げ、両手を差し出した。兜は取りたくない、と以前告げていたことを思い出す。
無遠慮だったかもしれない。
そう思いつつ、無骨な籠手に手を重ねる。
騎士の手に導かれ、魔女の手は兜の内へ収まる。魔女の視点からは騎士の顔も自身の手も見えない。僅かに触れた無精髭の感触に、指が跳ねる。
「失礼」
「こちらこそ」
お互いに気まずげな応酬を交わした後、冷たい肉が指先に触れた。
耳朶だ。
掌で騎士の耳を覆い、目を伏せる。
鳥の声が退き、深みから囁き声が這い上がる。
「う」
騎士が唸った。革帯がのたうち、騎士の腕を縛める。すんでのところで魔女は手を引き、騎士に声をかけた。
「大丈夫ですか」
「失礼、少々動転してしまいました。いやはや、あれが植物の声かと思うと、こう」
身震いをする。超常に触れた畏怖からだろうか。騎士の声は常より低く響いた。
「魔女殿には四六時中、あれが」
「いいえ。耳を澄ませた時だけです」
魔女と呼ばれる前に、廃人になる者は多い。だからこそ、資質を持った者は目を閉じ、耳を塞ぐ訓練を受ける。魔女は運良く、付き合い方を学ぶ機会があった。
「しかし割と、素直なんですな植物は」
すっくと立ち上がり、騎士は紅い実を付けた木に駆け寄る。
「食べごろだそうです」
「この木が、言っていたのですね」
「そうですとも!植物本人……本人?が言うからには間違い無いのでしょう」
太い指先が、実を摘み取る。慌てて魔女は声を張った。
「お待ちください!それは毒ですよ」
「えっ?」
「……タマゴソケイは、遅効性の猛毒を含んでいます。種子の外皮が胃で十分に消化された後、実を食した動物を殺して養分にするのです」
騎士は手にした果実をしばらく見つめ、恐る恐る両手で包み込んだ。
「我輩、騙されたのでしょうか」
「利用されるところでしたね。植物の思惑通りに」
どこか悲しげな騎士に、フォローにもならない言葉をかける。
「タマゴソケイとしては、騎士様に食べてもらいたいという声は確かな本心でしょう。誰かに食べてもらわないと、芽吹くことが出来ないのですから」
どんな生物も利己的なのだと、誰かが言っていた。その「誰か」の面影を思い起こすのに、幾ばくか時間がかかってしまった。
騎士の掌から、木の実を拾う。
「植物も人も同じです。利己的な本能が根底にある。でも、植物の囁きは……純粋だと思いませんか。取り繕う人と違って」
魔女は植物の声は聴けても、人の心は聴くことが出来ない。だから尚更、そう思えてしまう。
縛められたまま微動だにしない騎士に気付き、魔女は目をそらす。
「すみません、変なことを言って……でも、タマゴソケイと違って、私は騎士様にこの実を食べてほしくはありません。これは本心です」
そうして、木の実を掲げる。
「でも、種子には薬効もあるんですよ」
魔女が口角を上げると、気が抜けたように騎士を縛める革帯が解けた。陽気な声で騎士は聞く。
「毒であり薬でもあるのですね」
「多くの植物が当てはまります。適正な量を見極めるのが肝心です」
「ははあ」
厳しい籠手の指先が、木の実を指した。
「有事の時は、こちらが利用して差し上げましょう!」
「健康が一番ですね」
そうして、木の実を植え込みに埋めた。
籠手から土塊を払いながら、騎士は辺りを見渡す。
「して、もう一株声の大きな植物がいたような」
鉢植えが集まる一画を騎士は移ろう。葉を優しく掻き分け、鉢をずらしながら「声の主」を探しているようだ。
その姿を見て、魔女も耳を澄ませる。
渇望の声が鼓膜を突いた。
「魔女殿、見つけました!」
一点を見つめる。鉢を抱えた騎士は慌ただしく駆け寄ってきた。
「土だけが入っているように思えますが」
傾けられた鉢を覗き込む。湿り気を帯びた腐葉土を少し掘ると、拳大の球茎が現れた。
慌てて、魔女は埋めもどす。
「休眠でしょうか。見たところユリかヒガンバナの仲間のように見えます」
球根や鱗茎を持つ植物の多くは、成長期と休眠期を繰り返す。この植物はちょうど葉を落として休眠期に入った個体なのだろう。
「ややっ」
騎士が首をかしげる。
「そういえばこの鉢、ラベルがありません。一体全体何者でしょうか」
魔女もまた首をかしげる。この鉢には見覚えがある。この温室に来てからではない、ずっと昔に……
「もしや、魔女殿もご存知でない?」
訝しげな声に首を縦に振る。見覚えはあるが、今の魔女では属名の見当もつかなかった。大人しく文献の力を借りよう。
「この鉢を寝台のそばに運んでもらえますか。後で同定しましょう」
「はい!」
元気良く返事をして、騎士は鉢を運ぶ。その後ろ姿を眺めながら、魔女は何処かに引っかかった既視感と違和感から気をそらした。
鉢を運び終えた騎士とともに、次の植え込みを探す。熱帯雨林の植物が密集する一画で、ウナズキオウムバナやドウガネアナナスにラベルを付ける。一方で目録に記載のないグンバイウツボカズラは新たに記入した。魔女の腕程もある補虫袋の中身を確認していると、茂みの中から素っ頓狂な呼び声が響いた。目録を抱え、声の元へ向かう。
「魔女殿!」
「どうしましたか」
騎士が温室の硝子窓を指差す。秋の陽光に照らされ、波打つ黄緑色の影が硝子を這い上っていた。
「ここの植物は馴染みのないものばかりですが、我輩、あの植物は知っておりますよ!」
声を弾ませ、騎士は胸を張る。
「あれは、月下美人です。そうでしょう」
「はい、その通りです」
魔女が頷くと、騎士は得意げな忍び笑いを兜の隙間から漏らした。
「ふふふ」
「騎士様の国でも、人気の花でしたか?」
「ええ!もっとも、我輩は図鑑でしか目にしたことが無いのですが……」
十数年前に新大陸からもたらされた月下美人は、植物を育てる者なら誰もが欲する憧れの花だ。夜の僅かな時に咲く、白く芳しい大輪の花は、一目見たら忘れられない。
「この温室でも育てていたとは。今気が付きました。あのように張り付いて成長するのですね」
「着生といいます。確かに見つけづらいかもしれませんね」
季節によっては逆光で見え難い位置に、月下美人は陣取っている。その葉の陰で小さなコウモリが休んでいた。
「それに、蕾が!」
騎士が一点を指差す。
白い指を絡めたような蕾がいくつか下がっている。いずれも充実しており、今夜にでも開くだろう。
「……東洋では春に花見を、秋に月見をするそうです」
蕾を見上げながら魔女は呟く。古い紀文に記されていたことだ。
「騎士様、今夜は満月です。両方楽しめるのではないのでしょうか」
騎士ならきっと、魔女の提案にこころよく乗ってくれるはずだ。魔女は騎士の様子を伺う。
しかし思惑とは裏腹に、騎士は身動き一つせず縛められていた。
「月ですか」
初めて聞く声音だった。俯き加減のまま、騎士は上体を揺らす。
「月ですか。うーん。月は怖いです。それも、満月なのでしょう?まじまじと観ると、でも……」
か細く呟く騎士の傍で、しばし戸惑う。思い当たる節があって、意を決して声をかけた。
「騎士様。その、失礼しました。無理を言って」
「良いですね、良いでしょう!」
上擦った声で、騎士は叫んだ。身を竦ませた魔女の手を、籠手が握りしめる。
「是非とも、楽しみましょう!花を愛で、月を賛する、素晴らしいことではありませんか」
裏腹に、手は震えていた。
騎士の様相にかける言葉もなく、魔女はしばらくの間、無言でいた。
解放された後、予定を変更する。
「では、花見の準備をしましょう」
「準備」
「ええ。いつもより少しだけ、食事を豪勢にしたくはありませんか?」
魔女の言葉に、明らかに騎士は浮き足立った。紀文には「花よりダンゴ」なる言葉も載っていた気がする。
「町に出て、買出しをしましょう」
無論、花見のためだけではない。そろそろ領主に顔を見せる頃合いだし、何より今は閉塞した空気を変えたい。
「クジャクの用意を」
そう告げる間も無く、騎士はクジャクの名を呼んだ。
鞍をかけ、いつからか手綱を預かるようになった騎士に手を貸してもらう。軽々と魔女の体を引き、自身の後ろに腰を下ろしたことを確認して、騎士は合図をした。
「よろしく頼むでありますよ」
みゃあ、とクジャクは一声鳴いた。
幾分か手慣れた様子で騎士はクジャクを馳せる。頬を撫でる風が心地よい。馭することに関しては、魔女よりも騎士の方が経験豊富なのだろう。
温室の硝子の反射が見えなくなり、教会の尖塔が遠く現れる。魔女が御するよりも早く、二人と一羽は町に着いた。
門の手前でクジャクから下りる。
「買出しの前に、領主様に顔を出してきます」
「我輩も同行します。領主殿に改めてご挨拶をせねば!」
乗り気な騎士の傍、三ヶ月前の面会を思い出す。その時は騎士の顔合わせも兼ねて領主と会ったのだ。
結果として、領主の疑念は晴れたが心労を増やしてしまった。
見送りの際の「何かあったら何なりとお申し付けを」という言葉と不安げな目は忘れられない。
しかし魔女としても、騎士が無害な人間であることを示しておきたい。連れ立って、館に向かう。
門前の使用人が、こちらの姿を認めて一礼した。こちらも一礼をして、門を潜る前に領主の所在を確認する。
「領主様は、いらっしゃいますか」
魔女の問いに、使用人は少し困ったような表情を浮かべた。暫し口ごもり、囁く。
「はい。しかし、今は来客がありまして……」
その目が、門奥の馬小屋を示した。魔女もまた、奥の方を見やる。
均整の取れた栗毛の馬がいた。中央でもなかなか目にすることがない、立派な馬だ。
貴人だ。
そう直感し、魔女は再び問う。
「差し支えなければ、どのような方か」
「魔女殿」
突如耳元で、騎士が低く呟いた。背筋が総毛立つような思いで、魔女は言葉を呑む。
「やはり我輩、買出しをして待っています。領主殿へのご無礼をお許しください」
ゆっくりと告げる声に、軋む音が重なる。視線を下げると、革帯が痛いほどに騎士を縛めていた。
「……わかりました」
そう答えるしかない。魔女の返答に騎士は明らかな安堵を見せ、努めて朗らかな声を出した。
「感謝いたします、魔女殿!それでは、買出しは我輩にお任せあれ!」
告げるや否や、クジャクを連れ市場へ向かう。こちらを気にしつつ遠ざかる姿を見届け、魔女は門を潜った。
いつもの領主の出迎えも無く、使用人と共に居間へ向かう。閉ざされた扉の向こうから、どこか険のある話し声が聞こえてきた。
「死体でも人狼でも、どんなモノに成り果てていても良い。かの銀月の騎士と疑わしきモノがあれば、即刻引き取ろう」
「私どもでは今現在そういったものは把握しておりません。何かわかり次第、お伝えはしますが」
「心強い。中央に伝えてもらえれば、我らも即座に馳せ参じよう」
暫しのやり取りの後、扉が開いた。
赤毛をなびかせ、鎧の美女が居間を出る。中に向かって一礼し、こちらを向く。
「失礼」
よく響く声でそう告げて「女騎士」は魔女の横を通り過ぎた。小脇に抱えた兜が、騎士のそれとよく似た造りである事に気付き、魔女は息を呑む。
身動きも出来ず固まっていると、居間から出て来た領主に声をかけられた。
「殿下、申し訳ございません。急な客人がありまして」
「先程の方ですか」
後ろを向き、既に女騎士の姿が無いことを確認して領主に聞く。領主は憔悴した様子で頷いた。
「……隣国の聖騎士です。以前お話しした、王を害した騎士を追っているようです」
春の噂が、脳裏をよぎる。
身に覚えなどあるはずもないのに、心臓が脈を速める。
「殿下。顔色が優れません。さあ、中へ」
余程気分が優れないように見えたのか、領主は慌てて魔女を導く。居間の席に着くと、すぐさま侍女が白湯を運んできた。
「……ありがとうございます。その、聖騎士と聞いて動揺してしまって」
「無理もありません。私めも寿命が縮まる思いでしたから」
ひと心地ついた後、近況を報告する。温室のこと、騎士のこと、冬支度のこと。逆に魔女も、領主に質問をする。
「……夏にやって来た近衛の近況などは」
「中央へ送り返した後、音沙汰はありません。ただ、彼のお父上の方は、どうも芳しくない状況のようです」
「芳しくない、というと」
「……前将軍が、未だ中央に滞在していると。主家の用件で来ているようですが、どうも疑心暗鬼になっておられるようで」
そうして言葉を切り、殊更声を潜めて領主は呟いた。
「陛下も、気を揉んでいるようです」
「……」
本当に、小心者だ。
魔女は呆れる。
「あの方は、地位など眼中にも入っていないでしょうに」
「しかし、復位を求める者は大勢います」
失言のように聞こえた。慌てて話題を変える領主を見て、改めて現体制の無徳を思い知った。
先帝は流血をもって、帝位に就いた。「暴君」と呼んで差し支えないだろう。彼の治世の根底には恐怖があった。一方で、確かに国は豊かになった。先帝の右腕として手腕を発揮していた先の将軍を慕う者が多いのも、かつての栄華を思うあまりなのだろう。
今の皇帝は、ただ血を継いでいたから帝位に就いた。彼は何をなしたのだろうか。
手の中の水面を見つめる。
不安げな瞳が、此方を見つめ返していた。
生存確認を終え、館を後にする。馬小屋に目を向けると、既に栗毛の馬はいなくなっていた。安堵して、魔女は騎士を探し始める。
門を出て、市場に立ち寄り、館の周囲を一周する。
町内のどこにも、騎士の姿は見当たらなかった。
不安に襲われる。行きつけの店を覗き、店主に声をかける。
「すみません。こちらにクジャクを連れた……兜の男性はいらしていましたか」
「ああ、お弟子さんですか」
店主は町の外へ続く道を指差す。食材を買い上げ、クジャクと共に去ったようだ。
勝手に温室に向かうことはあり得ない。店主に礼を告げ、魔女は小走りで町外れに向かう。
果たして騎士は、町外れの大樹の陰に腰を下ろしていた。
胸を撫で下ろし、魔女は騎士の元へ向かう。
「騎士様」
傍らで膝をつく。縛られた騎士は魔女の心中など気にも留めていない様子で、呑気に呟いた。
「おお、魔女殿。ご用件は済みましたか」
「はい。騎士様も、買出しは済んだようですね。ありがとうございます」
草を食むクジャクの背に積まれた荷を見て、魔女は微笑む。
「帰って、月見の支度をしましょう」
「そうでした。そうでしたな魔女殿。今日は満月です」
腕を交差したまま騎士は立ち上がろうとする。脇を支えると、騎士は照れ笑いのような声を漏らした。
縛が解けるまでは歩くしかないだろう。クジャクの手綱を取り、帰路に着く。
町を一望する丘に差し掛かる。少し暗雲のかかった空を見上げる魔女の隣で、革帯が解けた騎士は伸びをした。
「やっと落ち着きました」
兜の奥で深くため息をつく。
「やはり、動揺すると駄目ですな」
ほぐすように手首を振る騎士に、魔女は恐る恐る問う。
「動揺、といいますと」
「なんだか昔の知り合いに似た方を見かけたのです。魔女殿も覚えはありますか?知古と会うのがこう、気恥ずかしいというか恐ろしいというか」
言わんとするところはわかるし、魔女も経験はある。
夏の来客がそうだった。
しかしそれ以前に、魔女は騎士に不信感を抱いていた。
知り合いに会いたくないのは、後ろめたいことがあるからでは。
そう問う勇気は、今の魔女には無かった。
再びクジャクに騎乗し、温室へと帰り着く。保存食用の砂糖は食料庫に一旦納め、秋の夜長の夕餉を用意する。マンネンロウで香りをつけた塊肉に、書物に載っていた豆のパイ、ふかしたイモノコ、デンプンを丸めて茹でたダンゴなるもの、収穫したばかりの木苺類。いずれも急拵えだが味は悪くはない。と、味見をしながら魔女はひとり悦に入った。
「机を運びましょう!」
寝台横の卓を騎士は抱え上げる。おそらく花の傍らに運ぶ気なのだろう。騎士の発案に了解の返事をして、魔女は料理の盛り付けを続ける。
四角錐形に積み上げたダンゴを崩さないように持ち運ぶ。月下美人と卓が見えたところで、騎士が出迎えダンゴを取った。
「咲いておりますよ!」
皿を卓に置き、騎士を空を指差す。硝子の壁に白い花。秋の斜陽に仄かな芳香が漂う。
「夜の女王」の異名を持つ麗しい花を見上げ、魔女は嘆息した。
「色んな花を見てきましたが」
騎士が用意してくれた椅子に腰掛ける。
「月下美人だけは、見るたびに今宵が最も美しいと思ってしまいます」
そうして、細やかながら秋の晩餐を騎士とともに楽しむ。元々月見とは、収穫を終えて冬の到来に備える区切りの行事でもあったらしい。温室の仕事も、そろそろ区切り時だ。
卓を照らす光が冴える。
魔女は空を仰いだ。
銀月が、雲間から出でる。
ああ、と騎士がため息をつく。
「……魔女殿。月は理性を奪う、という話を聞いたことがありますか」
騎士の言葉に、首を縦に振る。
月に打たれる。狂気に飲まれる事を、魔女の国ではそう表現する。
「我輩、その話を聞いて怖くて怖くて。こんな満月の夜は、空を見上げないようにしてきたのですが」
椅子の背に体を預け、庇も上げず、騎士は呟く。
「不思議と、今は心穏やかです」
その両腕は、固く縛められている。
何よりも正直で雄弁な拘束を見て、魔女は意を決した。
「騎士様」
「なんでしょうか」
「その服は、必要な時に騎士様を縛めると聞きました」
「おお、その通りですとも」
「何故、そんな服を」
音が無くなる。
鳥も、虫も、木々も、今ばかりは息を潜めた。
「……人から暴力性を削ぎ落とせば、何が残るのでしょうか」
騎士の言葉に、木々が耳を澄ませる。
「人の本質は、神の恩寵は、愛だと信じてきました。でも、実際のところ我々は愛からは程遠い存在です。騎士から信仰を除けばただの人殺しです。貴婦人への奉仕も肉欲と何が違うのでしょう。もしくはそれが愛なのでしょうか。こんなに浅ましい我輩にも、暴力以外の何かがあるとでも」
騎士が身を起こす。咄嗟に魔女は席を立とうとして、椅子の肘掛に阻まれた。
「この服は暴力を許しません。ただ理性と信仰に基づく行為を許します。それがあるべき騎士の姿です。人の姿です。そう信じているから、我輩はこの服を賜ったのです」
吐息が漏れた。
それが騎士のものなのか、それとも自身のものなのか、魔女には判別がつかなかった。
騎士は騎士でいるために戒められる事も良しとしている。わかった事は、それだけだった。
「しかし一度、服が暴力を許したことがありました」
血で汚れた剣が、脳裏をよぎる。
あの剣はどこに行ってしまったのか。
「あれは正しいことだったのでしょうか。神の愛を示したのでしょうか」
きっとそうなのでしょう。
そう呟いて、騎士は再び空を見上げた。
「こうやって穏やかに月を眺められているということは、少なくとも我輩、正気を失ってはいないのでしょう」
兜の下でくぐもった笑い声が聞こえる。
「しかし久々に月と向き合うと、我輩名前負けしていないか不安になりますな!」
「名前負け、ですか」
なんとか魔女は声を出す。騎士の剣幕に気圧されてしまって、やっとの事で発した言葉は鸚鵡返しのようなつまらない言葉だった。
「ええ、ええ。我輩、かつては銀月卿などと呼ばれていたのですよ」
騎士は席を立つ。月光の下、白鳥嘴の庇と拘束具が微かに白銀の煌めきを見せた。
その威容は確かに、「銀月の騎士」の名に恥じないものだった。




